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BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -
いったいどのくらいの間、そうしていたか分からない。
ただ呆然としていた私の、血に濡れた腕を引き立ち上がらせたのはジンだった。
私は踏鞴を踏み、ややあって茫洋な眼差しをジンへと向ける。
目が合うと、彼は極僅かに息を呑み、着ていた黒のロングコートを脱ぐとそれで私を覆い包んだ。
何を――と思う間もなく体が宙に浮き、抱きかかえられたらしいことが分かった。
暗い視界の中で、血の匂いと、そして煙草の香りがする。


ジンが足を進めるにつれ、喧騒が聞こえてきた。
忙しく走り回る足音がして、人々は上擦った声で何事かを言っていたが、ジンのコートに包まれているからなのか、感覚が麻痺しているからなのか、およそ言葉としては耳に入ってこなかった。


やがてその喧騒からも遠ざかり、再び場にはジンの足音だけが響くようになった。
パネルを扱っているのだろうか、パスコードを入力するときと同じ電子音がして、ドアが開く音がする。
それから少し進んだところで、ジンは私を降ろした。
コートを掴むと、血の付いたそれを目もくれずに床に投げ捨てる。
見上げれば、ジンは開口一番、


「脱げ」


と言って、目で私の背後を示す。
その視線を追って振り返れば、そこにはシャワールームがあった。


「血を落とせ。服は用意させるから、それは捨てろ」
「ああ――うん」


頷いたものの反応の鈍い私に、ジンは痺れを切らしたように舌を打つと私の襟元に手を掛けた。
脱がそうとしてくる手をぼんやりと視界に映し、そうして我に返った私は、やんわりとその手を押し戻す。


「ごめん、分かった――自分で脱げるから、大丈夫」


言うも不審そうな目を向けてくるジンに苦笑を零せば、彼はようやっと手を離し、脱衣室を出て行った。
私は笑みを消し、服を脱ぐと、床に投げ捨てられたままのジンのコートの上に畳んで置いた。
シャワールームに入り、蛇口を捻ると頭から水に打たれる。
俯いていれば、タイルを流れる水の色が、やがて赤から透明へと変わった。


顔を上げれば、全身鏡に映った自分と目が合った。
我ながら酷い顔だ――と自嘲したが、頬は引きつったように歪んだだけだった。
私は堪らず、顔を盛大に顰めると、強く鏡を殴りつけた。


「――畜生……」


震えた声は、タイルを打ち付ける水の音に掻き消された。


――止められなかった。
火を抑えてもらったのに、闇を消したのに、肝心の彼を止めることができなかった。
私は、消火器で彼の火を抑えようとしていた人たちを、それでは結局意味がないからと制した。
だけど、彼らと私の何が違う。
何も違わない。
私は何も、できなかった。
助けられなかった――助けたかったのに。


――似た境遇同士、仲間意識でも芽生えたか。


私はあのときジンに訊かれて、返す言葉に戸惑った。
自分でも、どうしてそこまで彼のことを気に掛けるのか分からなかった。
仲間意識かと問われて、胸の内に起こった感情は罪悪感に似た何かだった。
気まずさを覚え、自分はそんなお優しい人間なんかじゃない、と思った。
しかし、じゃあ何故なのかと問われれば、明確な答えを出せなかった。
見つけられていなかったんじゃない、目を逸らしていたんだ。
いまならはっきりと分かる――仲間意識なんかじゃないと確かに言える。


私は彼に、自分を重ねて見ていたんだ。


程度の差こそあれ理解者であり、似たような連中に狙われ、そうして別の世界へと飛ばされてきた彼は、私がいままで生きてきた中で出会った人間の誰よりも、自分と似通った境遇の存在だった。
彼と自分が違う人間であることは当たり前のことで、分かっているつもりだった。
元の世界になんて戻りたくないと告げられたとき、自分の望みと彼の望みは同じであろうと勝手に思い込んでいた自分を恥じて、彼の姿に自分を重ねまいと意識した。


だけど、無理だった。


元の世界に戻りたくない、戻ったところで連中にまた狙われるだけだと彼が言えば、即ちそれが自分にも当て嵌まっているようで嫌だった。
世界に拒絶されたと悲しく笑い、生きることを拒み、生きていけないと嘆いた彼の言葉は、自分の叫びにも聞こえた。


だから彼を止めたかった。
仲間意識なんかじゃない。
私は彼を救うことで、自分を救いたかったのだ。


しかし彼は死んでしまった。
自らその命を絶って。


彼と私は違う人間だ――いや、彼だけに限ったことじゃない。
自分と同じ人間なんて、どこの世界にもいやしない。
それでも私の頭の中では、自らの命に手を掛ける彼の姿が、未来の自分と重なっている。













「ジン、このシャツはもしかして君のかな?」


脱衣室に無造作に置かれてあった黒色のワイシャツを着てドアを開ければ繋がっていたのは、どこの部屋かは分からない個室で、中央に据えられたソファに座っていたジンは短く「ああ」とだけ答えた。
私は、やっぱり、と微笑って余る袖を口許に近づける。


「さっきと同じ、煙草の匂いがする。……コート、駄目にしちゃってごめんね」
「構わねえさ。第一お前が気にすることじゃない」


私はその言葉には何も返さず、困ったように微笑うと自分の格好を見下ろして問うた。


「念のため聞きたいのだけれど、もしかして着替えって、これじゃないよね?」
「お前がそれでいいと言うのなら、着替えを持って来させるのを止めても構わねえぜ」


私は、まさか、と苦笑した。


「さすがにこれじゃあ外に出れない」


言って私は室内を見回した。
出入口のドア付近にある小棚の上に置かれた自分の鞄を見つけて、そちらへ向かおうとしたとき、しかし腕を掴んで引き寄せられた。
ジンの膝の上に座るような格好になる。
見上げれば、射抜くようなジンの視線が向けられていた。


「奴は最期に、何を言った」


私はジンから目を逸らした。


「君たち組織の利益になるようなことは言っていないよ」
「それはお前が決めることじゃない」


言ってジンは私の顎を掴むと強引に視線を交わさせる。
私は唇を噛みしめた――いまは嘘を吐けそうにない。


「言え」


ジンの目が私を射抜く。
私はその深い緑から目を逸らせないままに、やがて観念すると口を開いた。


「俺たちのような、存在に」


せめてもの虚勢に、私は苦く笑って見せた。


「安寧の地なんてものはない――彼はそう、言っていた」


もう満足だろうと彼の上から退こうとすれば、しかし両手を一纏めにされ、ソファの上に押し倒される。
私は困ったように笑ってジンを見上げる。


「また、勝手に飛んで行きそうな顔でもしていた?」


たとえそうだとしても君には関係ないけれど――と思っていれば、ジンが言った。


「創ってやろうか」
「――何?」
「欲しいんだろ。その安寧の地とやらが」
「……別に、いらないよ」


ジンは鼻で笑う。


「いまは嘘が下手だな」


私は眉根を寄せると、負けじと笑って彼を見上げる。


「君に創れるとは思えないけれどね。安寧の意味、分かってる?」
「ふん、確かに穏やかで安らげる場所なんて、俺には興味ねえからな」


だが――とジンは言った。


「お前を閉じ込めるくらい、わけねえさ。誰の目にも、何にも触れさせねえ環境を作り出すことなんざ、容易くできるぜ」
「……ありがたい申し出だけれど、君たちの首輪をつけるつもりはないと、前に言ったよね?」


ジンは目を細めると、なら、と低く呟く。


「翼を千切るか」
「翼、ねえ」


私は自嘲するように笑って言った。


「私が持っているものは、そんな綺麗なものじゃないけれど、何にしても私とあれとを切り離すことなんてできないさ」
「だろうな。だが手足を折るなら簡単なことだ」


その言葉に、未だ頭上で一纏めにされている両腕へと視線が行く。


「……そろそろ離してくれないかな」
「たとえ手足を折ったところで大人しくなるような女じゃねえだろうが、それでも庇護下でなけりゃあ生きていけねえお前の姿は、中々にそそる光景だろうよ」
「馬鹿げたことを言っていないで――」


言い掛けて、腕に加えられていく容赦のない力に私は、はっとするとジンを見上げた。
笑うジンの目に強い光を認めて、僅かに息を詰まらせる。


――本気だ。


「……ジン、離して」


低く言って身を捩ってみるが、力は込められていくばかりだ。
骨が軋んで、私は顔を苦痛に歪める。
大抵の人間に負けるつもりはないが、覆いかぶさってきているこの男がその「大抵」に含まれるかどうかは危ういところだし、体の扱い方は得意な方だが単純な力ではやはり男に負けてしまう。
相手に有利な体勢に持ち込まれてしまえば、それはいっそう顕著になる。

いよいよ本当に危険を感じてきたところで、足技でも繰り出そうと膝を引いた−−そのとき、唐突に部屋のドアが開かれた。
揃ってそちらに顔を向ければ、服を手にした透−−バーボンが目を丸くして私たちを見ている。
バーボンは眉根を寄せると首を傾げて笑った。


「おや?いったい何してるんですか、こんなところで」
「それはこっちの台詞だ、バーボン。何故お前がここにいる」


僕は−−とバーボンは部屋に入ってくると、抱えた服を徐に見せた。


「仕事で来れば、何やら施設の奥の方でぼや騒ぎがあったというじゃないですか。詳しいことについては皆知らないようでしたし、明らかに何かを知っている様子の少数の人たちは、しかし何も答えてくれない。ただあなたが女性物の服を必要としているらしいという話は、運良く聞くことができましたので、こうして僕がそのお役目を担わせていただいた、ということですよ」


私はジンの下から抜け出すと、バーボンの元へ行き服を受け取った。


「ありがとう。助かったよ」
「いえ……大丈夫ですか?」


探るような視線を避けて、うん、とだけ答えるとそのまま目をジンへと向ける。


「ジンも、色々とありがとう。もう行くよ」
「それなら僕がお送りしますよ」


言ったバーボンに礼を述べれば、ジンがソファに寄りかかって鼻で笑った。


「優男の方がお好みか」


生憎と−−と私も微笑う。


「痛くされて喜ぶような趣味はなくてね。残念だけど私たち、気が合わないみたいだ」


言えばジンは興が削がれたようにどこぞを向いて煙草の煙を吹かせながら、関係ねえよ、と呟いた。
眉を顰めれば、ジンは笑って私に目を据えた。


「お前がどう思うかなんざ関係ねえ。重要なのはお前の気持ちじゃなく、お前という存在が手の内にあるかどうかだ」






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