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「待って−−透」


言うも透の足は止まらない。
身動きできない私に構わず、透はどこか緊張したような表情のまま歩いてくる。
傍まで来ると、彼は私の手首を掴んだ。
唖然としていた私は、背後で闇が蠢く気配を感じてはっとする。


咄嗟に脳裏に浮かんだのは、透の手を振り払い彼を突き飛ばして、そうして闇に飛び込むことだった。
彼には凄惨な光景を見せることになってしまうが、彼自身が闇に呑み込まれてしまうよりも、ずっといいだろう。


だが彼の手を振り払おうと手首に意識を向けて私は、はっとした。
透の手が、僅かに震えていたのだ。
怖いのだろう、目に見えないが感じる圧倒的な畏怖の塊が。
だがそれでも、彼は足を踏み出した、手を伸ばしてくれた−−私を救おうとしてくれた。


私は透を見上げ、そうして背後の闇を振り返った。
創り出した闇は不完全ながらも、きっと望めば私を呑み込んでくれるだろう。


私はゆっくりと腕を上げた。
闇に向かって手を伸ばせば、透が切羽詰まったような声音で私を呼ぶ。
闇が私の手の上を何かを確認するように這い回る。
もう一方の手を掴む透の力が強くなったが、引き寄せられることはなかった。
恐らくは透も、もう身動きできないのだろう。


闇は全てを呑み込む。
何ら関係のない人間をも呑み込んでしまい、そして理解者であっても呑み込んでくれる。
この不完全な闇は、私をこの世界から切り離し、透や彼らを危険から遠ざけてくれるだろう。
−−だが。


私は透を振り返った。


彼らは、それを望んでいない。
そして−−と私は彼に掴まれた手に目を落とした。


(私も、また……)


私は闇に向き直ると、虚空にも見えるそこに目を据えた。
掌を蠢くそれに意識を集中させて、強く念じる。


私たちのような存在に、安寧の地なんてものは、どこにもない−−異界の彼に言われるまでもなく、私はそれを知っていた。
心のどこかで分かっていた。
あのとき彼にそれを言われ胸の内に起こった感情は、新しい事実を知ったことによる驚嘆ではなく、遙か昔に見つけていたが目を逸らし続けていたものを、再び目の前に突きつけられたときのような、そんな諦めにも似た何かだった。


今までずっと希望は潰え、全ては闇に呑まれてきた。
望みを叶えるために敵の陣地に乗り込んだのに、知れば知るほど得た事実は、望みは決して叶わないのだというものだった。
そんな願いを抱くことは、無益どころか有害でさえあるとすら思った。


−−絶対に敵うはずのない何かと対峙しようとも、それが望みを捨てる理由にはならない。


だが人は、叶わないからこそ願うのだ。
望まずにはいられない何かを胸に抱き続ける。


−−逃げなければ、いつか必ず、光があるんだ。


その先に光があることを、信じて。


「−−ろ」


理解者でない透たちが、把握できない畏怖の塊に立ち向かう勇気を持ちうるのだから、私が臆するわけにはいかないだろう。
私もまた闇に、光に、運命に立ち向かっていくべきだ。
私は悲しくも闇と身近な存在であり、しかし、だからこそ闇を征することのできる存在――理解者なのだから。


「消えろ……!」


握り潰せば闇は一瞬、強い光を放つと弾けて消えた。
透は、はっとしたかと思うと私の腕を強く引いた。
だがお互い身動きできずに固まっていたせいか体は上手く動かず、私たちはそのまま体勢を崩すと地面の上に座り込んだ。
彼の胸に凭れ掛かり呆然としたまま荒く息をしていれば、透はぽつりと言う。


「……いま何か、光が」


その呟きに、はっとして我に返った私はすぐさま顔を上げると、彼の顔やら頭やらをぺたぺたと触って検分し始めた。


「透、大丈夫?どこか可笑しなところはない?」
「わっ――ぼ、僕は大丈夫だ。何も問題ないよ」
「そっか……」


私は大きく息を吐いた。
体の力を抜くと、次いで震えが上がってくる。
私は縋るようにして彼を抱きすくめた。


「良かった……」
「名前――」
「君が無事で、本当に良かった……」


透の手が優しく背中に回った。


「それは、こちらの台詞だ」


私はくすりと笑うと、震えている自分の手に目を留めた。
それは先程、同じように震えていた透の手を思い起こさせた。
私は彼の顔を覗き込むと目を見詰め、微苦笑して言う。


「無茶をする……怖かっただろうに」
「……ああ、怖かったさ」


透は片目を瞑って笑った。


「君を失ってしまうことがね」


私はぽかんとすると、声を上げて笑った。


「どうしてこう君は――いや、君たちは気障なのかな」
「名前がそうさせるんでしょう」
「ふふ、知らないよ、そんなこと。責任転嫁は止して欲しいな」


私は小さく笑うと、再び彼に手を伸ばした。
その存在を確認するように抱きしめていれば、やがて透が、おずおずと声を上げる。


「あの、名前……その」


珍しく歯切れの悪い透に首を傾げて彼を見れば、透は頬を掻きながら私に目を向けると、どこか気まずそうに視線を逸らした。
私は首を捻ると、やがて思い至って、ああと声を上げた。


「そうか、コナン君に連絡する必要があるね」
「……ああ、まあ――あの、そうだね。僕がしますよ」


言うと透は、笑って私に問い掛けた。


「もう大丈夫だ、ってね。それで、いいだろう?」


私は微笑むと、そうして確かに頷いた。


透が携帯を取り出すのを見て私は、はっとすると鞄を開く。
こちらの世界の私用の電話を取り出せば、思った通り不在着信がいくつも残っていた。
画面をスクロールすれば表示される発信者はコナン君に透、昴に哀ちゃん、そして一番多いのが快斗からの着信履歴だった。
何とも言えない気持ちで見詰めていれば、画面が着信を報せるそれに変わった。
私は恐る恐る通話ボタンを押すと、そっと口を開いた。


「もしも――」
「名前さん!?今どこですか!?」


割れんばかりの大きな声に、思わず携帯を耳から離す。
コナン君に電話しているのだろう、同じく携帯を耳に宛て何かを言っていた透が、目を丸くして私を振り返った。


「快斗、あの――」
「悪いですけど名前さんの部屋の中入って、手紙見ました」
「そう――そうだよね」
「言いたいことは色々ありますけど、それらは全部、会って直接言わせてもらいます。だから今は一つだけ――勝手にいなくなったりしたら俺、名前さんのこと許さないですからね」


そう声を上げた快斗は荒く息をすると咳をした。
私のことを捜してくれていたのだろうと思うと胸が痛んだ。


(私が闇に呑まれていれば、彼らは決して見つかるはずのない人間を、それでも必死になって捜す羽目になっていたんだ)


覚悟していたとは言え、そのことを想像すれば罪悪感が胸に沁みた。
あの−−と私は恐る恐る口を開く。


「あんな手紙を残しておいて−−勝手な真似をしておいて何なのだけれど……少しだけ、戻ってもいいかな」
「駄目です」


きっぱりとした返答に僅かに息を呑めば、快斗は笑った。


「戻るんじゃなくて、帰って来てください」


私は目を瞠ると、やがて微笑み「うん」と頷いた。









「次の角を右、でお願いします」


助手席に乗り道案内をする名前の言葉に「分かりました」と従いハンドルを切りながら安室は、彼女をちらりと横目で見やった。
窓の外を眺めている名前の表情は穏やかで、振る舞いもしっかりとしているが、どこか影が薄いように思えてならない。
彼女は概してそういう人間だった。


−−本当に、不思議な女性だ。


安室は、名前と接する度に抱く印象を今夜、改めて思わずにはいられなかった。


まだ小学生ながらに大人顔負けの−−いや、或いはそれ以上に卓越した頭脳を持つ少年から「どこか不思議な人がいる」と聞かされてはいたが実際名前に会ってみて、安室はその言葉に納得せざるを得なかった。
女は確かに不思議な雰囲気を纏っていた。
周囲の空気に馴染んでいないわけではないが、彼女の周りの空気だけが辺りと質が異なる気がする。
整った容姿はしているが、そうではない何かが、どうにも目を引く。


やがてその理由は分かった。
透き通るような白い肌は陽射しに、濡れたような黒い髪は夜の闇に、−−女は目を離せば次の瞬間には溶けて消えてしまいそうな空気を持っていた。
同時に、消えることを良しとはできない何かも。
だから目を離すことができず、手を伸ばさずにはいられなかったのだ。


牙−−と、安室は心中で呟いた。


名前が持つ何かの内の一つであり、組織−−どうやらジンはまた違うようだが−−が求める唯一にして絶対のもの。


(あのとき確かに、僅かにだが何か光った)


高台の縁ぎりぎりで名前が手を伸ばした先、暗闇が波打った−−ように見えた。
蜃気楼のようなそれを見間違いかと思った刹那、握り締められた彼女の拳の中で光が煌めいた−−ように、こちらも見えた。


(見間違いだろうか。そうでないとすれば、あれはいったい……)


「−−透」


名前を−−偽名であるが−−呼ばれて安室は、はっとした。
助手席に座る名前が不思議そうにこちらを見ている。
どうやら何度か呼ばれていたらしい、安室は苦笑すると「何でしょう」と問い掛けた。


「もうこの辺りで降ろしてもらえれば大丈夫だよ。ありがとう」


言った名前に、安室は閑静な住宅街の片隅で車を停めた。
静寂が降りる。
やがて名前は噛みしめるようにして再度、礼を言った。


「今日は本当に、ありがとう。言葉では到底、言い尽くせないほど感謝してる」


安室は、ただ微笑って首を振った。
名前も小さく笑うと、しかし彼女にしては珍しく何か言い難そうな顔をする。
首を傾げれば、目が合った名前が困ったように頬を掻いて、はにかんだので安室は目を開いた。


「その……君が忙しいことは重々承知しているんだ。色々と仕事があるだろうしね。だから、もしも少し時間があって、それで君が良ければの話なんだけど……」


名前の目がこちらに向いて、安室は僅かに息を呑んだ。


「また私と、会ってくれないかな」
「も−−勿論じゃ、ないですか」


やっとの思いでそう返せば、名前は「本当?」と顔を輝かせて笑った。


「良かった。本当にありがとう」


それじゃあ、と言い置いて車から降りた名前は手を振ると去っていった。
その背中を呆然と見送っていた安室は我に返ると、シートに背を預けて口許を手で覆った。


牙に関わるときを除いて、とにかく名前は綺麗に微笑う。
−−だが。


(……あんな風にも、笑うのか)











送ってくれた透の車を降りてから黒羽邸へと向かっていた私は、忙しない様子で家の前を歩き回っている快斗の姿を認めて声を上げた。


「快斗」
「−−名前さん!」


走り寄っていけば、駆けてきた快斗に腕を引かれる。
強く私を抱きしめながら快斗は拗ねたように呟いた。


「……名前さんの馬鹿」
「うん……ごめんね」
「いつまで経っても帰って来ないから発信機を見たら、場所が家の中を示していたときの俺の気持ち分かります?」
「ええと」
「靴はなかったけど、ただ寝てるだけかもしれない、っていう僅かな希望を抱きながら部屋に入ったらネックレスが机の上に置いてあるのを見たときの俺の気持ちは」
「それは」
「封筒の中に現金と手紙が入っていて、電話を掛けても繋がらなかったときの−−」
「快斗、ごめん。悪かった、悪かったよ」


あやすように背中を叩けば、快斗はやがてぽつりと言った。


「だいたい何すか、あの手紙……俺の幸せを心の底から願ってる、って」
「本心を綴ったのだけれど……」
「俺だって、名前さんの幸せを願ってます」


私は軽く目を開くと、うん、と呟いた。
快斗は離れると私の手を握り家に向かう。


「さあ、帰りますよ。名前さんには、たっぷり俺のお願いを聞いてもらって、たっぷり俺の機嫌を取ってもらうんで覚悟しておいてください」
「快斗−−少し待って」


邸の門を潜ろうとしたとき、私はそう言うと足を止めた。
振り返った快斗を真っすぐに見詰めて、口を開く。


「もう、軽い気持ちじゃこの門を潜れないんだ。勿論いままでが軽い気持ちだったというわけではないのだけれど」


黙って話を聞いてくれている快斗に、私は続けて、


「家に帰って来るときは周囲を警戒したし、君に危害が及ばないよう注意した。だけど頭の中にはずっと、すぐに出て行くから、という考えがあった。少しの間なら大丈夫だ、ってね」


私は手を握り締める。


「だけど私は、ここに留まることを決めた。それにだって厳密に言えば、とりあえずは、という言葉が付いてしまうかもしれないけれど、それでも私にとっては大きな変化なんだ。だからここから先に足を踏み入れるのには覚悟がいるし、快斗にとっても、それは必要になるかもしれない。それでもいいの?こんな聞き方をしては拒否しにくいかもしれないけれど、どうか率直な気持ちを聞かせて欲しい」


私は快斗を見詰めた。


「本当にまた私を、受け入れてくれるの?」


快斗は笑って私の手を引いた。


「当然じゃないですか」


あっけらかんと言ってのける快斗に私は目を丸くさせる。


「そんな簡単に」
「逆に俺は、名前さんが嫌だと言っても放してあげる気ないですよ」
「……私は嘘を吐くよ」
「分かってます。確かに名前さんは嘘が上手ですよね。嘘か本当か分からないときなんて、たくさんあるし」
「秘密にしていることも、たくさんある」
「それも知ってる。きっと俺が気づいてないだけで、教えてもらってないことも、たくさんあるんだろうな、って」


でも、と快斗は明るく笑った。


「いいんです。全部を教えてもらわなくても、全部に気づけなくても」


言って快斗は私の頬に手を当てた。


「肝心なところで真実だと気づければ−−貴女を守ることができれば、それで十分だ」
「快斗−−」
「まあ本当は名前さんのこと、隅から隅まで手取り足取り優しく教えてくれればな〜って思いますけどね」


悪戯気に笑った快斗に私も笑う。
だがすぐに困ったように眉を下げた。


「私といることで、君に危害が及んでしまう危険があるんだ。衣食住の負担とか、そんなものとは比べ物にならないくらいの迷惑も掛けてしまうかもしれないんだよ」
「良いんですよ、そんなこと。だいたいね、いいですか、名前さん?覚悟だ何だって、そんなもの俺は、貴女と出会ったあの日から、ずっとできていましたよ」
「あの日から?」
「ええ。−−言ったでしょう?俺は天使を頂戴したんです」


−−俺を助けてくれた貴女が天使に見えたから、ですよ。


言って快斗は、私の手の甲にキスをした。


「天を相手に、生半可な覚悟じゃ挑みませんよ」


片目を瞑って笑った快斗を、私はぽかんとして見ると、そうして軽く噴き出した。
声を上げて笑えば、快斗は拗ねたように唇を尖らせる。


「だから名前さん、ここは笑うところじゃありませんって!」
「−−ごめんごめん。でも馬鹿にしたわけじゃないよ。どうしてここの人たちは、こんなにも気障なのかなとは思ったけれど」
「本当ですか?」
「本当だよ」
「じゃあ何で笑ったのか言えます?」


完全に信用していない、と言った表情で快斗が問うてくる。
私は、そうだね、と少し考えた後、この気障な怪盗の目を見詰めて微笑んだ。


「強いて言うのならば……君があまりにも可愛くて、格好良くて−−愛しくて、堪らなくなった……といったところかな」
「い、愛……!?」
「ああ、大丈夫、安心して。君と青子ちゃんの仲を邪魔するような類のものではないから」
「だ、だから青子とは、そんなんじゃないですからね?」


快斗は言うと、ちらりと上目に私を見た。
首を傾げれば、快斗は首の後ろを掻きながら、僅かに赤く染まった顔を逸らして問うてくる。


「名前さん……いまの言葉、本当ですか?」
「うん。君と青子ちゃんの仲を邪魔するつもりは毛頭ない。むしろ応援しているよ」
「だからそれは−−っていうか、その言葉じゃなくて!」
「ふふ、分かっているさ。それより前の言葉でしょう?」


快斗は首肯した。


「だって名前さんって今までも、可愛い、とか、格好良い、とか客観的な言葉はさらりと言ってくれてましたけど……い、愛しいとか、そういう自分の思っていることだったり気持ちを伝えてくれることは、ほとんどなかったですから」
「そう−−そうだったかな。まあ、そう心掛けていたときがあったことは事実だけれど、もう癖になっているようなものだから最近じゃ意識したことなかったな」


そう言って、私はちらりと笑う。


「これからは真逆のことを意識しなきゃね。……とは言っても、これは半ば生き方だからなぁ。変えられるのかな」
「って、ことは」


顔を輝かせていく快斗に私は、うん、と頷いた。


「さっきの言葉は本当だよ。嘘じゃない。私は真実、君のことを可愛い、格好良いと思っているよ」
「−−あれっ!?名前さん、愛しいは!?愛しい!」
「まあまだ不馴れなものでね。そう何度もは言えないから勘弁して欲しい」
「ええーっ!……録音しとけば良かったなぁ」


ぶつぶつと何事かを言う快斗を見守っていれば、彼は顔を上げて首を傾げた。


「でも、いったいどうして言ってくれるようになったんですか?何か心境の変化でも?」
「うん……まあね」


私は快斗に握られた手に目を落とした。
闇を創り出し−−そうして消した手だ。
快斗の手を握り返して、私は笑った。


「逃げずに向き合うことに、したんだよ」


快斗は私をじっと見詰めると、そうですか、とただ笑った。
そうして私の手を引いた−−門を越える。
名前さん、と快斗が私を呼んだ。


「お帰りなさい」


私は、ただいま、と笑って足を踏み出した。




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