勘違いして嫉妬して悔しくなって歯噛みして、それが青春の醍醐味ですよね。 火神を巻き込む黄瀬の大暴走にイラっともやっとしている黒子の話。 火神・黒子・黄瀬の三視点で話は進みます。 恋人計画 お試し期間サンプル プロローグ : 相談事 ――ちょっと奢るから相談乗ってよ、火神っち。 そんな黄瀬の言葉に引っかかったのが悪かった。火神自身なんで自分なんだと聞く前から疲れた気持ちになる。 振り払ったとしても黄瀬は付きまとってきそうだと思った。黒子との会話を聞いている限りでも面倒臭いタイプの人間だ。キセキの世代はみんなそうかもしれない。そして、今更、逃げ出すにはチーズバーガーの山は惜しい。 「黒子っちがキスさせてくれないんスよ」 席について黄瀬は神妙な顔で言ってきた。 唐突だと思ったが共通の友人である黒子の話題以外を黄瀬から持ちかけられるとも思っていない。適当に相槌でも打てば終わる話題であることを祈るばかりだ。 「はぁ、お前らって付き合ってんの?」 火神が帰国子女ではなく、もう少し日本という場所を理解していたなら問題の収束は早いどころか何も始まりはしなかったかもしれない。 「え? やだな、付き合ってないよ。ってか、火神っち、それ全部食べんスか? 冗談?」 チーズバーガーの山を指差されて火神は溜め息を吐く。 「何、言ってんだ。買っておいて食べないわけねえだろ。……あー、なんでお前、黒子にキスしてぇの?」 「人の金だから頼んだのかと思ったっス。火神っちはしたくならないんスか? キス。黒子っちが近くに居て、マジ?」 目を見開かれて驚かれるが火神としては全く黒子に対してそんな気持ちにならない。二年の先輩たちやベンチにいる一年の同級生に対してもキスしたい思ったことはない。親愛の表現だとしても抱き合ったり肩を組む程度のものだ。どう頑張っても自分は日本人だと火神は勝手に思っていた。普通の日本人は男が男に対してキスしたいと言い出した時点で全力で距離を置くということを知らない。ここは日本であり挨拶で唇を触れ合わせる人種は殆どいない。 「お前がしたいなら勝手にしてればいいからオレに押し付けんなよ」 「だから、嫌がられるから出来ないんだってば」 「なおさら諦めろよ」 「キスしたいんスよ! 黒子っちとキスしたいんスよぉ」 「駄々こねるなよ。何歳だよ」 黄瀬がテーブルに顔面を擦りつけて「黒子っちとキス」と言い続けることを見て火神はモデルだと聞いたことを疑い出す。本当に同い年なのかも疑ったところで黄瀬が顔を上げて「どうしたらいいと思うっスか?」と額を赤くして髪をボサボサのままで聞いてきた。 アホにしか見えない。 同い年の男がここまで必死になっている姿にドン引きするものの立ち去ることを選ばないあたりが火神の人のよさだった。今回、それは悪い方へと進んだかもしれない。 「…………人が嫌がることはすんな」 「火神っちはチーズバーガー分ぐらいオレのことを応援したらどうっスか」 「がんばれ」 「心がこもってないっスよ」 「でも黒子が嫌だって言ってるならそれで話は終わりだろ」 これ以上になく真っ当な火神の意見に対して黄瀬は「違う!」と首を横に振る。 「違うっス! 黒子っちは本当はオレのこと好きっスよ」 「はあ?」 「照れ臭いからOKくれないだけで本当は常にオレを待ってるんスよ。黒子っちの唇はオレだけのっス」 「ああ?」 「絶対っスよ! オレのオレの!! この前、黒子っちにキスしようとしたら逃げられそうになって思わず腕捕まえて壁に押しやったんスよ。そうしたら……そうしたら……泣かれたっス。黒子っちが泣くなんて! ふぉぉ。震えて唇をぎゅっと噛み締めて睨んでるのに潤んだ瞳は超かわいい」 「違うだろ! お前は何してんだよ。嫌がってんじゃん。それは罰ゲームだ。もう黒子に近づくのやめろよ」 「何でそんな意地悪言うんスか!」 「普通に考えろ。普通にだぞ。……お前、黒子に嫌われてるだろ」 神妙な顔で火神は指摘する。聞いている限り二人の間にものすごい溝が出来ていた。 「はぁぁ? なに言っちゃってるんスかッ?!」 「薄々感じてるからこそオレに声かけたんじゃねえの? 仲直りの手伝いは出来るか知らねえけど、ちょっと黒子に探りぐらい入れてやるよ」 「えぇ! 火神っち、キューピッド?」 「急にどうした。マヨネーズが何だ」 火神は大幅に間違っていることに気付いていない。 「マジっスか? 協力してくれるんスか?」 「あぁ。何かこのままだと面倒だからな。早く仲直りしろよ」 火神は黒子が泣いたことについて深く考えていなかった。意外だと思う気持ちはあったが自分がアレックスにキスをされて恥ずかしくて涙目になった、その程度の反応だと思っていた。人前であれ、どこであれ、キスが嫌な人間は嫌だろう。特に男同士なら気まずくもあるはずだ。 「キスは諦めろ。そして謝れ。それで黒子も許してくれんだろ」 「はいっス。……キス以上はいいっスかね?」 以上が何か火神はすぐに思いつかなかったが胴上げか何かだと思って「黒子がいいって言うならいいんじゃねえの」と適当な返しをした。 「黒子っちから欲しいって言われるのを待つのは難しいんじゃないっスかねー」 「お前が堪え性ねえからじゃねえ?」 ある種正しいことを口にする火神に黄瀬は頷く。 「じゃあ、しばらくは火神っちも一緒に居てくれないっスか? オレと黒子っちだけだと多分、同じ事になっちゃう」 面倒だとは思ったが乗りかかった船なので火神は了承することにした。 「火神っち、持つべきものは友達っスね」 「え、友達になったつもりねえけど」 「ヒドっ」 落ち込むかと思えばカラッと笑って黄瀬は「じゃあね」と帰っていった。騒がしい奴だったが嫌いではない。嫌味な所があっても悪い奴ではない。黒子も黄瀬に対する反応からしてそう考えているのだろうと火神は思っていた。 請け負った手前、二人が仲直りするまで見守ってやろうとは思う。関係ないと言ってしまうのは簡単だったが、円満におさまった方が気持ちがいい。 「黒子が機嫌直せばそれで終わりだよな」 黄瀬の性格上、黒子が気にしてないならそれで話は終わりだ。この時、火神は単純にそう考えていた。 翌日、火神としては何気ない調子で黒子に黄瀬のことを尋ねた。黒子の反応からして何気なくはなかったかもしれない。だが、知ったことではない。黄瀬から頼まれたのだと分かったとしても黒子はそんなことは気にしないと思っていた。 長い付き合いなのだから黄瀬のことを分かっているはず、火神はそんな風に考えていた。 「何でですか?」 「あ? 何が」 「どうして火神君にそんな事を言われないといけないのか分かりません。黄瀬君はチームメイトでも何でもありません。別にどういう付き合い方になったとしても構わないんじゃないですか」 「確かに敵チームだけど、よ」 どこかトゲがあるような黒子の言い方に火神は少し考える。何かおかしい。黒子は熱い所もあるがバスケ以外の時はドライな感性をしている。それほど付き合いがない火神でも分かるほどに変に冷静な所がある。 「お前ら友達なんだろ」 「違います」 以前、黄瀬が訪ねてきた時に「一番仲が良かった」と言った黄瀬に対して「普通です」と返していたので普通程度には友人なのだと思っていたがどうやら違うらしい。 それとも――。 「黄瀬が無理やりキスしようとしたから嫌になったのか?」 「……ッ! そんなことまで聞いたんですか?」 鎌をかけてみると無表情で考えが読めなかった黒子に薄っすらと怒気が広がっていった。何気に表情豊かである。 「冗談だったんだろ。許してやれよ」 黒子がこれほど怒るぐらいなので本気で嫌だったのだろう。火神自身無理やりキスをされそうになったら親愛から来るものだとしてもキレるかもしれない。アレックスでなく男なら容赦なく殴りつける。それを思えば黒子の対応は当然なのかもしれないと火神は納得した。 「冗談なんだってことは分かってます」 怒りはどこかへ四散したらしく、黒子は迷うように視線を動かして困り顔になった。肩を落としている姿は悲しげにも見えた。 火神はピンときた。 怒り過ぎたことを謝るタイミングがなくなったのだろう。 黒子も苛立ちはしたかもしれないが本気ではない。 悪ふざけに対して過剰に反発した時のばつの悪さは火神も分かる。すぐに謝って流してしまえば喧嘩両成敗で長引くものではないのだが機会を失うと全然言葉が出てこない。お互い意地を張ってしまうのだ。 「深く考えることでもないだろ」 そう言って肩を叩けば黒子は息を吐き肩の力を抜いた。 プロローグ : 悩み事 始まりが唐突だったのは言うまでもない。 前振りなど何処にもなかった。 少なくとも黒子には感じられなかった。 「黒子っち、恋人しません?」 恋人になりませんか、ではなく、『しません?』とはなんなのかとその時点で黒子は黄瀬の言葉が引っ掛かった。 黄瀬はいつもと変わらない調子で微笑みながら朗々と「恋愛っていいものっスよ」と語り出して喧嘩を売っているとしか思えない。 「黄瀬君って時々驚くほど無神経ですよ」 黒子の反応が予想外だったのか黄瀬は困ったように身振りを加える。 「恋人っスよ。とりあえず『ごっこ』で」 最低だった。 「丁重にお断りします」 「そこを何とか!! オレの愛が報酬っス」 胸を叩いて見せる黄瀬に黒子は苛立ちが湧いてくる。どうしてこんなに最低な気持ちになるのか答えはすでに知っている。そんな風に、こんな風に、軽々しく好意を口にするなど黒子の中で色々と引っかかる上に黄瀬が言っている通りにこれはごっこ遊びなのだ。 黄瀬は恋愛の素晴らしさでも教えたいのかもしれないが黒子にとっては嫌がらせにしかならない。これ以上にない最低の仕打ちだ。冗談にならない。 「お断りします」 絞り出す声が震えていないことを願いながらすぐにでも黄瀬から距離を取りたくなってくる。酷く惨めな気分だった。 「アレ? 黒子っち、微妙に怒って――」 怒らないわけがない。 こんな扱いを受けて平気でいられるほど黒子は人間が出来ていない。黄瀬が不用意な発言をするタイプだと理解していても軽く受け流すことなど今回ばかりは出来なかった。 「話はそれだけですか?」 「ま、待って」 腕を掴まれて引き寄せられかける。 逃げようと後退すれば壁があった。顔の横に手をつかれて、知らない間に壁際に追い詰められたことを知る。黄瀬の表情を見れば計画的だったわけでもないだろう。 戸惑ったようではあったが黒子の身体を覆うような体勢になった黄瀬はどんどん顔を近づけてくる。 「キスしていいっスか?」 冗談じゃないと思った。 嫌だから逃げているのが分からないのかと怒鳴りつけたくなるのを黒子は唇を噛み締めることで抑えた。それがいけなかったのか黄瀬の顔は更に近づいてくる。見上げる黒子の視線にも動じずに黄瀬は黒子の唇に触れた。ぎゅっと硬く閉じた黒子の唇を軽く吸って離れた黄瀬が意外な気がして思わず呼びかけようとしてしまう。それは罠だったのだろう。頭を抱きかかえられるように後ろに手を添えられ、腰を片手で持ち上げられる。自分がそれほど軽いのだと案に言われているのも腹が立つのだが近くなる距離はそのままキスが深いものになるということだった。口内を探るように動く黄瀬の舌から逃げようとすればするほど深くなる。 足が地面についていないのだから逃げようがない。 そう言い訳を頭の中でしながら黒子は黄瀬の舌を噛んだり顔を背けることもしない。確かに頭は固定されているがそれでも黒子の両手は封じられているわけではいない。不安定な体勢だから黄瀬に寄りかかるように肩に抱きつくようになっている。まるで求めているかのように。 これが合意の上での行為に黄瀬も感じているからこそ積極的に舌を絡めてくるのだろう。離して欲しいと思う気持ちと裏腹に黄瀬に触れている手には力が入る。 唾液が口の端から流れ出て首元を伝う。黄瀬が追いかけるように唇を離して黒子の首筋を舐めあげた。 喉を舐められる経験などない。くすぐったくて黄瀬の髪の毛を引っ張ってしまう。そろそろ解放されてもいいんじゃないのかと期待を持って見つめたつもりが別のものに受け取られたらしく黄瀬は満面の笑みを浮かべた。 「黒子っち……キス、したいんスか?」 誰もそんな事は言ってないと否定の言葉は思っただけで黒子の口からは出てこない。何も言えない自分自身が黒子は不思議だったが黄瀬はちゅっちゅっと軽く頬や目尻にキスをしていく。先程、黄瀬に舌を吸われたせいで舌が絡まって声が出ないのだ。喉を震わせようとして黒子は無理なのだと悟る。黄瀬が首を舐めたせいだ。そうに決まっている。 「キスしていいっスか?」 最初よりも優しくてけれど熱っぽい声。 耳を塞いで逃げ出したくなるような知らない黄瀬の声。 切羽詰った気持ちをギリギリで抑えこんでいる声が耳に吹き込まれて身体中の温度が上がっていく。 一言嫌だと口にしたらきっと黄瀬は分かってくれる。黒子は黄瀬を信じていたが、それでも「やめて欲しい」という一言が出てこない。口の中が乾いていく。 どうして言えないのかと自問自答を繰り返していれば焦れたように黄瀬が「黒子っち、黒子っち、ねぇ」と言いながら首筋を舐めるのではなく吸って鬱血痕をつけ、更には脱がしにかかってきた。黒子を抱きかかえながら器用だ。何を考えているのかと問う前に黄瀬の視線からして答えは分かっていた。それに応えるかどうかは黒子自身が決めていいはずなのだが「黒子っち」と少し舌足らずに甘えるような黄瀬の声に言うべき言葉が消えていく。 「……言わなくっても分かるっスよ」 鎖骨を甘噛みされる。落ち着かなくなる身体への刺激。 「嫌じゃないっスよね? 良いっスよね?」 何がだと聞き返すよりも先に黄瀬は――。 目覚めて無意識に黒子は通話ボタンを押す。メールなら気にしないのだが電話は出るようにしていた。緊急のことがあったら困る。 黒子の番号を知っている人間自体が少ないのだからその中で電話をかけてくる用事がある者など希少も良い所。 そんな認識は改めないといけないのだと最近気づいていたというのに寝ぼけて黒子は判断を誤った。 「はい、起きてます」 『嘘っスね。黒子っち、寝てたよね』 「いえ、起きてます」 『寝ぼけてる? おはよう、黒子っち。寝坊したと思った?大丈夫! 今日はいつもより十五分早いっスよ』 ぼんやりした頭は先程の記憶の残滓のような夢の名残がある。そして黒子は言いたくて言えなかったことがやっと口から出てきた。別に変なことではない。 「黄瀬君、嫌がらせですか?」 『え? ごめん。黒子っち、怒ってる? 目が冴えちゃって黒子っちの声が聞きたかったんっスよ。今から家行っていい?』 良いわけがない。朝ご飯を食べたいなら他所に行って欲しい。どこでもそんな突撃はお断りされるかもしれないが黒子は特にお断りだと思った。朝から何なのだろう。 『もうマジバ開いてるよ。行かない? シェイク奢るっスよ』 「………………」 『どっちっスか。黒子っち、もしかして頷いてる? 寝てる?』 「起きてます」 『そうっスか』 妙な沈黙の後、黄瀬は咳払いをして「この前の」と話を続けてくる。ぼんやりとした頭が徐々に覚醒していく。いつもよりも早い時間に叩き起こされたせいで黒子は中途半端な覚醒状態になっていた。 『恋人になってくれたりしないっスか?』 「ごっこですか?」 『まずは一週間のお試し期間、なーんて』 黄瀬の声がどんどん小さくなる。 『……ダメっスか?』 「なんで、そんな事をしないといけないんですか?」 『そんな事って、黒子っち、厳しいっスよ。キスしたいって、思ってしたいからするよりも恋人だからする方がやっぱいいじゃないっスか』 「キスしたいだけですか」 声が冷たく響く自覚が黒子にもあったがフォローなど入れられない。気分が悪かった。 『……あー、出来たらそれ以上を――。って、違うから。今のはナシ!! オレ、黒子っちにキスしないから。安心して! マジで超無害っスよ!』 何かを思い出したかのように急に黄瀬は口にする。 『ねえ、黒子っちにこれから絶対にキスしないから、この前のこと、許してくれないっスか』 「キスなんてとっくに――」 言いかけて今さっきの夢は夢だったのだと心の中に苦いものが広がっていく。全部が全部夢だったわけではない。黄瀬から恋人をしようとからかわれたのは事実だし、壁に追い詰められてキスをされかかったのも現実だ。 あの時、夢のように黒子は何も言えずに黄瀬を見上げるだけだった。現実と夢との違いは黄瀬が何も言わない黒子の態度を否定と取るか了承と取るかの違い。実際、どちらがあっているのか黒子には分からない。キスをされたかったのかされたくなかったのか。 だが、夢は無意識の願望だと聞いたことがある。 『黒子っち?』 自分が何を望んでいたのか突きつけられているような現状に呼吸が止まりそうになる。落ち着こうと思えば思う程、泥沼にハマって抜け出せなくなるような気がした。 「分かりました。……一週間です。それ以上はこんな悪趣味な遊びには付き合いません。黄瀬君はもう少し真面目になった方がいいと思います」 幼い子供に言い聞かせるように黒子は告げる。 『オレ、超真面目っスよ。ちゃんといっぱい考えたっス』 「その結果がこれでは意味がないでしょう。黄瀬君にぴったりのことわざが浮かんでしまって困ります」 『なんスか、なんスか?』 ドキドキしているように弾んだ黄瀬の声に罪悪感を覚えて「じゃあ、切ります」と電話を切る。 間の抜けた声が聞こえたが黄瀬から再び電話がかかってくることはなかった。つまりはそういう事だ。大した用でもない。ただ朝の時間潰しに電話でからかってきたのだ。こういった冗談をするタイプだとは思わなかったが淋しいのだろうか。 新しいチームに、高校生活に上手く馴染めていないから黄瀬はこんな風に黒子に構われようとする行動に出ているのかと考えてしまう。度々わざわざ誠凛に顔を出すのも別に黒子に対して何かを思っているわけではなく近くにいる元チームメイトの顔を見て落ち着きたいだけだろう。 「それ以外の理由が見当たりません」 恋人だなんて黄瀬は口にするが本当の所は黒子のことなど、どうでもいいに決まっている。キスの価値も別にないに決まっている。欲求不満を晴らす相手を間違えているのか、友情と親愛と恋情を一纏めにしようとしているだけだ。 そう自覚すればするほどに黒子の中の何かが壊れそうなほどに軋んだ音を立てる。 「変な夢を見なければ――」 火神に言われた通りに許してしまえたかもしれない。 それほど別に黒子は黄瀬に対して怒ってはいない。 考えなしを呆れてはいるが湧き立つ感情は怒りとは違う。苛立っているし、嫌悪感はあるがそれ以上に諦めがある。 悲しみに似た空虚感。胸に穴が開いたような失望感。何に対して黒子はこんな気持ちになっているのか分からない。 がっかりしているというよりももっと深い何かが刺激された。裏切られたなど思ってはいない、ただ少し、嫌な感情が胸の中で広がっていく。 『黒子っち……キス、したいんスか?』 それがもし図星なら自分一人が馬鹿みたいだと洗面台で顔を洗いながら黒子は思った。黄瀬にキスをされるのを黙って待っていたのだとしたら黒子は自分自身を信じられなくなる。夢見る乙女でもないのだからこんな心境はおかしい。 そんな風に黄瀬のことを思ったことなどないはずだ。 黄瀬の周りを取り囲む少女たちのように楽しげにはなれない。性別が違うから。立場が違うから。それよりももっと違和感があるのは芽生えた気持ちを認められないと頑なになっている自分自身のこと。 元チームメイトで友人と言って差し支えない相手に対して何を考えてしまっているのか。 空虚感の後には薄暗い感情が胸の中で渦巻きだす。 黄瀬がもしキスしたいと言ったのなら青峰なら「馬鹿じゃねーの」と一瞬で会話は終わる。緑間だったら「鏡とでもしていればいいのだよ」と即行で返されて、紫原なら「え、黄瀬ちんきもい〜」と真正面から罵倒されるだろう。 「赤司君は女の子を紹介ぐらいしそう……それが的確です」 紹介も何も元々の黄瀬のファンの中から合うタイプを見つけ出したりするのだろう。すぐに想像できる。それが当たり前で、普通のこと。それ以外の選択などない。 同性と、ましてや自分と黄瀬がキスをするのは黒子にとって考えるだけでも変だった。 「目覚めが最悪になりました」 それは電話のせいか、夢のせいか、想像のせいか。 全部、黄瀬のせいに決まっていた。 黄瀬のことを意識してしまった自分のせいだ。 こんな日を迎えるとは思わなかった。 朝から黒子は少しだけ泣いて、そして忘れることにした。 何もなかったことにした。 平気だと思うことにしたのだ。 たったの一週間。 思い出にしてしまえばいい。 一週間後には今まで通りの二人に戻るなら、多少の冒険に付き合っても良いだろう。黄瀬も三日と経たずに飽きるかもしれない。そうならなければいいと思いながら、そうなるしかないだろうと黒子は息を吐き出した。 プロローグ : 心配事 人は自分の考えの外側にはいられない。自分の視点、自己の檻の中に知らずに居座っているものである。 同時に心というものは自分だけのモノではない。 周囲の影響を受けた上で出来上がっていくものだ。 喜びも悲しみも自分だけが味わっていると思いがちだが知らず知らずのうちに周りの人間と分かち合っているものだ。感情は独占販売されない。自己を捨てることは誰しもできないのに他人の喜びは共有できる。人それぞれ共感能力に差があったとしても他人の心をまるで分からないなら社会でやっていけない。 だからと言って、コミュニケーション能力が高れて倍いのかと言えばそんな事はない。コミュニケーション能力とは経験である。対人関係の構築に必要なのは常識と経験。 だが、黄瀬の場合は裏目に出た。 モデルをやっていてコミュニケーション能力が高い分だけ黒子には意味を成さない。黒子テツヤはバスケット選手としても特異だったが人間としても難しい部類だった。物静かだが芯が強い。献身的なのに打算も働く。 クールに見えて正義感たくましい。 黄瀬涼太と被るところの方が少ないのが黒子テツヤだった。そのため黄瀬の武器は武器にはならない。評価はしてもらえても黒子が黄瀬の顔にときめくことはなく、バスケの選手としてもまた同じ。上には上がいる。対人的な人当たりの良さなどあっても仕方がない。本音で、本心だけで黒子にぶつかり砕けるしか黄瀬に出来ることなどなかった。 黄瀬は黒子から電話を切られた後、しばらくリダイヤルするかどうかを悩んでいた。黒子の家の外で。 家に来られるのを黒子が嫌がるので無理やり押しかけることはせずに許可を貰ってからインターホンを鳴らそうと思っていた。 「黒子っちがバニラシェイクに引っかからないなんて……」 一緒に行こうと言いながら黄瀬の手にの中にすでにテイクアウトした朝ご飯のセットがある。黒子が話に乗ってきたら家に上がらせてもらうのでも適当な公園に立ち寄ってベンチに座って食べるのでも黒子の好きにしようと思ったのだ。 「玄関に置いたらシェイクはぬるくなっちゃうっスよ」 カップの外側に水滴のついたシェイクに黄瀬は困った。 黒子がいつも通りに登校するなら黄瀬と話している時間はあまりない。朝の登校時間に邪魔して素っ気ない態度をとられたいわけではないので話す時間を作るために黒子にいつもよりも早起きしてもらったのだが、それで嫌がられたのなら本末転倒だ。意味がない。 朝のゆっくりとした時間の中で電話で謝ったことをもう一度ちゃんと謝るつもりだった。 キスはしないと誓ったのだから黒子が身の危険を感じたり黄瀬を避けたりはしないはずだ。 普通の友人に戻れるのではないだろうか。 戻れないなら戻れないで新しい場所に着地できたりしないだろうか。 「火神っちは謝れば許してくれるって言ったのに!」 「ああ? 今の、謝ってたのか? 恋人がどうのってのは冗談として火に油じゃねえの?」 「謝ったっスよ。その上、禁欲宣言っスよ? これ以上、オレにどうしろって言うんスか」 「謝ってたっていうかキスのことを取り消すためにもっとアホことを言ってたような気がすっぞ」 「アホってなんスか、アホって! そんなに朝からいっぱい食べたら動けなくなるっスよ」 腕一杯にチーズバーガーを抱えてもぐもぐと食べ続ける火神に黄瀬は呆れる。黒子と二人っきりだと自分が抑えきれないかもしれないので黄瀬は火神を呼び出していた。 「あ、さっき電話で火神っちもいるって言わなかったから。そうだ、火神っち、黒子っちに電話してよ」 「オレ、あいつの番号知らねえわ」 「はあ? なんでっスか?」 黒子に対して見せることのない少し柄の悪い非難の声音。 「なんか聞いた気がすんだけど忘れた」 「なんですぐに登録しないんスか。信じらんねぇ!」 「ちょっと待て、部活の連絡網とかになんかある……はず」 「黒子っちの番号は短縮に入れるのが当然っスよ」 「そんな電話しねえよ」 「着信履歴からリダイヤルっスか?」 「電話してねぇっての」 「もうオレはどうしたらいいんスか……」 「何がだ」 「黒子っちと甘々ラブラブスイートライフはどうやったら手に入るんスか」 「とりあえず、無駄なことを言うのやめろ」 「無駄? 無駄ってなんスか?」 「仲直りしてえんだろ」 「そうっスよ」 「謝っていつも通りにしてればいいんじゃねえの」 「いつも通りって、もう戻れないっスよ」 「変に諦めんなよ。お前の悪ふざけも黒子は分かってるよ」 「悪ふざけじゃないっスよ……って、黒子っちが分かってる? 本当に?」 「オレが聞いた感じだと許してやりたいけど切っ掛けがないみたいな感じだったぞ」 「それ脈なしってことじゃないっスか。火神っちのばかー」 黄瀬は走り出す。特に目標もなく。 「何なんだよ。急に」 「本当に何なんでしょうね」 「うわっ、おまっ。黒子、急に出てくんなよ」 「人の家の前で何してるんですか…………二人して」 黒子の声に黄瀬は走った姿のまま逆向きに身体を動かした。巻き戻しのような滑らかな身体運びで黒子の前に出ると「黒子っち、おはよう」と満面の笑みでバニラシェイクを渡す。 「朝ご飯まだだよね。食べててもバニラシェイクは別腹っスよね。はい、どうぞー」 「……頂きます」 受け取ってくれた黒子に黄瀬は顔を緩めまくる。 これで仲直りできた気分になっていた。 「え、黒子っち、何処に行くんスか?!」 「まだ学校に行くのは早いので遠回りしていきます」 「一緒にどっかで時間潰そうよ。火神っちもいるよ」 「火神君は何をしてるんですか」 「メシ食ってる」 「立ち食いは良くないと思います」 「じゃあ、黒子っちの――」 「ウチは狭いのでダメです」 「っスか。……公園とかマジバ行かないっスか」 「二人で行けばいいんじゃないですか」 「黒子、お前なんか怒ってんのか?」 黄瀬も感じていたことだが火神に先に指摘された。 「意地張ってないで一緒にメシ食えばいいじゃん」 「火神っち……」 援護射撃してくれる火神に黄瀬は顔を明るくさせた。そんな黄瀬に黒子は「黄瀬君、遅刻しないでくださいね」と少し疲れたように告げた。ここから海常の距離を考えるとそう言われても仕方がない。 黄瀬は黒子と火神が誠凛の校内に消えていくのを見つめながら深い溜め息を吐く。やっぱり黒子と同じ学校が良かった。今からでも海常に転校して来てくれないだろうか。 「無理なのは分かってるっスけどね」 出来るだけ長く一緒に居たい。 欲を言えば触れていたい。 そばに居るだけじゃ足りないからこそ恋人になりたいと思ったのだ。けれど告白は不発で何もかもが空回りしている。黄瀬の希望はあまりにも叶えるのが難しい願いなのかもしれない。フラれ続けて平気と言えるほど強くない。けれど、諦めてしまえるほど弱くもない。負け犬ではいられない。そんな立場に甘んじているなど柄ではない。 「火神っちが味方になったのは良いけど……」 わざわざ面倒な役を買って出てくれた火神に対してこんな事を思うのは失礼ではあるが思わずにはいられない。 「良い奴過ぎると黒子っちとられちゃうじゃないっスか」 それだけはごめんだ。 「でも、黒子っちあーゆータイプ好きそう」 帝光時代の黒子の相棒である青峰を思い出して黄瀬は自嘲が口から漏れる。青峰のことは憧れているし、火神のことも認めたがそれとこれと別問題である。バスケと恋は別の場所にある。 「黒子っちは誰にも渡さねえっスよ。誰にも。火神っちにも」 呟きながら黄瀬は自分の学校へと向かう。 この時、後ろを振り返っていれば黒子と視線が合ってお互いに考えが空回っていたのを察することが出来たかもしれない。それは仮定の話でしかない。 黄瀬は振り向くことはなく、火神と一緒に歩いて行った黒子がわざわざ引き返してきたことを知らない。黒子もまた去っていく黄瀬を呼び止めることをしなかったのだから擦れ違いは当然と言えば当然だった。 火神が相談事へ対処しようとするのも、黒子が悩み事に沈み込むのも、黄瀬が心配事に苛立つのも、別にそんなに変なことではないのだ。それでも事態はこんがらがった。 誰が悪いわけではなかったとしても、そういう事はある。 続きは本編で。 両片思い黄黒。 もちろん、ラブラブエンドです。 発行:2012/10/21 |