君は誰かの青い薔薇
時刻は既に深夜だった。
ベッドに入ってしばらくしたころ、俺の耳は静まり返ったアジトの廊下をそろりそろりと近づいてくる忍び足を聞きつけた。先程からちっとも読み進まない書物を両手でぱたんと閉じ、上体を起こす。
蝶番を軋ませて扉が開いた。
「ただいま」
「遅かったな」
「悪ィ、ちょっと昔の仲間と会ってたんだ。なかなか抜けられなくてさ」
デイダラは情けない顔で言い訳しながらもたもたと外套を脱いで椅子に掛けた。その手つきから随分酔っていることが分かる。
俺は近づいてくる奴の臭いに顔をしかめた。
「お前……その匂い」
酒に隠れた仄かな芳香。汗だけじゃない。混じる不純物に気が付いてしまった。
「え、あ……ごめんよ。臭かった?」
「何で謝んだよ。お前が誰と会おうがヤろうがこっちが口出しすることじゃねーだろ。俺じゃあ役不足なんだから」
デイダラの片眉がきゅっと上がった。
「……ちょっと待ってくれ。そんな、オイラ、別に疾しいことなんて……今日だって、知り合いに誘われてクラブに入っただけで」
「――言い訳なんて、必要あんのか?」
思いのほか声が大きくなった。
自分でも分かっていた。感情が高ぶってうまく制御できていないこと。
俺がこちらに伸ばされた奴の腕を乱暴に振り払うと、奴はひどく傷ついた顔をした。しまったと思ったが、今更謝ることもできずに目を逸らしてしまう。
「旦那……なんで、」
「お前、本当は不満なんだろうが。濡れねえ、感じねえ、もともとそんな相手で満足できるはずねえんだ」
「おい、待てよ。そんな言い方じゃ、まるでオイラがはなから身体目当てみたいじゃないか」
物わかりの悪さに苛々した。
「そうじゃねえ。俺に気遣って我慢する必要ねえっつってんだ。だって、お前は人だ、男だ。俺とは違う、生身の身体を持ってる」
「……ああ、そう、そういうことかい。うん。アンタの中じゃ、オイラは自制のきかねえお子様かい」
デイダラの声は震えていた。奴は少しの間まだ何か言いたそうにしていたが、諦めたのかくるりと踵を返す。
「じゃあ勝手にさせてもらうぜ」
いかないで。本当はそう言いたかった。
――でも言えなかった。
俺がベッドに身を投げ出した背後でバタンと派手に扉が閉まる音がして、それからすぐに静寂が訪れた。
――馬鹿みたいだ。
デイダラに腹を立てているだとか、疑っているわけではないのに、気持ちが伝わらないのがもどかしい。
俺に素直さが足りないのは自覚していたが、弱みを見せたり甘えたり、そんな女々しい真似はどうしてもプライドが許さなかった。
若いデイダラが性欲を持て余しているのは以前から知っていた。
けれど肉体を持たぬ俺に奴の期待に応えることはできない。かと言って奴が他の相手と関係を持つのは不愉快だが、俺の存在を足枷に思われるのも気に食わない。自分の中で矛盾した感情は結局伝わらず、相手を怒らせてしまった。
「くっそ……あのばか……察しろよデイダラのあほんだらぁ……」
枕に顔をうずめ、手ごたえのない布団をばしばしと叩いた。
あいつがどこまでヤったかどうかなんて俺には分からない。道具や部下を使って確かめる手段はいくらでもあるが、知るのが怖くて踏み切れない。
再度「ばか」と呟いて、あおむけに寝転がった。
――あいつはいつ機嫌を直すだろう。
――今回はさすがに無理かもしれないなぁ。
深々と溜息をついて目を閉じた。
20121014
御題:月にユダ
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