今日は帰ったら真っ先にお風呂へ入って足をマッサージしよう。それから両腕を休めて、湯舟でうとうとしてしまいたい。お風呂から出たら軽くストレッチして、全身の固まった筋肉を解して、それから夜ご飯は諦めて朝まで爆睡してしまおう。そうしよう。今日の締めくくりの計画を立てるのは朝からこれで何回目になったろうか、きっとそろそろとうに二桁はいっているはずだと頭の中で指折り数える。
今日も今日とてこうなるかもしれないと分かっていたからギリギリまでムートンブーツかスニーカーかで迷っていたのだけれど、何せ今日はホワイトデーだ。流石にないだろうなんて淡い期待を抱いて先週購入したばかりのおニューのパンプスを履いてきたのだけれど、やっぱりスニーカーにしておくべきだった。今さらになって朝の浮き足立っていた自分に思い切りコメットパンチ食らわせてやりたい気分だ。そもそもホワイトデーだから何なのだっていう問題だった。ホワイトデーはバレンタインデーに好きな人にチョコレートをあげた女子がその相手からお返しを貰える日のはず。誰にもあげてなどいない私には何も関係のない日だった。そもそもそのホワイトデーだって、このホウエンで勝手に大きくなったものだし、バレンタインに女子が贈ること自体ホウエンの独自の文化なのであって、本場ではむしろその逆らしいじゃないか。
自分の中で一段落つけたところで目の前で歓声をあげる同行人を見上げる。ショーケースを見てコバルトブルーの瞳をキラキラと輝かせるその様はぶっちゃけ私よりも全然女らしく、そもそもが知名度の高い彼なのだからそんなにもはしゃいだら通行人の女子高生がキャアと黄色い悲鳴を上げるのは当然だった。
「なまえ何をしているんだい早くしないとドア閉めてしまうよ」
とか言いながらドアを閉めてさっさと店の中へ一人入って行ってしまう。イラッとするけどそれよりも後ろの女子高生たちの方がイラッとする。何よあの人足手まとい〜って、じゃああんたらこの大量の荷物持ってみなさいよ相当重いから。
よっこらせと、チリーンのプリントされた手提げ袋を一つエネコロロのプリントされた手提げ袋を一つサーナイトのプリントされた手提げ袋を一つ、加えて水タイプの沢山プリントされた小包を四つ持ったままフラフラと店の方へと近寄る。これは何も今日に限ったことじゃないし、彼がショッピングへ赴く時はいつもこんな扱いだからもう慣れたのだけれど、彼は前もって私に知らせることはしてくれないから今日みたいに少しでもヒールがあったりするともう歩けなくなってしまう。前回はスニーカーだったにも関わらず小指が擦り剥けて真っ赤になっていたから、あんまり関係ないのかもしれない。
「っていうかこれどうやってドア開けるんだ」
両手が塞がってるんだからよくよく考えてみたら当然の結果。自動ドアならよかったのによりによってこのお店はドアノブタイプで、しかも外開きだ。最悪のダブルパンチにもう立ち上がる気にもなれない。ガラスのショーウインドーの前でうろうろ行ったり来たりする私は相当不審者だろう。半透明のドアの向こうに見えるミーハーな彼は両手を広げ何やら興奮しているし、当分こちらになんて気付きそうもなく、ドアを開けてもらうなんて無理な話だ。
ルネジムにジムトレーナーとして勤務が決まった時は、本当に本当に心の底から喜んだ。嬉しかった。憧れのジムリーダーの下でジムトレーナーとしてバトル出来る喜び。トレーナーにとってそれはとても名誉なことだろう。それなのに私が今やっているのは何だ。ただの雑用係である。ジムトレーナーとして出勤してもバトルすることなく雑用だけこなし帰宅する、そんなのを望んでいたわけじゃないのに。ジムリーダーの雑用係として常に行動を共にしていることを羨ましいと言う人もいたけれど、でもポケモントレーナーなら、ジムトレーナーとして雇われているのなら、やっぱりジムトレーナーとしての本来の職務を果たしたいと思うのはいけないことなのだろうか。連日のストレスで頭がこんがらがりそうだ。
突然後ろから伸びてきたそれがドアを開けるとチリンチリンと軽やかな音が鳴った。振り返るとよく見知った顔が眉毛を下げて微笑んでいる。
「いつも大変だね。たまには嫌だと拒否してしまえばいいのに」
「ダイゴさん」
しっかりと着こなされたそのスーツが私の給料では到底手の届かないような高級ブランドのものであることは一般庶民の私でも生地を見れば一目で分かる。主張の激しいイヤラシイデザインでなく落ち着いた上品なそれは彼のアイデンティティの一つと言えるのだろう。なんたって彼はそのお気に入りのスーツを何着も持っていて、いつもそれを着こなしているのだから。
こんにちはなまえちゃんとダイゴさんが紡げば私の平凡なその名前すら高貴なもののように思えてくるから不思議なものだ。スラリと細身の彼は顔も小さくまるでモデル、加えて顔もよく整っていてハンサムなのだからこの人もまたやはり騒がれても仕方ない。あいつは?と名を呼びながら何事もないかのようにごく自然に私から荷物をひょいと奪い取る様は紳士という言葉を具現化し行動に起こしたようなもので、礼を述べると言われるようなことはしていないとはにかまれた。何から何まで紳士である。
「ミクリ様なら店の中ですよ」
「こんなに荷物を持たせた女の子を外に放っておいて、何をしているんだか」
「気にしないで下さい。いつものことじゃないですか」
店内へと運びかけていた右足を引き止めたのはダイゴさんの「カフェで少し話さないか?」というお誘いで、雑用係の真っ最中だったからすぐに頷くことはしなかったけれど人の良さそうな、いや実際とても良い笑顔で「ミクリと僕は付き合いも長いのだし、別にそんなことで文句も言ったりしないさ」と促されてはそちらへついていくのも当然といえば当然かもしれない。朝からずっと重い荷物を持って立ちっぱなしだったのだ、慣れないパンプスを履いた私の両足はとっくに悲鳴をあげていた。座ってゆっくりお茶でも楽しみながら帰りを待っていたとして何も文句を言われる筋合いはないだろう。
ミクリ様のいる雑貨店のすぐ正面に構えられたカフェは若い女性を中心に最近人気の高い店で、少しオシャレなそれでも手の出しやすいそこそこリーズナブルな価格の様々な種類のコーヒーを売りにしていた。期間限定だというホワイトチョコレートソースのかけられた甘いカプチーノを何とあのダイゴさんに奢って貰ってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいのままテラス席に腰を掛けているとやって来たダイゴさんは自分のホットコーヒーとは別にトレイの上にこれまた期間限定のケーキを二種類乗せていたのだからあんぐりと開いた口も塞がらない。どっちがいい?とニコニコ笑うダイゴさんは褒めてくれと言わんばかりのガーディのようだ。
「ダイゴさん、こんなに戴けません」
「どうして?」
「どうしてって、だって奢って貰うようなことしてません」
「ただの僕の気分なんだけどな」
「でも、」
「ああほら今日ホワイトデーじゃん。っていうことでどう?」
「私ダイゴさんにバレンタイン何もあげてません」
「女の子が気にすることじゃないよ。こういう時は甘えて奢られてればいいの」
そういうもんだよ、男を少しは見せさせてよね。言って肩を竦めるダイゴさんに押され、結局ケーキもご馳走になることになる。どっちがいいと聞いてきたわりにダイゴさんは最初からどちらを食べるのか決めていたようで、チョコレートケーキを選ぼうとしたら悲しそうな顔をされたから、あげた。いいの?と首を傾げられたけど、もし私がここで強引にでもチョコレートケーキを食べでもして奢ってもらうのが無くなっては困る。ダイゴさんに限ってそんなことは有り得ないだろうけど。
ああ、うん、ほら、やっぱり美味しい。そう言って笑うダイゴさんのフォークの持ち方がおかしいことは見なかったことにした。
「それにしてもこんな大荷物を女の子に持たせて自分はショッピングだなんてミクリはどうかしているな。会ったらガツンと言ってやらなきゃ」
「あ、いえそんな、本当に良いんですよ。私は気にしていないですし」
「ダメ、僕が気にするから。だってなまえちゃんは雑用係なんかじゃなくれっきとしたジムトレーナーだろ?それもテストではぶっちぎりのトップスコアだ。それをこんな扱いはちょっとね、どうかしている」
「でもこれはこれで楽しいですよ」
「うん、そう言うしかないもんね。本当はバトルがしたくても」
でしょ?と笑みを深くするこの人は一体どこまで人の心を覗くことが上手いのだろうか。
流石というか何というか、やっぱり流石というかに戻る。うん、流石。親の会社であるデボンコーポレーションで働きながらこのホウエン地方のポケモンリーグチャンピオンをしているだけあって人の気持を読み取ることはずば抜けて上手いよう。ダイゴさんには負けますねなんて、ストローの端を小さく噛んでやる。ホットコーヒーの入ったマグカップは白く、小さくエネコロロのロゴが入っていてとても可愛らしい。ダイゴさんにはミスマッチで少し笑ってしまう。それなのにそんなミスマッチなものを口元へ運ぶダイゴさんはなんとまあ絵になっていることやら。組まれた長い足はきっとテーブルの下に入り切らなかったんだとしか思えない、斜めに座りポイと外へ出されている。吃ってしっかりとした返事をしなかったからだろうか、突然黙り込んでしまったダイゴさんは今日初めて真剣な顔を見せていて、別に見られているわけでもないのに何だか無性にドキドキした。ややあって何か閃いたのか声を出したダイゴさんの満面の笑みといったら。
「ねえ僕良いこと思い付いたんだけど」
「え、あ、はい良かったです、ね?」
「うん。ふふ、聞きたい?」
この人は本当にコロコロと笑う人だけれど、一概に笑うといってもその中にもさらに様々な表情がある。子供のように笑っていたかと思えばこうやって悪巧みでもするかのような意地悪な笑みもこぼすのだ。スルスルと長い指をマグカップに絡ませて遊んでいる。その流し目はきっと多くの女の子たちを虜にしてきたことだろう。なんて、他人事でしかない。
「ミクリなんか捨てて僕のところに来ないかい?」
「あ、はい。……ん?」
適当に相槌を打って、その後直ぐに素っ頓狂な声を出してしまった。きっと相当ヘンテコな顔をしているんだろう、ダイゴさんがけたけたと目尻に涙を浮かべなから爆笑している。ちょっと待て、私の足りない脳では彼の話についていけない。一体何がどうしてそんなことになったのだろう。あーおかしいと目尻を拭いながら吹き出すダイゴさんはまるでイタズラに成功した子供のようだ。そしてすぐに違和感だ。けたけたと笑っているのは分かる、笑われているのも分かる。けれど彼の目線はどうも私を通り越している気がしてならないのだ。どちらかというと私を見ているというよりは私の頭上を、
「僕とミクリってば腐れ縁なんて言われるけど、きみのそんな顔を見たのは初めてだよ!」
全身の血がサーっと引いていくというのは言葉では知っていてもなかなか体験したことはなかったのだけれど、その意味合いが今ようやく理解できたかもしれない。ぎぎぎとぎこちなく顔だけを後ろへ向ければ立っていたのは両目をひんむき口を開いたまま閉じようともしない間抜けにも程があるミクリ様。ファンが見たら号泣していただろう。
「ミクリ様、いつの間に…」
「ほらミクリ無視はダメだろ。いつ来たのかって聞かれてるよ。いつ来たの。答えて」
「え、あ、ああ、つい今ね、店を出たらどこにもなまえの姿がないものだから…そうしたら見知った顔が見えたから、ここへ」
呆然としたままぽつりぽつりと言葉を紡ぐミクリ様を見てダイゴさんは相変わらずケラケラ愉快そうに声を立てている。催促の言葉に刺があったような気もしなくないけど、そんなことどうでもいいと思えるぐらいミクリ様の顔を凝視してしまう。ミクリ様もミクリ様で私の顔をボケっとまるで遠いところを見るかのような顔で見ている。恥ずかしいなこれ。
「なまえ」
「あ、はい?」
「その、きみが、ダイゴのところへ行くって…」
「ああそうそうミクリそうなんだよ。なまえちゃんは今日限りできみのジムトレーナーを退職してデボンで僕の直属部下として働いてもらうことにしたから。あ、これ今日きみが買った荷物ね。ちゃんと持てよ」
「ちょ、ちょっと待ってくだ」
さい、と言う前に口を手で塞がれる。もががと飛び出したのは言葉にならなかった息のようなもの。手の主はといえば面白そうにニヤニヤと笑い、空いている方の手を自分の口に当て小さな声で「シィ、面白いものが見れるよ」と囁いた。個人的にはもう十分面白いものを見たんだけどと思いつつミクリ様に誤解されたままなのはまずいと慌てて顔を見上げる。
ジムトレーナーとしてバトルさせてくれないことは不満でしかないし好感度もへったくれもあったものじゃないけれど、それでも私はわざわざルネジムのジムトレーナーになりたくてテストを受けた人間だ。当然ミクリ様に憧れていたからそうしたわけで、バトルしないままルネジムを辞めてしまうわけにはいかない。このままでは本当に辞めさせられかねないと冷や汗が流れた、ミクリ様の顔は見えない。とりあえず手だけでも離してもらおうとダイゴさんに少し身体を向けた。
マグカップが宙を舞った。周りの人たちが怪訝そうにこちらを見るのが恥ずかしい。結論から言うとマグカップが宙を舞ったのはテーブルが思い切り蹴られたからで、更に言うとテーブルを蹴ったのはミクリ様である。
「許可する訳ないだろ」
地獄から響いてきたかのようなドスのきいた低音は太鼓の音のようにお腹に響く。誰だ今の声は。いや分かっている、聞くまでもない。目の前で不敵な笑みを浮かべるダイゴさんではないのだ。ともすれば必然的にそれは私の真後ろに立つその人しかいないことになるだろう。恐る恐る目だけを下へ向ければパステルパープルが私の横にある。見まごうこともない、ミクリ様のものである。
「なまえはわたしのジムのトレーナーだ。何だってお前のところへやる必要がある」
一応私のことをジムトレーナーとは思っていてくれたらしい。
「よく言うよ、バトルなんてさせてないくせに。トレーナー?ふふん、雑用係としていいように使ってるだけだろ」
挑発的に笑みを浮かべるダイゴさん。そんな笑い方も出来たのかとますます掴めなくなる、本当に不思議な人なのだ。図星をつかれて反論の出来なくなったミクリ様はといえばチラリと捨てられるポチエナの様な顔をして私を見つめて視線を逸らさない。
コバルトブルーの美しい切れ長の瞳は確かに抗議をしていたけれど薄い唇は開かれることもなく、目尻をほんのりと桜色に染めた彼は黙りを決め込んでいた。


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