十九話
中に戻る気にはなれず、一時間ほどが経った気がした。中からは時折悲鳴と断末魔、そしておぞましい唸り声が微かに聞こえてくる。そんな状況の中屋上で一人じっとしていることもできず、下から上ってくる死者、もしくはなんとか逃げ延びてくる避難者がいないかとぐるぐると屋上を歩き回っていたものの、急に疲労がどっと襲ってきてその場に座り込んでしまった。あんな光景を見てしまったのだから、肉体も精神もひどく疲弊しているに違いない。
私はそのまま動けなくなり、入り口の近くの壁に背を預けてぼうっと空を眺めながら彼を待つ。このまま戻ってこなかったらどうしようか、と考えながらも確認するために立ち上がることもできないでいると、そのうちに中から音や声が聞こえなくなり、すっかり静まり返った気がした。それから数分ほど経ってから、こん、こん、と屋上の扉が何度か叩かれた。生きている人間だけが叩けるような一定のリズムの音だった。
「――終わった、開けてくれるか」
金髪の彼の落ち着いた声が響いて、私はなんとか立ち上がり扉を開けた。
恐る恐る彼の表情を窺う。その顔は疲れ切った顔をしているでもなく、ほとんどいつもと変わらない普通の表情に見えた。しかし彼の纏っている白い布の半分以上は、赤褐色や毒々しい赤に染まっている。死神でもこんな露骨な色合いの布は纏っていないだろうな、とくだらないことを考えた。彼の手にしている日本刀もところどころ同じ色が付着していて、払いきれなかったであろう血が少し滴っていた。一体何人を介錯してきたのだろう。十数人を斬るような大立ち回りをしてきたのだろうが、まさかそんな胆力があるとは思わなかった。
しばらく立ち尽くして彼の姿をまじまじと見ている私のことをどう思ったのだろうか、彼は視線を落として落ち着いた低い声で言う。
「……中にはもう、生きている人間はいない。死者もだ」
全員を斬ったの?
「ああ、誰も彼もな。俺が再度中に戻った時、もう噛まれていない人間はいなかった」
……全員死者になってたか、なる前の状態だったってこと?
「ああ」
そう返事した彼の声はいつもよりも低く、その瞳が細められた。
中に広がっていたのは紛れもない地獄絵図なのだろう。たった一時間ほど前まではこんな惨状の中を細々と生き延びている人間たちがいたはずなのに、この避難所内に生きて立っているのは最早私達二人だけだというのは信じがたい事実だった。
しばらく扉を開けて会話をしているからか、一階から空気が上ってきているらしく、悪臭が鼻をつく。腐臭と血の臭い、その他諸々が混ざってなんとも形容しがたいおぞましい臭いになっていた。これが元人間から発せられているのだと思うと吐き気すらしたが、なんとかむせる程度に留めた。
彼は申し訳無さそうに目を伏せて、屋上の扉を後ろ手に閉めて壁を背にして座り込む。それからぽつりと呟いた。
「……あの男は、遠征時に噛まれていたんだろうな。俺はそれに気がつけなかった、俺のせいか」
そんなことない、あの人もあなたも悪くないよ。
「そう、だろうか……」
そう言って、彼はうつむいて口をきゅっと結ぶ。それから数分、十分と経過して、どちらも口を開かないまま時が流れた。
――やがて陽が沈み、夜が来る。外はほんの少し冷えたが、それでも凍えるほどの寒さではない。流石に腐臭と血のにおいが立ち込めている屋内に戻る気にもなれず、その晩は屋上で過ごすことになった。
味気ない食事を手に取り、嚥下し、彼が口を開いた。
「あんたは、これからどうする」
これから?
「ああ。生き延びたいのか?」
彼の問いに、私は空を見上げて、それから遠くに見える住宅街を見てから答える。
正直、もう何がしたいのかはわからないかな。家族ももういないし、生きる目的はもうないかも。
「そうか」
どうにかして生き延びてまた避難所にたどり着いても、こうして全滅する可能性だって高いし。
「……それもそうだな」
そこで一度会話は打ち切られたが、私は気になって彼に尋ねた。
あなたは何かしたいことがある?
「……俺は、せめてこうなった原因を探りたいと思っている」
原因を?
「どうしてこうなったのかを、だ。何故死者が起き上がり人を襲い更に死者を増やすのか、そしてこんな歴史はどうして生まれてしまったか、それを知りたい」
歴史かあ。壮大な話だね。
「ただ、この状況ではもう厳しいかもしれないな」
彼は悔しそうに顔を歪め、顔を上げて空を見上げた。私も同じように空を見やる。頭上にはこんなにも美しい星々が輝いているというのに、地上にはどうしてこのような地獄が生まれてしまったのだろうか、と思わずため息が出た。
彼は少し目を細め、どこか眩しそうに夜空を眺めつつ言う。
「あんたのように、精神が正常な状態で話をできる人間ももう殆どいないだろう」
私も言うほど正気じゃないと思うけど。
「会話ができる分かなり正常だろう。もう、そんな状態で生き延びている人間はこの国にはいないかもしれないな」
まあ、みんなちょっとおかしい感じはあるかもしれないね。会話できないことも多かったよ。
「だろうな」
……それでも、探しに行かなくちゃいけないの?
「……ああ」
彼は頷くと、一度言葉を切って私のほうに視線を向けてきた。私も同じように、彼の翡翠の瞳を見やる。その瞳は揺らぐことなくまっすぐこちらに向けられている。
「俺は明日にでもここを出る」
そう言って、彼は瞬きを一つして続ける。
「あんたはどうする? ここで生きていくか? もしここを使うなら、片付けは手伝おう。しばらくは臭いがひどいだろうが、二階の部屋を使えば、一応暮らせはするだろう」
それから一度唇を閉じ、いくらかの間を置いて彼は静かに問うてきた。
「それとも、俺に着いてくるか」
――しばらく、私達の間に沈黙が流れる。私は何も言えなかった。彼に着いていって、どうしてこうなってしまったかの原因を探る。それが、果たしてできるのかどうか、そして私がやるべきことなのかがわからなくなってしまったからだった。
私の無言を否定と受け取ったのか、彼は顔を反らしてばつが悪そうに言う。
「……いや、今の言葉は忘れてくれ」
それから彼の表情は感情の読み取れない真顔に変わり、こちらに向かって再度言葉を投げてくる。
「もしもう生きるのが辛いということがあれば、介錯くらいは請け負おう。一瞬で終わらせる自信は、ある」
介錯。こんな地獄で生きるくらいなら、彼に痛みも知らないまま一瞬で、やさしく殺してもらうのが良いのかもしれない、そんな考えがよぎった。
ただ何故だろうか、そう言われると不思議と死にたくない気がしてきてならなかった。こんな世界で行きていてもろくなことはないだろうに、まだ命を終わらせたくないと思ってしまったのだ。自分の感情が迷子になったまま、私はゆっくりと口を開く。
いや……別の場所を、探そうかな。
「……暮らせるところをか?」
暮らすかどうかはわからないけど。こんな虚無感と無力感に苛まれているくらいなら、とにかく、何もかも忘れて進んでみようかなと思って。
「そうか」
その過程で命を拾うこともあるのかもしれないし。
「……そうだな」
彼は静かに頷くと、瞬きを何回かするくらいの時間を置いて再び口を開いた。
「それが、いいのかもしれない。あんたはここまで一人で生き延びているんだろう。今後誰かと共に行動をしてもいいし、しなくてもいい。目的を見つけるために、行けるところまで行くのもいいだろう」
そうだね、まあ気が変わって死にたくなるかもしれないけど。
「俺の手で死なずとも、あんたは一人でも死ねるんじゃないか。ここには、おそらくもう誰も入ってくることはない。故に、ここで静かに死んでいくのもいい」
一人で死ぬのかあ。それは少し怖い気もしてくるから、人間って面倒だね。
「……人間は、そんな生き物だ。やはり、あんたはまだ正常だと思うぞ」
そうかなあ……。
一度会話が途切れる。私も彼も何も言わないままでいたが、やがて彼が居住まいを正してこちらに向かって話しかけてくる。
「俺は、原因を探しに行く。ここに生き延びている人間が集まっていたから少しでも力になれたらと思い残っていたが、守るべき人間はもういない」
彼は悔しそうに背後の扉に視線を向けた後、再び私の方を見据えて続ける。
「ただ……一人、ここに残っている。まだ人間を守れるというのなら、寄り添って生きていきたいと思う」
その言葉を聞いて、思わず手をきゅっと握った。どうして、そう在りたいと思うのだろう。あんなに醜い姿を見たばかりだろうに、それでも人間を守りたいと思うのだろうか。
彼はまた言葉を紡ぐ。
「だから、もしあんたが共にいてほしい、と言うのなら……ここに残るにしろどこかへ行くにしろ、できるだけ傍にいる。もう一度だけ訊かせてくれ。どうする?」
私は彼の視線が少し恐ろしくなって、目をそらした。彼自体の得体が知れなくなってしまったというのもあるが、その想いを受け止めきれる自信がなかった。人間のために在ろうとしている彼は、もしかしたら同じヒトではないのかもしれない、そう考えてしまってならない。
私の返事を待たないまま、彼は一度立ち上がった。
「……もしあんたがそれを望まないなら、俺はもうここを出よう。どうするかは明日の朝決めてくれ」
そう言って、彼は「まだ毛布があったはずだ、取ってくる」と行って中へ戻っていく。
ほんの少しの間、一人の時間が来た。私はゆっくり立ち上がり屋上から死にゆく街と空を眺める。ほんの少しだけ微かな明かりが灯っている建物が見えた。まだ一応生き残りがいるのだ。
この世界をどう生きていくのか、それとも死んでいくのか。それを考える時間は今までもあったはずなのにすぐに決断をできなくて、私は彼が再び屋上へ戻ってくるまでの間ずっと街を眺めていた。
それから屋上で毛布にくるまって夜を明かし、太陽が昇る。雲ひとつない晴天は久しぶりだった。
結局、私はしばらくここへ残って、一人でこの先を考えることにした。そのうちにここも離れるので片付けも不要だ、と彼に伝える。
「そうか」
淡々とした返答を聞きながら、私はうん、と頷いた。正直なところ、危険があろうとも彼と共に生きたい気持ちは強かった。しかし今後行動を共にして、もし目の前で死なれたらと考えたら、そのほうが恐ろしいことに気がついた。誰かの命が手の届く距離で終わっていくのが、ひどく怖かったのだ。
私は無理矢理に口角を上げてぎこちない笑みを作って言う。
死なないでね。どうか元気でいて。
「……ああ」
彼は頷き、私の手を軽く握った。久しぶりに触れた人の皮膚、体温に驚いてほんの少し肩が跳ねる。
「あんたも、無事でいてくれ。死ぬなとは言わないが、せめて納得のいく最期を迎えられることを祈っている」
……なんか矛盾した変な挨拶だね。
「ふ、だろうな……」
彼はほんの少しだけ口角を上げて微かに笑った。笑顔を初めて見たな、と内心驚いていると、すぐにその笑みを消して彼は私の手を離す。
「では、どこかで会ったらよろしく頼む。達者でな」
そう言って彼が屋上から下りようとした瞬間に、私は気づく。そういえば、この数日間で彼にちゃんとお礼を言えただろうか。
私は彼に駆け寄って、ここへ来てから一番大きな声を出した。
助けてくれて、ありがとう。
「――ああ」
一瞬、私と彼の視線が交わる。それから短く答えた後に、彼は屋上から飛び降りた。なんて無茶を、と思いその背中を追おうとすると、彼は綺麗に着地をしてすぐに体勢を整えると勢いよく地を蹴って駆けていき、あっという間に姿が見えなくなってしまった。あんな身体能力の持ち主だったのかと面食らう。
彼が去ってから数分が経ち、数日前と同じように一人で過ごす時間が訪れる。心に穴が空いたような気持ちになったのは久しぶりだと嘆息しながら、彼が残していってくれた水を飲んで一息つく。
……あ。
一つのことに気がついて、思わず、声が漏れた。そういえば彼の名前すら聞いていなかったではないか。どうして気が付かなかったのだろう。この一週間くらいで、すっかり他人に対する興味を失くしていた自覚はあったが、それにしたって恩人の名前すら聞いていなかったことに気が付かないとは。
ひどく後悔したがもう遅いか、と開き直って屋上に大の字に寝転がる。もし名前を聞けていたとしても、これから出会うこともないだろう。
そのまま十数分を屋上で寝そべって過ごしていたが、風の吹く音しか聞こえない世界が妙に恐ろしくなって、やっぱり一緒にいてもらえばよかったんだろうか、と心が涙を流し始め、膝を抱えて丸くなる。
それでも、もし隣にいてくれた人間が死んでしまったらと考えると、共にいる勇気がない。そのまま後を追いかねないのだ。たった数日間共にいた人間と離れただけでこれなのだから、これ以上につらい思いをするくらいならこのまま一人がいい、一人でいい――そう思ってしまう。
思考に耽っていれば時が過ぎるのは早いもので、そのまま丸一日を過ごした。やっと心は落ち着いてきて、次の日の朝、深呼吸をしながら私は考える。
やっぱり、こうして一人で生きていたほうが気楽かもしれない。死ぬことも生きることも構わないで良い。生き延びればラッキー、死んだらアンラッキー、それくらいのほうがいいのかも、と。
ただやはり、目的がないと無気力になってしまう。それではここへ来る前と同じで、地に足がついていない生きた幽霊と同じようになってしまう。どうしたものかと考えて、私はふと思いついて顔を上げた。
――そうだ、ここを出てどこか死に場所を探す旅にでも出よう。
生きるための場所を見つけるには、とてつもないエネルギーがいる。一人でそれをするには、もう私には不可能だった。生はほとんど諦めてしまっている。死に関して考えるほうが気が楽になる。おかしな話、そのほうが明るく在ることができる気がした。ただ、もし死に場所を見つける旅の途中でもし希望が見つかったら、生き延びるために頑張ってみようか、という正の感情も芽生えてくる。
これしかない。私は大きく両腕を広げて深く深く息を吸った。それから頷いて、口を開く。
「うん……うん、それがいい。死にたい場所を、探しに行こう」
その時はじめて、この騒動が起きてからの間しばらく聞き取れなかった自分の声が、ようやくはっきりと聞こえた気がした。今まで自分の中でだけ反響しているような気がした声が、やっと外に向けて発せられた気がする。
あと少しだけ足掻こう。死に場所を、探そう。そう思えば不思議と気分は明るくなって、私はおかしくなって笑いながら言った。
「やー、死者になんかなってたまるかって話だよなあ。せっかくここまで生きてきたんだし」
ほとんど食事も取っていないのに、身体からは活力が湧いてきていた。身体が軽い。屋上の上でくるくると回って空を見て、街を眺めながら呟く。
「……死者っていうのもなんだか変か。あいつらは歩く死体……映画の中みたいなゾンビなんだし。これからはちゃんとゾンビって呼びますか」
――あれらは人間じゃない。
心のなかで強く言い切って、私は両頬をぱちんと叩いた。もしどこかで彼と再会したら、今度こそ介錯を明るく頼めるくらいに、自分を取り戻そう。第二の目標もできて、世界がどんどん明るく色づいていく気がする。
「自分探しの旅だな〜。なんか吹っ切れちゃったなあ」
そうと決まれば、と私は屋上の扉を開いた。中にはまだ人間一人の一週間分程度の物資は残っている。それらを持ってここを出てしまおう。そして一応どこへ行くかを決めて、綺麗な場所を探そう。この場所で死にたいと思えるような最高の墓場を探そう。
鼻歌を歌いながら荷造りを始める。階下から漂ってくる腐臭と血の臭いは、もう気にならなかった。
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