「あの男は随分と君を気に入っているようだ」
透の車の助手席に乗り、組織の施設からいくらかを走ったところで付けていた目隠しを外した私は苦く笑った。
「あれを果たして気に入られていると呼んでいいものかな」
「執着されていることは確かでしょう」
「……まあ、組織にとって私は中々に貴重な存在のようだからね」
「いえ――どうやら彼は、組織の一員としてではなく、一人の男として君を独占したいと思っているらしい」
「一人の男として?」
「ええ。少なくとも僕には、そう見えましたよ」
「……それが当たっているかどうかはさて置き、確かにジンは、跳ねっ返りの強い女性を、それでも手込めにするのが好きそうだ」
随分な物言いに透は軽く笑う。
私も笑うと、窓の外に目を向けた。
夜空に浮かぶ三日月が下界を無情に見下ろしている。
「だとしたら――そうだね、ジンが私を手中に収めたいと思っていることも、もしかしたら当たっているのかもしれないな」
「ですが名前は、確かに一本通った芯があるとは思いますが、気が強い、お転婆といった言葉は当て嵌まりませんよね?」
「私自身はそうなんだけどね」
言って私は自嘲する笑みを口元に浮かべた。
「私が持つ知識は、手の付けられない怪異に繋がっているんだ。そしてジンは、それと私とを全て引っ括めて化け物と呼んでいる」
組織の施設で例の闇が現れたとき、私たちに向けて拳銃を構えたジンを、私は制した。
理解者を排除せずとも闇だけを消せる−−私たちと闇とを同視して欲しくなかったのだ。
結果、私はその望み通り闇だけを消すことに成功した。
けれど、だからと言って私と闇との関わりまでもが消えたわけじゃなかったんだ。
海を越えても、山を越えても、−−世界を超えても逃れられない。
……分かっていたはずだったのに。
ジンは−−と私は呆れたように笑った。
「どうやらお転婆な少女だけでは飽き足らず、化け物でさえも畏怖しないどころか欲するらしい。だから彼が私を手中に収めようとしていることも、確かに有り得ることかもしれないんだ。さすがだね、探偵さん」
透は小さく笑って礼を言うと、眉を顰めて問うてきた。
「化け物……そういえばジンは前に、一番鋭い牙を持っているのは貴方だと言っていましたよね。その牙というのが、名前の知識から繋がる怪異、なんですか?」
「うん。ざっと言えばそんなところだね」
「……その怪異の詳細については――」
「ごめんね。秘密」
「ですよね」
言って苦笑を零した透に、私も薄く笑みを浮かべるも、しかし感じる胸騒ぎのような不快感を取り除きたくて咳払いをした。
透が寒いかと心配してくれたが、私は笑んで首を振る。
寒々しいのは体ではない。
熱い湯を全身に浴びても、暖房の入れられた車内にいても、冷たく凝った塊が胸の内にあるような、そんな気分がずっとしていた。
前に――と不意に透が口を開いた。
顔を上げれば、透は前方に目を向けたまま言う。
「君が組織と関わりがあると知ったとき、コナン君が言っていたんです」
「コナン君が……?」
「ええ。あなたと組織の繋がりを断ちたいと」
ああ――と私は苦笑する。
「それは本人からも、何度も直接言われているよ」
透は、そうですか、と言うと視線を私に移した。
「ところでコナン君のその意見には、僕も大いに賛成なんですがね」
「……へえ?」
「奴ら組織と関わることで、君が自分の価値を、その知識だけだと誤解しかねませんから」
口を噤めば、透は肩を竦めて言う。
「前にジンが言っていたとおり、確かに名前の情報は、どこをどう調べても出てこない。だから君が持っている知識や繋がる怪異が何なのかはまだ分かりません。分かっているのは、それが組織にとって大変貴重で有益なものであるということだけ。けれどそれが名前の価値の全てなわけではないでしょう」
言葉をなくす私に、透は続けて、
「そもそもジンが名前に執着する理由が、その化け物云々かどうかも怪しいところです」
「知識以外の私の何かに執着している、って……?」
「ええ、その通りですよ」
「そんなもの、私には−−」
「少なくとも僕は、そうですから」
きょとんと目を開けば、透は悪戯気に笑った。
「僕は名前の秘密をまだ知らない。それでも君に惹かれているし、捉えたいとも思っている。そしてそれは、きっとコナン君も同じですよ」
私は透から目を逸らすと、それは、と言う。
「知らないからこそだよ。君たちは探偵で、だから中々正体を明かさない私のことが気になるんだ」
「一理ある、とは思います。ですがそれは名前を覆い隠す謎に魅力があるのではなくて、暴きたいと思わせるほどの魅力が名前自身にあるからだ」
「……君たちは私を美化しすぎだ」
いや−−と私は苦笑を零す。
それともこれが探偵の遣り口なのかな。
煽てて、気分良くさせて、口を滑らせるのを狙っているのかもしれない。
そうだとしたら彼らはひどく優秀な探偵だと改めて思うし−−効果は覿面だ。
喋ってしまいそうになる。
あまりにも……嬉しくて。
私はちらりと後部座席を振り返った。
透が不思議そうに訊いてくる。
「どうしたんですか?」
「いや……前に透が、今回と同じように迎えに来てくれたとき、後ろにコナン君がいたでしょう?だからまた隠れているんじゃないかと思って」
そう笑って、私は内心で安堵した。
透だけでも危ういというのに、あの少年にまで真摯に言葉を伝えられれば、いまは平静を保っていられる自信がない。
透は、ああ、と納得したように声を上げる。
「後ろにはいませんが、これから向かうところにはいますよ」
「……何て?」
「すみません、言ってませんでしたね。そもそも僕があの施設へ行ったのは、仕事があったからじゃないんです」
「そうだったの?」
「ええ。コナン君から連絡があったんですよ。組織の車に乗ってどこかへ向かう貴方の姿を見かけたから、できたら迎えに行って欲しい、奴らがわざわざ出向くなんて、きっと何かあったに違いないから−−と。それで先日のキャンプ場での一件もあったことから例の施設に向かい、無事君を見つけたんです」
私はシートに背を預けると、なるほど、と溜め息混じりに呟いた。
そういえばあの時間帯、コナン君と同じような年の頃の子供たちの姿をよく見かけたっけ。
「それで?これから向かうところにコナン君がいるようだけれど、もしかして待ち合わせでもしていたのかな」
「慌ただしく連れて行かれた君を見た後、彼が大人しく日常を送るとでも?」
悪戯気に問われて、私は軽く笑った。
やがて、ごめん、と静かに言う。
「この後は少し−−用事があって」
「……コナン君とは会えない、と?」
「うん。透も、どこか適当なところで降ろしてくれれば十分だよ。本当にありがとう」
透は少し口を閉ざすと、すぐに明るく、では、と言う。
「どこか駅まで送りますよ」
それまでの間−−と透は声を低めた。
「いったい施設で何があったか、僕に教えてくれませんか」
その言葉に、事件の記憶が一瞬で脳裏を駆け巡った。
無意識の内に手を握りしめていたことを、掌に食い込んだ爪の痛みで気づく。
潜入捜査官である君に利ある情報は何もない、そう言おうとして、しかしジンの言葉が脳裏に響いた。
−−それはお前が決めることじゃない。
開き掛けた口を閉じる。
車内に沈黙が落ちて、早く何か話さなければと思ったが、いま声を発すれば震えたものになってしまうことが容易に予想できたので、私は歯を食いしばると波立つ感情を必死で抑えた。
ややあって、私は淡々とした声音で話し始めた。
「キャンプ場での事件のとき、私と一緒に組織に連れられていった男を覚えているかな」
「ああ、あの火事の――確かあの後、名前の携帯に彼の身分証明書のような写真が送られてきていましたよね」
「そう、その人」
「……彼に、何か?」
「――亡くなったんだ」
透が驚いたようにこちらを見る。
「亡くなったって、まさか組織に?」
「いや……自殺だったんだ」
「自殺――」
呟くように言うと沈黙した透は、そのまま何かを思案する。
私は自身の二の腕に手を触れた。
彼に掴まれ、感情を吐露するかのように溢れていた火に焼かれたそこには、未だ疼くような痛みが纏わりついている。
透が静かに問うてきた。
「名前の替えの服が必要になったのはもしかして、小火騒ぎに巻き込まれたからではなく――」
「うん……彼が命を絶ったとき、私はすぐ傍にいたんだ。だからジンが、替えの服を用意すると言ってくれて。そのままの格好で外に出れば大騒ぎになってしまうところだったから」
薄く笑えば、膝の上に置いた手に、ややあって透の手が重なった。
目を瞠れば、大きく温かなそれは安心させるように私の手を包み込む。
「……辛かったですね」
優しい言葉に、救われたような気分になる。
抑え込んでいた激情が溢れ出てしまいそうになって、私は咄嗟に透の手を掴み返すと、それをハンドルへと持っていった。
私を見詰めている透に、困ったように微笑う。
「片手運転も脇見運転も危険だよ」
「……聞かせては、くれませんか」
え、と目を開けば透は真摯な眼差しを私に向ける。
「君の気持ちを、思いを」
「――そんなもの」
「そんなもの、なんかじゃない」
「君には何の得も――」
「何度言っても、分かってくれないようですね」
怒ったような声音の透は続けて、いや、と言う。
「分かっていないんじゃない。分かっていながら、目を逸らしているんだ」
「透――」
「僕が名前のことを知りたいと思う理由は、君を助けたいと思っているからだ」
「けれど透は組織に潜入している人間だ。そして私は組織にとって無益ではない存在で、言えないことは確かにたくさんあるけれど、僅かでも君たちのような人たちの力になれると思ってる」
「それは確かだ。仕事上、奴らに関する情報が少しでも欲しいことも事実。だけど君のことを助けたいと思っていることも、また真実なんだ」
私は、やめてくれ、と叫び出したい気分だった。
唇を噛みしめてじっと黙する私に、透は静かに言葉を紡ぐ。
「君は不思議な女性だ。これ以上ないくらいに上手な微笑みを浮かべ穏やかな人間に見せながら、しかし内実は裏社会にも欲されるような秘密を抱えている。大抵の男性には負けないほどの強さで犯人たちを倒したと思えば、どんな女性よりも儚げに悲しく微笑う。君が組織と関わりがあると知ったとき、確かに驚いたけれど、同時にその事実は何の支障もなく胸の中に落ちてきた。まあ場に馴染み、それでもどこか孤高さを感じさせる君の様子は、何も組織に限ったことじゃない。君は誰より上手に色に馴染みつつ、そうして色に混ざらないんだ」
「……どこにいても何も変わらないなら、問題ないでしょう」
「いや……平静を保っているように見せかけているだけで、実は組織や名前自身が持つ秘密とやらと関わっているときの君の様子は明らかに違う――違う、と分かった。名前がそれらのときに浮かべる微笑みは虚勢であり防御であり、威嚇でもある砂上の楼閣ですよ」
何も言えない私に透は、しかし、と優しく呟いた。
「組織や怪異やらと接していないとき――子供たちや蘭さんたちと笑い合っているときの名前の笑顔は本物だ。穏やかに彼らを見詰め、心から笑んでいる」
「……透」
「君は優しい女性だ。周りの人間の力になり、危険から遠ざけようと守ってくれている。たとえ裏社会と繋がりがあり、上手く関わることができたとしても、君の居場所はそこじゃない」
「透、もう――」
「君を苦悩させる何かを取り除き、本当の笑顔を見たいと思うのは当然の――」
「もうやめて……!!」
声を上げたと同時に、車は赤信号に捕まり停止した。
私は窓の外の景色を見回しながら言う。
「用事があるんだ。もうこの辺りで十分だから、どこか近くで降ろして欲しい」
「――どうして」
透がぽつりと呟いた。
え、と目を開けて振り返れば、間近に迫った透の姿があって息を呑む。
「どうして用事があるなんて嘘を吐く?辛いから今は話せないのだと弱音を吐かない−−認めないんだ」
真剣な表情をした彼から視線を逸らそうとすれば、透はすかさず言った。
「目を逸らしたって、痛みは消えない」
その言葉に、私は息を詰めると睨むように透を見上げた。
いくら拒んでも心を暴かれ、抑え込んだ自分の感情に否応なく向き合わされることは胸を抉られるように痛い。
だというのにその原因である透が、私よりも辛そうな表情をしている。
「どうして縋ってくれないんだ?」
目を見開いた私に、透は続けて、
「どうして泣かない?弱音を吐かない。そんなにも辛そうで、いまにも壊れてしまいそうなのに」
大丈夫――と震える唇で何とか言葉を紡げば、透は声を荒らげた。
「大丈夫なんかじゃないだろう!!」
その剣幕に息を呑む。
信号が青に変わったのだろうか、後続の車からクラクションが鳴らされる音がした。
だが透はそれを気にも留めずに続けて、
「名前、君は嘘が得意で、その特技で周りと、そして自分をも欺いてきたのかもしれない。本当は辛くて堪らないのに、大丈夫だ、辛くないと、自己暗示のように嘘を吐いてね。だけど自分でも分かっているんだろう?」
「何――」
「いまの君は、まるで嘘を吐けていない。それほどまでに心が疲弊している」
限界なんだ――と透が言った。
否定しようと彼を見上げた私は、しかしその真剣な表情に、堪らずくしゃりと顔を歪めた。
助けてと叫びそうになる口を閉ざすと噛みしめ、縋りたいと伸ばし掛けた手を寸でのところで抑えると、その手でシートベルトを外す。
ドアを開け、驚くと掴まえようとしてくる透の手をすり抜け外に出た。
微笑って、ごめん、と言ってみたが、果たしてそれが笑顔になっていたかどうか。
「用事があるんだ」
「名前!」
「もう行かなきゃ。ここまで、どうもありがとう」
「名前――くそっ、待て!!」
透の上げる声を背中に聞きながら、私はドアを閉めると歩道へ上がる。
好奇の目を向けてくる通行人たちの間をすり抜け、路地裏へと走って行った。
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