明けて翌日、私は米花総合病院を訪れた。
命の恩人が入院している病室の前まで来ると、しかし扉に手を掛けられずに立ち尽くす。
ぐずぐずと思い悩み、躊躇していれば、背後から伸びてきた手が代わりにドアをノックした。
思考の中に潜り込んでいた私は唐突に現れたその気配に、ぎょっとすると驚いて振り返る。
ぽかんとしている昴と目が合った。
「昴−−」と私もぽかんとしながら名前を呼べば、彼は小さく噴き出した。
呆気に取られていれば、昴は口許を覆いながら肩を震わせ「すいません」と詫びる。
「名前もそのような顔をするんだな、と思いまして」
「……まあね」
私は苦笑すると、眉を下げて彼を見上げた。
「昴、昨日は−−」
しかし言いかけたところで昴の指が唇に触れて、私は口を噤む。
昴はちらりと笑った。
「謝罪は要りません」
「だけど」
「いまの貴重な顔を見せてもらったことで、ちゃらにしてあげますよ」
そっか、と苦笑を零したところでドアが開いた。
そこに立っていたのは蘭で、彼女は私を認めると顔を輝かせた。
「名前さん、来てくれたんですね!」
「−−名前さん!?」
驚く声が聞こえて、私は病室の中を覗いた。
ベッドの中で身を起こしていたコナン君は目が合うと、ひどく安堵したように息を吐いた。
同じく病室にいた少年探偵団の皆が駆けてくる。
「名前お姉さん、こんにちは!」
「コナン君のお見舞いに来てくれたんですね!」
「コナンの奴ずっと名前の姉ちゃんのことばっか言ってたんだぜ」
「しょうがないでしょ。江戸川君は彼女を助けようとしたきり気を失っていたんだから」
歩美ちゃんは、そうだよね、と言うとコナン君を振り返った。
「ね、コナン君?名前お姉さん、ちゃんと無事だったでしょ」
「ああ、そうだな……安心したよ」
その光景を微笑ましく見守っていた蘭は、昴を見上げると礼をした。
「こんにちは。昴さんも来てくれたんですね」
昴は、どうも、と愛想良く笑うと続けて、
「ところで花を生けるには、どこへ行けばいいのでしょう」
「花って−−ああ、名前さんが持ってきてくださったものですか?」
「ええ。案内していただけませんか?できれば全員で」
病室の中を見回してから私に視線を移して言った昴に、蘭は初め呆気に取られていたが、すぐに理解したように笑うと大きく頷いた。
「分かりました。歩美ちゃん、哀ちゃん、名前さんが持ってきてくれた、このお花を生けるの手伝ってくれない?」
「うん、いいよ!」
「ええ、行きましょう」
「光彦君と元太君も、お願いできる?」
「僕たちもですか?」
「でも俺、花のことなんて何も分かんねえし」
それじゃあ−−と声を上げたのは阿笠博士だ。
「わしと一緒に病院内を探検するのは、どうじゃ?総合病院じゃからのう、見所は十分にあると思うが」
「探検ですか?胸が躍りますね!」
「食堂も行っていいのか?」
「そうじゃな。ヘルシーな病院食なら、哀君も許してくれる−−」
「駄目よ、博士」
楽しそうに会話しながら病室を出て行く彼らと入れ替わるようにして、私は昴に背を押されると入室した。
子供たちが去った後だと余計に部屋が静かに思えて、私は病室の中、視線を泳がせる。
「ここ、どうぞ」
そう言ってコナン君が示した椅子に、私は礼を言いながら腰を下ろした。
少年に目を向ける。
優しく笑っている彼に、頭を下げた。
「本当に−−すまなかった」
「気にしてないよ」
「けれど」
「僕、頑丈だもん。それより名前さんが無事で何よりだよ」
私は困って顔を上げる。
にこにこと笑っている少年を見て微苦笑した。
「そうか……謝罪を受け取ってくれるつもりはないんだね」
「だって本当に気にしてないんだもん。名前さんを助けたくて僕が勝手にしたことだから、名前さんが無事ならそれでいいの」
「……それじゃあ、お礼は?」
え、と目を開く彼に私は微笑んだ。
「助けてくれたこと、本当に感謝している。ありがとう−−という、この言葉は受け取ってもらえるのかな」
コナン君は瞬くと、うん、と笑みを浮かべた。
「どういたしまして」
「……許しても、もらえるだろうか」
問えばコナン君は目を丸くさせた。
「許して欲しいの?」
「うん。その……君たちと、これから先も仲良くさせて欲しいんだ。勿論、君たちが良ければの話だけれど。……だから、その許しがもらえるかどうか」
「名前さん−−」
「……やっぱり駄目だろうか」
コナン君は強く首を振った。
「ううん、許すよ!そもそも許すも何もないけど、名前さんが許しが欲しいって言うなら、何度でも言ってあげる」
「コナン君−−」
「迷惑なんかじゃないからね。俺いま、すっごく嬉しいよ」
「それは……良かったよ。ありがとう」
「でも、どうしたの?」
「どうした、って」
「だって前までの名前さんだったら、許してくれないならそれでも良いよ、とか、むしろ許さないでくれ、とか言ってたじゃない」
私は思わず苦笑を零した。
コナン君は、そんな私を優しい目で見やると笑う。
「でも良かった。昨日安室さんから、もう大丈夫だろう、っていう連絡が来て、それでも僕ちょっと半信半疑だったんだけど……本当みたいだね」
「うん……」
「昨日、安室さんと何があったの?安室さんは、自分は特に大したことはしていない、って言ってたけど」
「そんなことはない。彼には本当に世話になったんだ。……だけど、そうだね。透だけではないかな」
「安室さんだけじゃない?」
「うん。透と、そして皆のお蔭なんだ」
君も――と私はコナン君を見詰める。
「言ってくれたでしょう?運命から逃げては駄目だ、と。そして先には光があるとも言ってくれた。だからもう一度、歩いてみることにしたんだよ。それも今までとは少し違う方向にね」
「だから僕たちと向き合うことにしてくれたんだね」
「うん……運命が何なのかは、まだ掴めていないのだけれど、私は他にも色々なことから逃げてきていてね。その一つが望みであり、更にその内の一つが、大切に思う人たちと歩くこと、なんだ。だから――」
「ま、待って」
首を傾げれば、コナン君は僅かに頬を赤らめて訊いてきた。
「それじゃあ、つまりその……名前さんは僕たちのことを大切に思ってくれているの?」
「え?ああ――まあ、あの……いや、君たちって可愛いよね。うん、それはもう仕方ないくらいに」
「大切には?そう、思ってくれている?」
「あの……ええとね。そ――そう、だね。私は君たちのことを好ましく、た、たいせ――」
「名前さん、どもりすぎ。いつもの調子はどこ行ったのさ?訊いておいてなんだけど、こっちが照れちゃうよ」
ごめん、と私は苦笑を零す。
「まだ慣れていないんだ。自分の気持ちを伝えるのって、こんなに難しいことだったっけね」
「まあ僕は嬉しいし楽しいしで、いい気分だけどね」
そう言って笑うコナン君に、私は困ったなと頭を掻いた。
でも――とコナン君は言った。
「僕たちと向き合ってくれるって言うのなら、もうあんな危険な真似しないって約束してくれる?」
「――それは」
「僕たちが名前さんの不幸を望んでいないことは、ずっと前から分かってたよね」
「そうだね、目を逸らしていただけで分かってはいたよ……でも、ごめん。その約束はできないんだ」
言えばコナン君は目を丸くさせた。
てっきり、また怒られるだろうと思っていた私は、そんなコナン君の様子を不思議に思いながらも口を開く。
「私は確かに嘘を吐くけれど、だからこそと言うか、交わした約束は必ず守るよ。当然のことと言えばそうなのだけど、果たせない約束は結ばない。そこだけは嘘を吐かないようにしているんだ。決して守れないことを分かっていながら、分かった、約束するよ、などと言う嘘はね。そして危険を冒さないという約束は結べない。今までも、そしてこれからも私が対峙していくものの中に危険がないなんていうことは決して有り得ないから」
だから、ごめんね――そう謝れば、コナン君はふっと笑った。
「分かった。いまはまだ、それでいいよ」
私は少々、呆気に取られる。
「怒らないんだね」
「うん。名前さんが本当に僕たちと向き合おうとしてくれていることが分かって嬉しいから」
「……約束を結べないと言ったのに、それが向き合うことの証左になっていたかな」
「だって前までだったら名前さん――っていうか実際に言っていたよね」
「実際に?」
「ほら、前に骨董品店で起きた強盗未遂事件のとき、名前さんが犯人に撃たれたじゃない?そのとき名前さんってば」
――危険な真似は、もうしない。
「って、あまりにあっさりと言ったでしょ。あんなの、どう考えても嘘だったし、名前さんも嘘だと気づかれても良い――むしろ気づいて軽蔑してくれ、くらいの気持ちで言ったよね?」
「ああ、あのときの……そうだね、返す言葉もありません」
降参、とでもいうように両手を上げた私にコナン君は笑う。
「だから、あのときと比べれば名前さん、すっごく変わったよね。それが嬉しいから、いまはまだ勘弁してあげるよ。でもいつか必ず約束させてみせるからね」
「おやおや……君が言うと本当にそうなりそうで怖いな」
「当然でしょ?それに約束は交わせないにしても、気を付けることはしてよね」
「ああ、分かったよ。約束とまでは行かないものの、なるべく気を付けることならできるからね。危険な真似は、もうしない――ように、なるべく、できるかぎり、極力、気を付けるさ」
「名前さんってば逃げ道、用意しすぎ。もう逃げないんじゃなかったの?」
「手厳しいなぁ。まだまだ雛なんだから勘弁してよ」
お互いに笑い合ったところに、窓から爽やかな風が吹き込んできた。
私は靡く髪を押さえ、そうして風に乗って聞こえてくる鳥の囀りに聞き入った。
射し込んでくる明るい陽射しと、爽やかな風に揺れる白いカーテンを何とも無しに眺めていれば、ややあってコナン君の視線に気がついた。
首を傾げて振り返れば、少年は真剣な表情をして問うてきた。
「ねえ、名前さん……訊いてもいい?もしかしたら名前さんに辛いことを思い出させてしまうことかもしれないんだけど」
「いいよ。答えられないことは、いままでと変わらずあるけれど」
コナン君は頷くと、私を見詰めて言った。
「青い鳥――」
軽く目を開けば、コナン君は続けて、
「名前さん、あの絵を見てから――いや、それに纏わる童話を聞いてから様子が可笑しくなったよね。気を失ったのも、あれが原因?」
「うん……そうだよ」
「……どうして?」
「そうだね……何と言ったらいいのか」
暫し考えると私は顔を上げて困ったように微笑んだ。
「幸せは身近なところにある、ということが、ひどく悲しく、また辛かったんだ。確か、その童話にも色々な解釈があると言っていたのは君だったよね?」
「う、うん。そうだけど」
「いま考えたら、別の解釈もあるから大丈夫だ、ってそう思えるんだけど、あのときはどうにも余裕がなくてね。そこへ事件が起こり、道を閉ざすような条件が揃ったものだから――って、まあ今はそのことはどうでもいいか」
「ど、どういうこと?全然分からないよ」
私は顎に手を当てて唸る。
「幸せは身近なところにある、その言葉は私に、ある一つの選択肢を突きつけたんだ」
「選択肢?」
「うん。それは私が今まで生きてきた中で見つけていた事実と整合性が取れていた。だけど同時に決して選びたくない道でもあったんだよ。だから半ば自棄になってね。そんな道を進むくらいならば逃げてしまおう、と」
「つまり名前さんは、いま自らの身近にある、その幸せとやらを選びたくないんだね?」
「そうだよ。それは私にとって幸せでも何でもないからね」
言えばコナン君は、良かった、と笑った。
首を傾げれば彼は、いや、と言う。
「名前さんを助けることができて本当に良かった、ってそう改めて思ったんだよ」
「それは、どういう」
「確かに、幸せは身近なところにあるっていう解釈はあるよ。ただその考えは勿論、当たっているかもしれないし間違ってもいるかもしれない。そして言ったよね?解釈は色々ある、って。それと同じことなんだ」
「同じこと?」
「幸せは人によって様々であり色々ある、っていう解釈もあるんだよ」
「……人によって」
「青い鳥を探して旅に出た兄妹は家に帰って来て、そこにいた青い鳥を見つける。だけど、どうして二人は家を出る前に、そこに青い鳥がいることに気づけなかったんだろうね?」
私は思考すると、ややあってはっとした。
「まだ何も知らなかったから……」
コナン君は首肯する。
「旅に出て、二人は色々な国を回るんだ。色々な物を見て、色々なことを経験する。そして人によって幸せが違うことを、どんなものでも誰かにとっては幸せであり――どんなものにも幸せを見出せることを知るんだ」
「そして彼らは自分たちにとっての幸せが何なのかを知った……旅をしなければ、そこにいるのが青い鳥だということには気づけないままだった」
「うん――名前さん、あのとき灰原が言っていたこと覚えてる?結局はその青い鳥も飛び立って行っちゃう話もある、っていう」
「ええと言われてみれば確かに、そんなことを言っていたような、そうでないような」
コナン君は軽く笑うと、それにもね、と明るく言う。
「色々な解釈があるんだ。結局、幸せは中々手に入れられないという現実の厳しさを意味しているだとか、だから兄弟は慌てて追いかけたとか、はたまた笑顔で見送った、とかね。名前さんは、どんな話であって欲しい?」
「私?どんな話であって欲しい、って」
「だって幸せは千差万別なんだもの。お話だって好きに捉えていいでしょ?」
「ああ、そうか。そうだったね」
私は目を閉じると唸る。
「やっぱり旅の果てにやっと気づくことのできた幸せが、だというのに離れていってしまうのは悲しいよね」
「それじゃあ追いかける?」
「簡単に諦められないのは確かかな。だってずっと青い鳥を――」
言い掛けて私はふと顔を上げた。
「待って……そもそも、どうして二人は青い鳥を探しに?」
コナン君はにやりとした笑みを浮かべた。
「俺は、それが幸せの象徴だから、だと思っているよ」
「幸せの象徴……青い鳥」
私は言葉を反芻して――やがて、くしゃりと笑った。
体が震える。
爽やかな風が吹き抜けた。
「そうか……分かった、分かったよ」
優しい眼差しを向けているコナン君を私は見詰めた。
「私は――見送る。そうであって欲しいと思うよ」
うん、とコナン君は頷いた。
「僕も名前さんと同じだよ。……兄妹はもう青い鳥に拘らなくても良かったんだ。二人にとって大事なものは青い鳥そのものではなくて、自分たちにとっての幸せが何なのか、それを知っているということだったから」
「だから見送ることができたんだね。二人はもう、自分たちにとっての幸せが何なのかが分かったから。たとえ飛び立っていったとしても今度は、どこでだって見つけることができるから――その幸せの象徴を」
大きく頷いたコナン君を、私は堪らず抱きしめた。
焦ったような照れたような声を上げる彼を見詰めて笑う。
「私は君が大好きだ」
言えば彼は顔を赤くして黙り込んだ。
首を傾げればコナン君はぽつりと言った。
「名前さん……そんな風にも笑うんだね」
「おや、何かいつもと違ったかな」
「うん……名前さんは、いつも綺麗に笑うんだけど、その中でも一番、綺麗だったよ……」
ぽかんとしたまま言うコナン君に、私は目を丸くさせると笑った。
「ありがとう。ませた探偵さん」
「……ていうか素直に気持ちを伝えるのは難しいって言ってたのに狡いよ。あれって嘘だったの?」
「ふふ、君がそう思うのなら、それでもいいよ。ただ狡いというのは、こちらの台詞だね」
私はそう言うと立ち上がった。
彼が入院することになってしまったことへの礼を改めて述べると、鞄から組織用の携帯電話を取り出し見せて言う。
「行かなければならないところがあるから、そろそろ失礼するよ」
「ど、どこ行くの!?ていうか、やっぱり黒づくめの組織と手を切らないことは変わらないの?」
「うん。ギブアンドテイクの関係は未だ切れてはいないから。それに君たちと歩むことは避けるべきなのに、それを望んでしまうように……彼らとは、望まざるとも関わっていかなければならないんだ」
私は、大丈夫、と言うと片目を瞑って笑って見せた。
「言ったでしょう?私は強い、とね」
「体は確かにそうだけど」
「本当に手厳しいなあ。心だって強くなれるよう頑張るさ。だから手始めに戦ってくるよ」
「僕も行く!」
「入院患者を連れ回せないよ」
「今日、退院だもん!」
「またね、コナン君」
「あっ、逃げた!」
青い鳥を見つけよ――掛軸に描かれた墨跡を見て、そうして青い鳥が幸せの象徴だということを聞いて、私は思った。
分かりにくい、そもそも理解者にとっての幸せが何なのかが不明だ――と。
(確かに私は理解者だけど、理解者が即ち私であると考える、この癖も直していかないとな)
黒の組織から送られてきた例の遺物が眠る場所――杯戸町の美術館へと向かいながら私はちらりと苦笑した。
(私は、私にとっての幸せが何なのかをまだ知らない。しかし、だからこそ探すんだ。叶わない何かを願うように)
先人が何を思って、あの言葉を遺したのかは分からないし真実は一生、闇の中かもしれない。
ひょっとすると私が初めに考えた、闇に呑まれることが幸せだという答えが当たっているかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
分からないことばかりだが、それでも良いんだ――自分の望みが分かっていれば。
私は「青い鳥を見つけよ」の言葉の意味が「闇に呑まれよ」ではなく「自分にとっての幸せを見つけよ」であって欲しいと思っている。
ならば、それで良いんだ、そう捉えれば良い。
先人たちが遺していったものは確かに異界に関する何かに繋がっているだろう。
そして私はそれを追い求めている。
だが得た情報が私の願いと重ならないときでさえ、それに従う必要など、どこにもないんだ。
それらを遺した人たちは理解者で、確かに私も理解者であるが、それでも彼らと私は違う人間なのだから。
同じ理解者だからと言って一概に幸せはこれだと言うことなど決して、できはしない。
そして、いくつもの情報を得て、その全てが私の望みを否定してきたとしても――道が閉ざされたかのように思えても、それが願いを諦める理由にはならないんだ。
叶わないから願うんだ。
見つからないのなら探すだけだ。
歩き続ける――その先に光があることを、信じて。
美術館に入った私は人もまばらな館内を、目的のものを目指して歩いた。
それはただ一文のみが記された草紙らしい。
他の展示物にも目を向けながら館内を進んだ私は、やがてそれを見つけると――立ち尽くした。
瞠目して、飾られたそれを見詰めると、そうして笑う。
先人が果たして何を思って、それらを遺したのかは分からない。
それにこの一文が異界に関する有益な情報かと訊かれれば、そうではない、と思う。
何故ならその言葉は、この世界の著名な小説家であり詩人である人物の有名な一文だったからだ。
私も前に図書館で何気なく手に取った本の中で、この言葉を目にしたことがある。
つまりは異界の言葉を使い遺す必要など、なかったはずなのだ。
だが先人は敢えてこの言葉を遺した。
何のために?
分からない――だが。
(そうであって欲しいと思う願いがあるんだ……だから勝手に解釈させてもらうよ、見ず知らずの同胞さん)
私は微笑うと、噛みしめるようにして、その言葉を呟いた。
「世界は素晴らしい――戦う、価値がある」
160409