#9-7


 再び顔を上げたミキは、憎悪という憎悪をかき集めた顔つきでアンネを睨み据えた。彼女の手には、あらかじめ預かっていたハンドガンが握られていたが、アンネは無気力なままでそれを見送った。……只、そう、指摘だけはしておいた。

「……そんな手つきで、撃てるのかい?」
「――これは……これは別に貴方を殺す為の銃じゃないわ。それに、貴方一人を運よく仕留めたって、結局何も変わらないもの」

 もう、分かり切っている。そんな口調で言いミキは虚ろな目で笑った。アンネはしばし考え込んでから、その意味を理解した。……いや、理解していたのだが、あの雪の日の朝の事が思い浮かんだ。それから、あの時にごめん、と自分に謝った、スミルノフの表情を思い出していた。

――どうしてだ。どうしていつもそうなんだ? 

「……、君は……」

 君達は、どうしていつもそういう目をするんだ。――これから死ぬのかもしれないというのに、まるでそれを望んでいたかのような目を……あらゆる感情が、アンネを脱力させていた。臓物を全て取り除かれ、何もかも空洞になってしまったかのような空虚を覚える。――蔑みとも高揚とも取れないミキの瞳の中には、いやに疲れ切った自分の顔が映り込んでいた。

「貴方には大切な人がいないの? 自分の命に代えてでも、守りたい人が」

 泣き笑いのようなミキの表情が、最後に見たスミルノフの顔とまるまる被った。やめろ、と思ったがそれが何に対しての感情だったのか自分自身が一番よく知っている筈なのに、皆目分からなかった。

「……笑えるな」

 それから、自分でも驚くくらいに見下したような声が漏れていた。アンネのその言葉を受けてなのかは知らないが、ミキは手にしていた銃をよろよろと握り直した。

「今、そっちに行くからね、かず君」

 ミキはどこでもない場所に向かって、笑いかけた。果てしない疲労を感じさせるような、くたびれた微笑みだったが、長い呪縛から解き放たれるかのような神々しさを同時に纏っていた。――言い残すと、ミキは銃口を咥えた。

「っ……、駄目だ。よせ!!」

 一瞬のうち、本当にあっという間に全てが進んでいるのが分かった。結果は分かっていたのだが、アンネにそれを止める事は出来なかった。理性よりも、感情がそれを拒んでいた。鼓動は速かったが、気持ちはやけにおだやかで、だけど全身から力が抜けていた。

 彼女は、絶対に外すつもりなどないその状態で躊躇いもなく引き金をひいた。許されたように動き出したアンネだったが、ミキを引き剥がした。顎を残して、その頭部は綺麗に吹き飛んでいた。――助かりようもないのは、誰が見ても明らかだった。

「あーんねちゃーん!……って、あッ、うっそぉ。女、死んでんじゃん!?」

 追いついたエリーの能天気な声の場違いさといったらなかったが、それでもアンネは頭部の弾けたミキから目を離せなかった。背後からエリーがそれを覗き込みしな、口元を覆いこんで盛大に蹲った。……エリーは不思議な奴で、男の死体は平気なのに女の死体はめっぽう駄目らしく、こうやって嘔吐する事が多かった。……美しかった顔は弾け飛び、真っ赤に変わり果てたミキの遺体。傍らには首だけになった、ユイの二人分の命を失った器。

 しかし、アンネの思いはどこか別の所にあった。

 人を傷つけるのはこんなに簡単な事なのか。どこも身体を傷つける必要はないんだ。相手が大切にしているものを思いきり蹴飛ばすだけでいいんだ――、その事実が悲しくもあったし恐ろしくもあった。アンネの背後では、エリーはヒイヒイと呼吸を荒くさせながら、まだ嘔吐の余韻の残る口調で言った。

「うひィー、きっつぅ……。女性のグロいのって何か無理なんスよ俺……うえっぷ、むりだー」
「エリー」
「なにぃ〜??」
「……スカーレット様の元に、戻ろっか」

 そう言って顔を上げたアンネの顔は、いつものあどけない少年らしい笑顔だった。ねえ、もうこんな時間だからどこかお昼ごはんにでも行こっか? 何食べたい? 僕なんでもいいよ。……そんな感じの。ある意味では異常なのかもしれないが、そうだ、彼らの間では造作もない事だった。慣れてしまえばどんな狂気だって正気になる。大勢がそれを普通だと言えば普通のことなんだ。……忘れていた。そういう世界だったんだ、この街は。

「……お腹減ったね、今日は朝からずっとこの仕事だったから」
「え……そ、そうかなぁ? 俺はあの光景を見ちゃったら、何かちょっと食欲出ないっす」

 今の僕は泣きたくなるほどに弱い。弱いものを傷つけなくては自尊心が保てない程に弱い。……僕ははじめから愛のない世界を、只生きたかったのかもしれない。

――ねえ、スミルノフ。僕が、僕のような人間が生き残っているんだよ。今日も生きながらえているんだよ。それなのに、未来を生きる希望があった女の子が二人、目の前で死んだんだ、僕のせいで。――スミルノフ。お願いだよ。教えてくれよ。君は何であの時あんな真似をしたんだ? 残された僕に、こういう思いをさせたかったからなのか?

 アンネはその途中でふと立ち止まり、雪の上に崩れ落ちた。

「……、アンネちゃん?」

 不安そうに思うエリーの顔が、何とも常識的な存在に思えるから不思議だった。

(スミルノフ……僕は、君がいないと……もう――もうダメなんだ)



 サロの街を歩くと、どういうわけなのか大概どんなものにも出会えるし見つける事ができる。今宵もやかましく鳴り響いていたパトカーが遠ざかっていくのを聞きながら、街を歩く者たちが各々振り返る。見慣れた者は「またか」とすぐに興味を失くしたように向き直り、再び足を進め始めただけだった。

「――警察が立ち入れない場所だからな、ここは。法律が通用しない区域だからだ」

 口には出さず、不思議そうに只背後を見つめていた櫻子に答えを寄越したのは隣の男だった。男は、片方が義足だった。片方の手で杖をつきながら、男はもう一方の手をコートの中に滑らせていた。櫻子はその行動から先を見通したよう、自身もまたライターを取り出し、火を差し出したのだった。


「……そうなの? だったら、悪い事をしたら身を隠すのには画期的な場所なのね」
「まあ、代わりに一度逃げ込んだら出るのは難しい場所だがな」

 煙草に火が灯ったのを確認し、櫻子がその手を下げた。

「ここの顔役は公安側と協定を組んでいる。……賢いやり方だ、組織に儲けの一部と楽しみを与える代わりに互いのビジネスには一切口を出さないし阻害するような真似はしない。ましてや、暴力沙汰になった場合にも双方の命は奪わない。――まあ合理的だな、お互い納得し合っているんなら文句を言う必要もない」

「だから、あんなに若い女の子達が平気でああやって道に立っているのね。あの子、多分私より年下だと思う」

 そう言った櫻子の口調は決して嘆いていたり、憂いたりしているようなものではなかった。かと言って興味があるような口ぶりでもなく、極めて平坦な、何の感情も込められていないかのようないやに落ち着いた声だった。

「ああいうのはいわゆる私娼というやつだろうな。……どこの娼館にも拾われなかったのか、それとも自分の意思かは知らんが――まあいずれにせよ自ら望んで身体を売っている哀れな女共だよ」
「貴方がそんな台詞吐くのも何だか可笑しいけどね」

 連れ添う二人の姿は傍目から見れば、明らかに異質でしかなかった。年齢の差は確実に親子程離れ切っていたし、かといって家族と呼ぶにはおかしな佇まいをしている――櫻子はその男の腕を取りながら、片脚のないその男に寄り添うようにして歩いていた。いつもの制服姿の時とは違う櫻子の佇まいだったが、背中の開いた黒のスリットドレスを纏っているせいなのか、いつもよりうんと大人びて見えた事には違いない。それでも、隣に並ぶ男より一回りも二回りも若い事には変わりなかった。

「それで? この前から貴方が随分と会いたがっているその人は、一体どこにいるのかしら」
「――何せご多忙なお方だからな、そもそも今街にいるかどうか。クレメンザを向かわせたが、残念な事に彼からまだ返事が来ないんだ」
「あらかじめ確認しておかなかったの? これで接触出来ないんだとしたら二度手間だわ」
「それがどうも彼女に避けられているのか、こちらから接触を図ろうとしても全く捕まる気配がなかったからな。紳士的に対応したくとも叶わなかったというわけで、多少強引に行かせてもらった」
「……相当嫌がられているのね。何か嫌われるような真似、したんじゃないの? 貴方って時々とても無神経だから」

 櫻子がどこか呆れたような顔と共に肩を竦めたが、男の方は意に介した様子も見当たらなかった。いつもの調子で、「さあな」と受け流しただけだった。

「……ある意味期待通りの賑やかさだな、この街は」

 クレメンザのぼやきに、隣にいた男が「はあ」と随分と素っ気ない相槌を打った。これは決して彼に悪気があるわけではなく、この男には基本、学というのか、引き出しがない。――元よりろくすっぽ学校へも通わず、望んでこの道に落ちたような人間に教養も何もあったもんじゃない。今しがた引き連れている奴らは、大体がこういう返答しかなく会話が成り立たない事をクレメンザは知っていた。

 こうやって一つ会話が途切れるたびに、何を期待していたのかバカバカしくなる程だった。クレメンザは手にした下らない荷物でも置くかのように、退屈そうな顔でついてくる男に言い放ったのだった。

「――ところでお前、きちんと腕時計をした方がいいぞ。スマートフォンで時間を確認するのはよせ、ヴィトー様の前でやると機嫌が悪くなるからな」
「はぁ。ありがとうございます」

 どこか噛み合わない表情と返事に、クレメンザは日頃彼らがどういう会話で盛り上がっているのか大方想像がついた心地だった。そしてその心中を読んだよう、別の男がヘラヘラと口を挟んだ。

「あのぉー、クレメンザさーん、黒蜥蜴の館ってめっちゃキレーな女揃ってるらしいですねー。何かちょっと期待しちゃいますよねー、今回の商談上手くいったらいっすねー、何かご褒美あればいいっすよねー」
「そうだな。だったら、一切粗相のないようにな」

 クレメンザはたった一言でそう切り返しただけだったが、さすがにこの世界で鍛え上げ今や組織の参謀とまで上り詰めた風格と迫力があった。男はそこで出鼻を挫かれたようにさっと口を閉じた。そこで既に勝負はあったようなもので、背を向けるクレメンザに男は負けを認めたように苦笑を浮かべるばかりである。

「……しっかし真面目というかカッタイんだよなあ〜、あの人。俺達の下ネタにもさっぱり食いついてこないし、浮いた話どころか女の影もないじゃないっすか、過去の恋愛とか、経験人数とかスゲー気になりません? 自分の話とか全くしないから私生活もほとんど謎だし」
「そういう話するとむしろ殺されるぞ、スケベな話とか馬鹿な話は全く通じないしな……しかも、あれでも俺より五つも下だぜ? 一体何を楽しみに生きてるんだよ、まだあの若さで」

 死んでるのと同じだな、と別の男が笑うのをクレメンザは背中を向けるふりをして聞いていた。――男の笑い方が、自分の父親と被り途端に苛立ちを覚えた。

 クレメンザは、自分の両親が働く姿を見た事がない。そのせいで、労働するという事の意味や、働いて対価を得るという事の意味や、金銭というものの感覚も長い事よく分からなかった。そもそも分からないという自覚さえなかったのかもしれない。周りの同年代の子達から、「お父さんは何の仕事をしている人なの?」という話になった時も、「さぁ? しごとって、何?」と平然として聞き返した事もあった。

 周囲のそんな反応を見ているうちに、クレメンザは誰から教えられたわけでもなく自然と知っていく事がいくつかあった。
 普通の家のお父さん、お母さん、というか――大人はみんな働いて金を得て、そしてきちんと生活ができるのだと。しかし、どういう事だか、うちはその普通とは違う。勿論どうしてなのか不思議になり、母親に尋ねた事もあった。父本人に尋ねると叱られるか、機嫌が悪いと鉄拳が飛んでくるのを知っていたので、聞きづらい事は何でも母に聞く習慣になっていた。

 大概の事は教えてくれる母も、この時ばかりは言葉を濁し、困り果てたように笑うだけで、段々と「これはきっと聞いちゃいけない事なんだな」と考えるようになってきた。それで、幼い彼なりに情報を整理して理解したのは「父は身体が悪いから、働けないのだ」「それで、国からお金をもらっている」という事実だ。当時のクレメンザの目から見ても、父は特別持病などがあるようには見えず、どこからどう見ても健康な人にしか見えなかった。勿論、彼の目には分からないだけで何か分かりづらい疾患などがあったのかもしれない。

 月に一回、『組合』を名乗る人が誰かしら尋ねてくると、父が金を受け取るのに必要な書類を作成する為の調査をする。訪れる人間の顔ぶれは全部で二人、それぞれ男と女と一人ずついた。そのうちの一人のカネコという男が、クレメンザは大の苦手だった(父はこのカネコという男の事を『ネコ』と呼んでいて、「明日はネコが来るんだから、ちゃんとしておけよ」と母によく言っていたのをやけに覚えている)。

 カネコは背の低い小男で、痩せていて、滑舌が悪く聞きづらい早口で喋る中年だった。値踏みするような目つきがとにかく嫌で、その話し方や佇まいには品格というものがまるで皆無だった。母がお茶を入れに一度奥へ下がり、彼と二人きりになった瞬間はとにかく居心地が悪かったのを覚えている。

「ところで君のお母さんは綺麗だねえ、今いくつぐらいなのか知ってる?」

 今思うと、子どもにこんな話を持ちかける事自体がどうかしていると思うが、ともかくこういう事を平気で言うような男だった。

「――あの、カネコさん。主人は怪我の具合がやはり良くなくて……実を言うと、先日も、ええ、はい――ちょっとまあ家で畑仕事をしている時に、腰をですね……」
「……いや〜、奥さん。しかしまあ最近はこういうのジャッジが厳しいんですよ、何かとうるさい世の中でして……ニュースなんかでもよくやってるでしょー、不正受給とか、何とか」
「しかしその金額では少し厳しいんです、せめて三でお願いできませんか」
「あのね、奥さん、こうがめついのは嫌なんですけど……やっぱりウチも危険な橋わたりをしてるわけですしねえ、リスク背負ってるんですよねえ。これがばれたら免職どころか刑務所行きですよー……」

 カネコはそう言って、しきりに後頭部を掻いた。

「……そんな……、けど……けど、それじゃあ……」
「ああ、分かりますよ、奥さん。何もウチらだって、別に貴方達をいじめたいわけじゃないんですよ。むしろ我々は貴方達のような人達の味方でありたいんですよ。この腐りきった格差社会に苦しむ貴方達のような人にとっての、唯一の正義でありたいんです」
「……」

 意味深な物言いと視線に、母はほんの一瞬不思議そうに顔をしかめたもののカネコがその肩に馴れ馴れしく手を置いた事で、その意図を理解したらしい。

「ねえ奥さん、こういう時こそ協力しあいましょう。お互いに『見合った対価』を差し出すってのがスジってものでしょう?」

 カネコの笑いを帯びた声に、母はしばらく微動だにせず俯いていたが、ややあってからようやくのように小さく頷いた。呼吸するのさえ忘れていたように見えた。

「――わ、わかりました。……けど、子どもがいるので、部屋を変えましょう……」

 そう言って母が立ち上がると、カネコも一緒にその質素なソファーから腰を上げた。ニタニタとした笑顔は、妙にぎらついていて不快だった。

「お母さん、少し上に行くから。誰か来るかもしれないから、絶対にここから出ちゃ駄目よ」

 力無く笑った母の顔は、未だに昨日の事のように思い出せる。そう言い残し、母とカネコは、二階の寝室に消えた。――そしてその日以来、カネコが来るたびにこの『儀式』は執り行われていたようだった。……不思議な話だが、父は何故かその時は決まって家におらず、二人の行為が終わるとどこからともなく、ふらふらと戻って来る。母も母で、何事もなかったかのように振る舞っていた。

(そうだ。父は、あの男は、母さんをカネコに売ったんだ。奴が母さんに下心を持っているのに気付いて、我が身可愛さに母さんを差し出したのか……)

 その事実に気付いた時にはもう既に、彼は自分が生まれ持ってして『マイナス』から始まっている事を学んだ。弱者というのは、守るべきもので救ってやるべき存在。手を差し伸べれば、その分だけ幸福が生まれるものだと信じ切っていた。――しかし、現実は違った。弱者は一生強者に虐げられ、暴行と搾取の気配に怯えながら蹂躙され続ける。

 この国は誰の味方なのか、もはや全てを諦めきっていたクレメンザには分からなかった。いくら考えても答えは出そうになかった。――十九を迎える頃、クレメンザは家族の食い扶持を稼ぐ為に国の志願制度に自ら望んで出願した。……全ては母に報いる為だった、少しでも多くの収入を得て、あの忌々しい男二人の元から母を解放してやりたかった。

 服役期間は最低三年、その間にも勿論家族と自分に賃金は配当される。その報酬額は、普通の十九歳が稼げる金額ではなかった。カネコの言っていた言葉を、こんな時になって思い出す。

『危険な橋わたりをしてるわけですしねえ、リスク背負ってるんですよねえ』……、当然のように母には猛反対され、彼女は泣きついた。息子まで失ったら、生きる希望なんてなくなってしまう。そうなるくらいなら、金なんていらない。自分が耐えれば、全ては済む話なんだからとしきりに訴えた。

「俺は母さんを救いたいんだ。……これまで何もできなかった自分が憎らしくて仕方ない、これは俺の罪滅ぼしでもあるんだよ」

 今思えばそれが母の為だと信じ切っていた部分と、その言葉に酔っていた部分もあったのかもしれない。この場所から逃げられる口実で、同時に鍛錬できるチャンスだとも思っていた。





山口メンバー、退院してから飲むって相当だよね。
アルコール依存って本当厄介だと思うし
睡眠薬ないと寝付けない事が多い自分には
中々思うところがあるよ。
会見の時も手震えまくってるし完全ヤバいよね。
家族がいないと中々セーブするの難しいと思うんだ……。

prev next

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -