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下降するエレベーターの滑らかな音を聞いて、私は足元に横たわっている主催者の男を見下ろした。
眠っていて気付かぬ間に死ぬのと、死ぬ瞬間をはっきりと知覚しているのと、どちらが良いのだろう−−と彼を起こそうかどうしようか迷っていれば、男は僅かな呻き声を漏らしながら眉間に力を込めた。
それを見て取った私は、男の頬を軽く叩く。


「ほら、起きて。君に少し訊きたいことがあるんだ」
「うう……俺は」
「君が取っていた人質は皆、逃げてしまったよ。そして爆発までは残り数分といったところだね。そこで訊きたいのだけれど、死を実感するのとしないの、どちらが良い?後者をお望みであれば、上手く気絶させてあげるよ」


きょとんとした男は私をまじまじと見詰める。
この女の、いったいどこにそんな力量があるというのか−−そう思っているような顔だった。
なので私は「実践してあげようか?」と首を傾げて微笑んだ。
男は笑うと首を振った。


「いや、いい。僕は前者を望むよ」
「おや、本当に?自分で言うのも何だけれど、腕は確かだよ」
「君の腕前に関係なく、僕は最初から、このビルと運命を共にすることを望んでいたから。そのためには寝てなんかいられないだろう?」
「ああ、そういえば」


言った私は、ねえ、と屈むと男の顔を覗き込む。


「起きているのなら、もう一つだけ訊かせてくれないかな。私はさっき、爆発まで残り数分だと言ったのだけど、それは爆弾が爆発する正確な時間が分からないからなんだ。−−君、時計を二つ着けているよね」


男の目が私に向いた。
私はその目を見返しながら続けて言う。


「左手首の時計は私の時計とも爆弾のタイマーとも合っていて、右手首の時計はそれらより二分程、進んでいるようなのだけれど、爆発までは後何分が残っているのかな」


口を開こうとしない男の表情や仕草をつぶさに観察した私は、なるほどね、と微笑う。


「やっぱり爆弾のタイマーはフェイクか。まだ時間は残っていると少しでも油断させて、対処を間に合わせなくさせることが狙いだったのかどうかは知らないけれど、さすがに意地が悪いんじゃないかな。死なんて唐突なことが多いけれど、もしも事前に察することができるなら、それは正確な方が良い−−と、まあ今のは私の個人的な考えなのだけど」
「困ったな……僕は何も言っていないのだけどね」
「だって普通に考えてみれば二分だけ進んだ時計をわざわざ着けているなんて可笑しいよ。それに生憎、私は表情やら何やらを読むのは不得手ではないんだ。自ら嘘を吐くことも−−」


−−嘘だ。


「得意な方、だったはずなんだけどね」


苦笑を零せば、男は気掛かりな様子でエレベーターに目を向けた。
私は、ああ、と呟く。


「大丈夫−−というのも可笑しいのだけど、もう間に合わないよ」


私は腕時計に目をやりながら続けて、


「爆発まで残り二分と少しのところで一階に向けてエレベーターは下降を始めた。このエレベーターの速さが一体どのくらいのものかは知らないけれど、中高層ビルで多く採用されているものの速さは二百十メートル毎分、とすれば二分以上あれば一.五往復くらいできるだろうけど、いまはエレベーターを好きに操作することができない。開放時間が無駄に長く設定されているから、私たちが乗るのは無理だろうね」


だが、あの小さな探偵さんはそれでも−−間に合わないと分かっていても助けに戻って来るだろう。
……彼が爆発に巻き込まれないと良いのだけれど。


男は、そっか、と言うと脱力しながら声を上げた。


「結局、観客は一人だけか。我が儘に付き合わせてしまって悪いね、君」
「今更すぎる言葉だね」と、私は笑った。


立ち上がると窓の傍まで歩いていく。
見下ろせば、妨害電波が届く範囲を抜けた客たちが通報したのか、はたまた異変を感じた通行人が通報したのか、警察と消防が集っていた。
赤い回転灯からビル群の夜景へと視線を移す。
それに−−と私は呟いた。


「別に気にしなくていい。むしろ、こんなに綺麗な景色を見ながら最期を迎えられるとは思っていなかったから嬉しいよ。予想していたものよりも、ずっと良い」
「予想だって?さっきから思っていたが、まだ若いのに随分と何かを悟っているようだよね、君って」
「可笑しなことを言うね。私は何も悟ってなんかいないよ」
「けど、自分の最期について考える歳にはまだ早いだろう」
「傍にあるものについて考えを遣ってしまうのは仕方のないことでしょう」
「……ひょっとして君も、死にたいと思っていたのか?」


振り返ると、彼は笑って、まあ、と肩を竦める。


「僕は死にたいというより、このビルと永遠になりたい、ということなんだけどね」


私は、そう、とだけ呟くと前を向いた。
死にたい――その言葉を口の中で転がしてみる。


いつ死んでもいいような生き方をしていたことは、確かだと思う。
荷物は必要最小限に留めていたし、周りの人間との関係も一定の距離を保っていた。
私の死を、誰の悲しみにもしたくなかったし、私自身も死を受け入れられるようにしておきたかった。
大切な人を持ってしまえば、永遠の別離は辛くなる。
絶対的な恐怖である死に直面するだけでなく、大切な人たちと引き裂かれる苦しみと生への執着が溢れ出し、しかし決して叶わないという絶望までもを抱えることになってしまうのだ。
……私はそんなもの御免だ。
だから独りで生きてきた――生きようとしていた。


しかし私は自ら命を絶つことはしなかった。
激情に流され自らの首に刃を向けたことはあったけれど、それでも命を奪うことはしなかった――できなかった。
戦の中に身を置いても、闇と、それを狙う連中に付き纏われても、命を守り続けてきた。
殺意を持った刀を退け、鼓動を止めようと心臓を狙ってくる銃弾を避け、逆に敵を殺してきた。
闇から目を逸らし、連中から隠れ身を潜めた。


「私は」


私にとって死は身近なものだった。
生きているかぎり死はいつか訪れるものであるから当たり前のことかもしれない、だが周りの人たちと比べてみれば戦に闇に趣味の悪い連中に、と安全か危険かで言えば確実に後者の域にいた。
だからいつ訪れるとも分からない死について用意をしていた。
執着なく生を手放せるような、拘りなく死を受け入れられるような、そんな生き方を心掛けていた。
私には、たとえ短く散ったとしても大きな花を咲かせる花火のような生き方は選べなかった。
……だが。


「私は、死にたかった――のじゃない」


敵の刃を退けたように闇を退けられないかと模索したし、敵の銃弾を避けたように連中の追跡を避け、いずれは形勢を逆転できないかと、じっと機を窺ってきた。
闇にも、連中にも、負けたくなかった。
だがたとえ死を望まなくとも拒みもしないのならば、あっさりと命を断てば良かったのだ。
全てを呑み込む畏怖の塊と、それらを狙う連中と、理由はいくらでもあったのだから。
だが私はそれをしなかった――できなかった。


「私は……生きたかったんだ」


死を選ぶこともできなかったし、生に執着しないことも結局は無理だった。
そして独りで生きることも、本当はずっと……。
私に伸びる――私の周りの人たちへ伸びる闇と連中の手を振り払いたかった。
誰を巻き込む心配もなく、気兼ねなく人々と付き合っていけるような環境を、ずっと求めていた。


「決して存在しない理想郷……か」


苦笑を零す。
自ら命を絶った異界の彼は「俺たちのような存在に安寧の地はない」と言っていたが、それは真理だろう。
海を越えても山を越えても、世界を超えても、それを見つけることは叶わない。
世界がいくつもあることなんて関係ないんだ。
何故なら諸悪の根源とも言える存在は、自分自身なのだから。


きっと、どんな場所だって安寧の地になりうるのだ。
私がそこへ行ったとしても安らぎを得られない――闇が全てを呑み込んでしまうだけで。


私にとっての真の敵は、私をこの世界へと飛ばした連中でもなく、黒づくめの組織でもなく自分、だったのだ。
私の力を狙う連中からは、世界を超えてしまえば逃げられる。
彼らのような連中は力を持っていないが故に力を欲しているのだから。
だが自分からは、どこまで行っても逃げられない。
唯一逃げられる方法があるとすれば、それは――。


私は苦笑を零すと首を振り、そうして男を振り返った。


「少し気掛かりなのは、君のことだな」
「……僕が?」
「そう。とても正義感の強い子供たちがね、君に罪を償わせなきゃと言っていたんだ。私は自分のことしか考えていないし、だから死を望んでいる赤の他人を止めるなんてこと露も思っていなかったから、いまから君を助けることなど出来やしないのだけど、子供たちに顔向けできないなあと思って」


まあ、と私は軽く笑った。


「事実もう会えないのだから、勘弁してもらうしかないね」


ぽかんとしていた男は、そうだね、と微苦笑した。


「ところで僕と君の命が消えるまで、後何分だい?自分じゃ時計が見られなくてね」
「ええと、残り一分といったところかな」


言ったところでエレベーターのランプが到着を示した。
私は驚いて振り返る。
可笑しい。
いくら何でも戻ってくるのが早すぎる。
恐らく乗っているであろう人物を止めなければと踏み出した足は、しかし止まった。
開いたドアの向こうには誰の姿もなかったのだ。


(いったい何が起こっているんだ……?)


困惑していればエレベーターのドアは自動で閉まっていこうとする。
その開放時間は先程までと比べると格段に短くなっていたが、これが本来の間隔なのだろうと思う。


――操作が効くようにしたのか。


思ったとき、背後から猛然と風を切る音が聞こえた。
はっとして振り返りかけた視界をサッカーボールが飛んでいく。
それは犯人の男に直撃すると彼をエレベーターの中まで押し飛ばした。
彼を呑み込みドアは閉まり、そうしてエレベーターは下降を始める。


唖然としていた私の手を誰かが掴んだ。
私の手を引き、窓へと走っていく背中は小さく、しかしとても頼もしい。
名探偵が、そこにはいた。


「逃げちゃ駄目だよ」


するとコナン君はそう言った。
顔を上げれば、彼は同じ言葉を口にする。


「逃げちゃ駄目だよ、名前さん。逃げることは一瞬で終わるし、楽かもしれない。だけどその先には、何もないんだ」


私は目を見開いた。
顔を歪めると、震える唇を噛みしめる。
何もない――と呟けば、彼は窓の傍までやって来た。
そうして窓を開けたり傍の柱に何やらサスペンダーを巻いたりと忙しなく動いている少年を、私は痛ましい思いで見やる。
その頬には煤が付き、服からは僅かな焦げたような匂いがする。


「もしかして操作が効くようになったエレベーターを途中で降り、燃えている階段を上ってきたの?」
「うん。他の皆には二十階で降りるように言っておいたから大丈夫だよ。きっとそこまでは爆発の影響は届かないし、恐らくだけど、その辺りの階の消火器までは撤去されていないだろうから、いざとなれば階段の火を消しながら一階まで下りられる。そしてエレベーターを降りるときに五十階のボタンを押してから出るよう頼んでおいたんだ」
「そうすればエレベーターは五十階まで上昇する。その後は階数表示から到着を確認し、呼び出しボタンを押せばエレベーターは再び下降する。それで確かに間に合った――犯人の男はね。だけど君は?どうして五十階に残った?」


私は腕時計を見、室内を見回すとコナン君に視線を戻した。


「どうしてこんな、無茶な真似を」
「だってエレベーターに乗ろうとしても、名前さんは付いて来てくれなかったでしょ?名前さんは強いから、無理に乗せようとしても時間が足りなくなっていただろうし、また僕だけが、ぎりぎりのところでエレベーターに放り投げられる可能性もあったしね」
「それは――だけどね」


言葉に詰まった私は手を握り締めると彼を見詰めた。


「君を巻き込みたくない。それは本当なんだ。嘘じゃない」


言えばコナン君は優しい眼差しを私に向けた。


「うん……分かってるよ」
「だったら、どうして」
「安心してよ、名前さん」


目を開けば、彼は得意気に笑った。


「俺は巻き込まれるつもりも、名前さんを死なせるつもりもないから」


彼は言うと、柱に巻きつけたサスペンダーを握って見せる。


「この伸縮サスペンダー、阿笠博士の発明品なんだけど、伸縮って言うだけあってよく伸びるんだ」
「伸びると言っても――」と私はサスペンダーと開いた窓を見比べる。
「ビル一階分の高さは約三メートルだから五十階のここは地上百五十メートルってところだね。このサスペンダーは約百メートル伸びるから、残り十五階分の高さをどうするか、っていう話になるんだけど」


百メートルまで伸びるのか――と目を丸くしながら、窓まで歩いていく彼の後ろを付いて行く。
外を見下ろして、やっと彼の意図が分かった。
このビルの構造は二段重ねのようなもので、十階までは、それより上階と比べて幅が広くなっているのだ。
あそこまで降りてしまえば後はどうにでもなるだろう。


「危険はあるけど、できるよね?名前さんなら」
「……そうだね、できると思うよ」
「なら僕のことも抱えて、一緒に行って欲しいんだ」
「……君にも、できるでしょう?」
「さすがに僕じゃ名前さんを抱えられないよ」
「そうじゃなくて……降りること、だけならば」
「たとえ僕一人で降りたとしたって、数階分を飛ばなきゃいけないのは変わらないよ。でも僕、そんなことできないなぁ」


私は口を開き掛けて、そうして唇を噛みしめた。
自分よりもいくつも年下の子供の前で、激情に流されそうになっているのが分かった。


コナン君が一歩を私に向けて踏み出す。
私は無意識の内に退き、引いてしまった自らの足に気づくと堪らず口を開いた。


「どうして逃げてはいけないの?」


彼は子供だ、ただの小学一年生の男の子だ。
だというのに、どうして彼の前だと嘘が意味を成さないんだ。
何故、虚構を探られ、本心を暴かれてしまう。


「逃げなければ、闇があるのに」


声を上げれば、コナン君は「違う」と呟いた。
小さな名探偵は、真っすぐに私を見上げて言った。


「逃げなければ、いつか必ず、光があるんだ」


私は目を見開いた。


「光が――」


呟いたとき、足許が揺れた。
体勢を崩しながら、はっとしてコナン君と顔を見合わせる。


「下の階で爆発が起きている!」
「でも、どうして。まだ時間は――」
「恐らく階段の火が燃え移ったんだ!ここも、もう危ないよ!僕たちも早く――」


そう言って伸ばされたコナン君の手が、しかし後方からの爆風に攫われて遠ざかる。
小さな体はそのまま窓の外に吹き飛ばされた。


「コナン君!!」


宙を泳ぐサスペンダーの端を掴まえて、私は窓から飛び降りた。
窓を蹴って、コナン君の腕に何とか手を掛けると引き寄せて抱きしめる。
地上が近づくにつれ、驚いた顔をして私たちを見上げている人々の顔が見て取れる。


サスペンダーが伸びきったところで私はそれを離すと、再び窓を蹴って、十階部分の屋根に飛び降りた。
コナン君をしっかりと抱き寄せたまま屋根を転がる。


「コナン君!!コナン君、大丈夫――」


勢いが止まるとすぐに私は体を起こし彼に呼び掛け――そして、ぞっとした。
抱えたコナン君の頭が濡れている。
手を見れば、それは血に染まっていた。





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