ゾンビまみれの世界で拾われた燭台切の話 | ナノ

十六話


 久方ぶりに車から降りて過ごした一夜はあっという間に過ぎていった。しばらくはふたりの寝息が静かに響いていたが、やがて朝日が昇り始め、その光で燭台切の意識はゆるやかに覚醒した。
 こんなに穏やかな気持ちで眠れたのはいつぶりだろうか、と燭台切は小さなあくびを噛み殺しながら身体を起こした。朝方の空気は澄み渡っており、ほんの少し肌寒さを感じる。展望台の上から見渡すかぎり周辺に死者の姿はなく、しばらくここでゆっくりと過ごしても問題ないだろう、と安堵する。
 燭台切は未だに眠っている女の顔を見やる。起きる気配はなく、珍しく深い眠りについているようだった。
 ――穏やかな気持ちで眠れたものの、彼女のことを考えると心はざわついて仕方がない。
 どう考えても、彼女の精神状態は今かなり不安定だ。出会った当初はこんな状況にも関わらずおかしいほどに明るい人間だと思ったが、あれはただ心が壊れているだけだった。現実逃避のために自分のことを無理矢理に鼓舞して、なんとか突き動かしている脆い人間だったのだ、と今ならばよくわかる。そこに己という人間の形をした頼れる存在が加わって、彼女の心は歪みが強くなったように感じた。
 歪んでいようが壊れていようが、ちゃんと生きている今はまだいい、と燭台切は考える。温泉街に行き、美術館を見て、そこにあるかもしれない何かを見つけるという目的があるからだ。
 ――しかし、目的が達成された後は、一体どうなってしまうのだろう? 基本的に明るく振る舞っているとは言え、言葉の節々から、彼女はもう生きることを諦めつつあり、死に場所を探しているとしか思えないのだ。人が生きる目的を失ってしまったとき、それが死を迎えるときになることも容易に想像できる。
 それとも、己がいるならそのために生きてくれるのだろうか。生きる目的を、燭台切光忠という一振りの刀に見つけてくれるのだろうか? 燭台切光忠という『人間』がいれば大丈夫、そんなふうに思っている可能性だってある。

(……僕もだいぶ入れ込んできてしまったかな、この子に……)

 最初はただ哀れな人の子がいたものだと思ってここまで着いてきたようなものだ。燭台切もまた、目的がなかったからだ。未知の事態が起きている世界で何故か目覚めてしまったため、最初に見つけた人間と行動を共にするほか選択肢がなかった。それが、たまたま彼女だったというだけのこと。
 それでも今は、彼女のことを見守る、あるいは見届けなければと強く思っていた。己がどうなるかということも不安に思わないわけではないが、今は彼女という人間がこの世界でどうなるのか、どうなりたいのかという答えを聞いてみたいと思うのだ。どんな結末を選んでも、それを受け入れてあげたい、そう考えてしまう。
 彼女はまだ眠っている。もう少し寝かせておこう、と小さく頷いて、燭台切はもう一度眼下に広がる街を眺めて思考に耽る。
 そういえば、自分が来る前、彼女はどのように生き抜いてきたのだろう。しかも、明確な目的がなかった状況だっただろうに、人間一人で生き延びてきたのだろうか?
 その話を知る必要があったときに訊いてみようか、と燭台切は一度屋上の入り口へと向かう。そろそろ、朝餉の準備をしておかねばならない。身じろぎひとつせずに眠り込んでいる女を起こさないように気をつけながら、燭台切は静かに階段を降りていった。



  ◆



 この騒動が起きて二週間ほどが経過した。騒動というにはあまりにも軽い言葉だろうか。惨状、というのが正しい表現なのだろうが、自分が置かれている状況が地獄だということを自覚したくなくて、数少ない生き残りの誰かと会話を交わせるときも「例の騒動が」と口にしていた。
 出会う人々は、これは誰かが引き起こした大事件なのだと言う人もいれば、新たな病なのだと嘆くのが大半だった。事件や病というにはいささか非現実的すぎると思えたが、この生き地獄を言い表す方法は人それぞれなのだろうと納得できる。
 個人的にはそんな大仰な言い方よりも、みんなゾンビ映画みたいになる、という軽くて現実味のない言葉がこの状況には一番しっくりくる。今起きているこれは、エンターテイメント、フィクション、人類が全員で見ている悪夢なんかじゃないのだ。どうせ実現するならもっと幸せに満ちたやさしい世界であればどんなによかったことか。
 死者が起き上がってきて生者を食らい死者が増える。死体が起き上がる。動く死者が増える。逃げ惑う生者が死者に捕まって食われる。起き上がる。その繰り返しになり、腐っている人間の身体がそこらを歩いている光景も珍しくなくなった。
 どの施設も停電してから五日ほどが経過している。テレビには何も映らずラジオからは不快なノイズしか流れなくなり、電波が遮断され、当たり前のようにスマホは使えない。充電がなくなったという問題ではなく、もうネットワーク自体が死んでいるのだ。生きている人間に会うことができない以上、もう何が起きているかといった情報は入ってこない。

 ――そろそろ水がなくなりそうだということに気づき、なんとか死者から逃げて知らない街を徘徊していたところ、そこそこ屈強なバリケードがある避難所を見つけた。外観からして市民館なのだろう。避難所に指定されているような場所ならばまだ誰かがいるかもしれない、とふらりとそこを覗く。バリケードは会議机の足がビニールテープやセロテープがぐるぐると巻かれて強く固定されて、入り口の扉は内側から木の板が打ち付けられており、万が一扉のガラスが割れても簡単に侵入できないようになっている。
 この様子では中に入ることは難しいだろうか。だるい身体に鞭を打って少し前進し、扉に聞き耳を立ててみると、中からは微かに物音が聞こえた。となれば、まだ中に生きている人間がいてこっそりと生き延びているか、死者が入り込んで意味もなく徘徊しているかだ。
 生き残りがいたとしてもこの状況だ、今更リスクを侵して外からの人間を招くわけもないだろうと諦めの気持ちで身体を反転させる。せめてどこかで飲み物を調達したいがもう望みも薄いに違いない。そろそろ自分の生命についての心配が出てきた。
 ぼうっとする頭を抱えて身体をよろめかせながら歩いていくと、上の方からカチャ、と物音がした。

「――生存者か」

 正常な人間の声がした、窓が開いた音が聞こえた、と起きた事象を遡って認識していく。落ち着いた声は上から降ってきた、となると市民館の入り口の上、二階の窓からこちらに声を掛けてきたようだった。頭をもたげてそちらを見やる。わずかに開けた窓の隙間から綺麗な金髪の翡翠の瞳が覗き、まだこんなに綺麗な人間が生き残っていたのかとなんとなく感動までしてしまった。
 少し間を置いてそうだ、と掠れた声で呟くと、彼は窓を開けてこちらの姿を確認している。

「怪我は?」

 ない。

「あれらに噛まれたことは」

 ない。

「そうか。五体満足には見えるんだが、一応噛み跡がないか見せてくれ。悪いが、安全だと思ったら中に入れるようにする」

 そこから確認するの?

「あんたから見て左側、小さな屋上があるだろう。そこに登ってきてくれ」

 どうやって?

「はしごを使ってくれ。死者が近くにいないか確認を頼む」

 ……いない。

「――では、今下ろす。登ってこられるか」

 ……。

 どうやらありがたいことに、死者になる可能性がないと判断されたならば中に入れてもらえるらしい。ほんの少し間を置きわずかに開いていた窓が閉まり、ドアが開いた音が微かにしたかと思うと、左上にある柵――彼の言う通り確かに屋上があった――から避難はしごが下ろされた。二日ほど何も食べていない身体にぐっと力を入れて、上から下ろされたはしごをなんとか登りきった。
 二階の屋上へたどり着き、コンクリートの床へと足を下ろす。その直後、先程の窓から覗いていた声の主が正体を現した。いわゆる金髪碧眼に分類されそうなやけに綺麗な青年だったが、見た目について言及するのも野暮かと思い無言で彼の前に立つ。

「荷物を置いて両手を上げてくれ。盗りはしない」

 そう言われると逆に疑っちゃうけどな。

 中に入れてもらえるかもしれない、という安心感から、先程までの短いやり取りとは違った軽口が飛び出した。声が驚くほど掠れていて、自分に対して驚愕の表情を浮かべる。それに怪訝な表情を返してから、彼が再び言葉を発した。

「建物内にも外にも逃げ場がないからな、盗ってもあんたに捕まるだろう」

 今の私が捕まえるのは難しいと思うし、盗ってからここから突き落としたりはできるんじゃないかと思って。

「……しないから、安心してくれ。とりあえず、見てもいいか」

 無礼な発言に、彼は腹を立てている様子もなかった。ここ数日ですっかり人間不信になってしまった自分を心の中で嘲笑しながら、言われたとおりに数少ない手荷物とリュックを下に下ろして、彼の前で両手を上げる。ついでに袖もまくり、できるだけ彼が身体を検めることができるようにする。
 衣服の腹のあたりに血の跡が付着しているので、彼は少し難しい顔をしていた。ああ、と思い、服の裾を掴んでめくる。服の下には、逃げ惑う生きた市民からうっかり食らってしまった肘鉄のせいでできた痣くらいしかない。

「……助かる」

 彼は少し気まずそうに言った。私はわずかに頷いて肌を見せる。

「死者に噛まれていないんだな」

 確実に噛まれてない。なんならこの場で全部脱いだほうがいい?

「いや、いい。そもそも噛まれた人間はそんなことを言わないだろう。あんたは大丈夫だと信じよう」

 彼はこちらの目を覗き込み数秒視線を交わらせた後に、そう言って踵を返した。それは確かにそうかもしれない、と納得した。噛まれたことで死者になりつつある人間がこんなことを申し出るならもう少し動揺するのかもしれないし、大抵は見た瞬間に「この人間は噛まれたのだ」とわかる。目から生気が失われている。希望を捨てた人間の顔をしているのだ。たまにまだ生きることを諦めていないのか、噛まれても元気そうにしている変わった人間もいるが。
 彼は屋上の扉のドアノブをひねって、顎をくい、と動かしてこちらに入るように促す。

「ほんの少しの水と食糧くらいなら分け与えることができるだろう。ただ、期待はしないほうがいいぞ」

 むしろちょっともらえるだけでもありがたいです。

「……そうだろうな」

 この状況では、と彼は小さく嘆息した。今は隔離された建物に入れてもらえるだけで幸せなのだからどうこう言うつもりはなかった。ありがたく中へ入らせてもらうことにする。
 ――屋上から入って二階の廊下を見やると、人間は彼と自分以外誰もいない。入り口の扉から僅かに漏れ出ていた音は一階からのものだったようだ。
 彼の後ろをついていきながら建物内を観察する。二階の部屋はいくつか施錠されているようだった。その中からかりかりと音がしたり少し嫌な臭いがしたので、もしかしたら死者を閉じ込めているか生者が引きこもっているのかもしれない。
 彼は立ち止まり「少し待っていろ」と空いている部屋のうちの一部屋に入ったかと思うと、がさごそと音がした後にこちらにペットボトルを手渡した。500mlのミネラルウォーターのペットボトルだった。手渡されたそれをしばらくじっと見つめて、数秒経ってからキャップをひねって一気に煽る。こぼさないように、大事に飲んだ。

 ありがとう、これで少しは命が延びた気がする。

「そうか」

 よかったな、と彼が口を動かした気がした。次いで、小さな箱に入った携帯食料をこちらに寄越したので、思わず目を見開いて彼に問う。

 もらってもいいの?

「ああ。ただし、この部屋に水が隠されているのは黙っておいてくれ。俺が個人的に置いているものだからな」

 みんなに分けているんじゃないのか。

「取り合いになるからな。基本的にはこの隣の部屋に置いてある分で全部だ」

 彼は先程水を取ってきた部屋の隣の部屋に視線を向けて言った。

 ……へそくりを分けていいの?

 大事にとっておいたんだろうに、という意図の視線を送ると、彼は少し目を伏せて言う。

「生きている人間に分け与えたほうがいいだろうからな」

 その言葉に少し含みを感じて眉をひそめる。

 まさか、この中にいるのがもう死者しかいないとか?

「……語弊があったな。避難者は生きた人間だ。ただ……」

 ……ただ?

「……もう、長くはないだろう、と」

 彼はそう言って身体を反転させ、見ればわかる、と小さく呟いた。
 そんな死にかけの人間ばかりがいるのか、いやこの状況ならばそれはそうか、と納得をして一人頷く。彼はそれを無表情で見つめていた、気がした。それから再び口を開き、彼はこの避難所の説明を始めた。

「数少ない物資……主に食糧と水、それと薬類なんかは二階の今の部屋で保管している。勝手に出すことは禁止で、基本的には俺が倉庫番をしている状態だ。ちょろまかそうとする人間もいるからな」

 一階に置いておくと誰でも盗めるってこと?

「実際頻発したからな。それから二階に移して、俺がこの部屋で寝泊まりしながら見張っている」

 それはお疲れ様って感じだね。

「……まあ、そう苦でもない。もう盗るモノもほとんどない上、もう盗みに入るような気力がある人間がいない」

 彼は少し視線を落として言う。

「後は緩やかにここで死を待つくらいの量しかないからな、出ていきたければ出ていくといい」

 まあそんなものだろうと思ってたし、あるだけありがたいよ。

「そうか」

 それから少し間を置いて、下の居住空間を一応案内しよう、と彼が申し出てくれたので、ありがたくそれについていくことにした。


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