日雇いの仕事を終えた夕刻、鞄の中で携帯が震えた。
黒づくめの組織用のそれを取り出し見ると、メールが届いていた。
開けば相変わらず本文は無く、写真だけが添付されている。
以前と比べ最近は、目当ての物がある住所を教え私に赴かせるのではなく、こうして目当ての物そのものの写真を送ってくることが、たまにではあるが増えた。
それが信頼を得られてきたことの証であるのかは分からないし、もしそうだとしても嬉しくないが。
ただ悩むのは、黒づくめの組織が所持する物を解読して得た情報を、彼らに正しく伝えるべきなのか、ということだ。
彼ら組織は昔から、私のような存在の者たちを知っており、そうして関わってきたと言っていた。
その関係が良いものであったのか悪いものであったのかは知らないが、組織はきっとその前任者たちにも、こうして解読をさせていたはず。
だとすれば組織自らが所持する物が含む情報がいったい何であるか、もしかして彼らは知っているのではないだろうか。
私の忠誠心を量るために、既に解読がなされている物をあえて与え、試しているという可能性は十分にある。
私はどうやら歴代の中でも情緒や諸々が安定しているようなので、いままでの異世界者たちには頼めなかったという可能性も、もちろんあるが。
(どうしようかな……)
息を吐きながら道の脇に避け、足を止めると写真を見詰め解読を始めた私は、脳裏に浮かんだ一文に眉を顰めた。
――水に流れろ。
……どういうことだろうか。
水に流れろ、とはつまり留まるな、止まるな、ということなのかな。
楽観的に考えるならばこの一文は、足を止めるな、という叱咤激励なのかも。
――お前は戻りたいのか?元の世界へ。
……それとも、一つの世界に留まるな、という意味なのかな。
結論を出すのは早計すぎる――と私は息を吐くと天を仰いだ。
思わず、しかし、と小さく苦笑する。
これらのものを遺していった人たちが、いったい何を思って記したのかは知らないが、もう少し分かりやすくできなかったものだろうか。
直球で、世界の仕組みについて、なんてものを遺してくれていたのなら楽だったのに。
まあ、予防の意味もあるのかもしれないが。
たとえば黒づくめの組織に情報をそのまま伝えたとしたって、意味が分からないものは彼らにとってはたくさんある。
同じような存在の者たちだけが解読できる言語を用い、察することのできる隠喩を用いることで、二重に情報を隠したのかもしれない。
……とは言っても、黒づくめの組織だけでなく私も、まだ意味が全く分かってないのだけれど。
思ったところで手の中の携帯が震え始めた。
瞬いて視線を落とせば、電話が掛かってきている。
そんなに早くこの写真の情報を知りたかったのだろうか――と驚きながら通話ボタンを押し耳に宛てた。
「もしも――」
「どこにいる」
どこか焦りを含んだジンの声音に眉を顰める。
顔を上げ、傍の建物の壁面に設置されている街区表示板に記された住所を告げた。
「そこから動くな」
短く言って、電話は切られた。
その横暴な態度はいつものことだが、僅かに焦っていた様子だったのが気に掛かる。
私は携帯を暫し見つめると鞄に仕舞い、近くの壁に寄り掛かった。
傍の道を、子供たちが楽しそうな笑い声を上げながら駆けて行く。
その小さな後ろ姿を眺め、空を仰いだ。
ビル群の彼方に陽が滑り落ちようとしていた。
「彼が、暴走している――?」
信じられない報せを聞いたのは、迎えに来たジンの車に乗り例の如く目隠しをさせられ、それからいくらかを走ったところでのことだった。
もう目隠しを取っていいと許しを得て、外すと窓の外に目を向ければ、そこはもうどこだか分からない森の中で、視線をジンへと移せば彼は言ったのだ――奴が暴走している、と。
「不安定だとは聞いていたけれど、いったい何が?」
「点滴を打とうとしていたんです」
運転席のウォッカが言った言葉に眉を上げる。
「点滴?どうして」
「奴はこちらに来て目を覚ましてから、ろくに物を口にしなくてな。このままいけば衰弱死する恐れがあった」
「だから栄養を与えようってんで点滴を打とうとしたんですが、そうしたら今までにないくらいに奴の体から炎が燃え上がりましてね」
「だから私に、彼を止めて欲しいんだね」
ウォッカは頷くと、しかし、と呆れたように眉を下げた。
「いったい何がそんなに嫌だったんでしょうかね。点滴の存在を知らず、針を刺されるのが怖かったのか、それとも何をされるかは分かっていたけど、こちらの物を何か体内に取り入れるのが嫌だったのか」
その言葉に、私は顎に手を当てると考え込んだ。
彼は元の世界でとある連中の実験台にされていた、と言っていた。
その実験というのがどのような方法で行われていたのかは分からないが、他人に体を触られることがトラウマにでもなっているのだろうか。
それともウォッカの言うように、この世界の物を受け入れたくなかったのか。
だが栄養を摂らなければ死んでしまう――少なくともこの世界の人たちや私、そして彼はそうだ。
いくらこの世界を拒絶したくとも、境界線を越える方法はまだ見つかっていないのだから、嫌でもこの世界に頼って生きていくしか道はないのだ。
そこまで考えると私は、はっとして顔を上げた。
ひょっとして――と背筋が凍る気分で思う。
――ひょっとして彼が拒絶しているものは、この世界に限ったことではないのじゃないだろうか。
私は身を乗り出すとウォッカに問う。
「後どれくらいで着く?」
「もうすぐです」
「……どうした」
ジンが私に目を向ける。
私はその視線を受け止め、そして前を見据えた。
「予想が外れていれば良いのだけれど……急がないと、不味いことになるかもしれない」
施設へ着いた私は、先日ジンの後をついて回った記憶を頼りに、彼がいるであろう場所を目指し走った。
パスコードが必要であろう扉の前までたどり着けば、ジンを待つ必要もなく内側からドアが開かれ、煙と共に白衣を着た人々が咳込みながら飛び出してきた。
私は構うことなく中へと飛び込む。
ガラス戸で二つに区切られた部屋の向こうは火の海だった。
スプリンクラーが作動しているが、火の元が、水を掛ければ収まるというものではないためあまり意味を成していない。
キャンプ場近くの森でのときと同じく、這うような叫びが聞こえる。
消火器に手を掛けている人を認めて、私は慌てて駆け寄ると前に出た。
「待ってください。そんなものを使っても結局は意味がない」
狼狽える人々には構わず、私はその中の一人が抱えている水がたっぷりと入った容器を、失礼、と強引に拝借すると頭から水を被った。
ガラス戸の奥の部屋へ飛び込むと、炎の中心に駆け寄り声を上げる。
「私の声が聞こえる!?言葉が分かる……!?」
「−−お前は」
炎に包まれた彼は、ややあって顔を上げると私を認めた。
私は膝を折ると彼の顔を覗き込み、噛み締めるようにして言葉を紡いだ。
「私は先日、電話で君と、話した者だ!火を、抑えられるか!?」
何だよ−−と彼は苦笑する。
「やっぱり組織の、仲間だったんじゃないか」
「違う!」
私は強く首を振った。
「この施設が焼け落ちることを危惧しているんじゃない!君が心配なんだ!」
言えば彼は目を見開いた。
灼け付くような喉の痛みに咳き込めば、火が唐突に勢いを消した。
はっとして振り返った私は目を瞠る。
開かれた彼の瞳が揺れていた。
涙が頬を伝い、また火が弱まる。
だが色のない目は虚無を映しているようで、見詰めれば心が痛んだ。
何を言えばいいのか分からない、けれど何か言わなければならないと感じた私は口を開き掛け−−突如、背後に感じた圧倒的な存在感に、驚愕すると振り返った。
それを認めて、体が固まる。
関する記憶が一瞬で脳裏を駆け巡った。
「−−闇」
そこにあったのは例の闇だった。
宙に浮いているそれは、獲物を探すかのように、じわりじわりとこちらに近付いてくる。
恐怖に竦んでいた私は、しかしガラス戸の入口付近で目を見開き立ち尽くしているジンの姿を認めると声を上げた。
「ジン、離れて!」
言って、ガラス戸の向こうにも残っていた同様の様子の数人を振り返ると、再びジンに言う。
「全員ここから下がらせるんだ!」
私は闇に向き直ると、ややあって感じた違和感に眉を顰めた。
いままで自分が見てきたものと比べてこの闇は−−そう、不安定だ。
球体は歪み、縁が時折、破裂するように弾けている。
溶けそうになりながら、ゆっくりとこちらへ近付いてくる。
−−これは何だ。
この闇に呑み込まれれば、いったいどうなってしまうんだ。
必死で頭を回転させていたそのとき、強い力が腕を掴んできて私は目を見開いた。
はっとして振り返れば、すっかり火の収まった彼が私を見ている。
その眼差しは息を呑むほど強く、到底逸らせそうになかったが、その苛烈さが、私の脳裏にある記憶を蘇らせた。
−−理解できなければ容量足りず、行き着く先は狂。
−−俺はあんたと違って、出来損ないだけどな。
私は、まさか、と彼と闇を見比べた。
この闇を創り出してしまったのは、彼なのか。
そのとき銃を構える音がした。
振り返ればジンが銃口をこちらに向けている。
彼か私か、はたまた両方か−−ともかくも組織は邪魔者を排除しようとしているのだ。
「待って、ジン!」
闇を消す方法は、きっと他にもある。
彼を排除しなくても、私を排除しなくても、闇だけを消す方法が、きっと。
−−理解とは、征することと似てること。
−−俺と違ってあんたは、どうやらこの世界に順応しているらしい。
私は、はっと息を呑んだ。
見定めるようにこちらに目を向けるジンの指が引き金に掛かる。
私はふらりと立ち上がった。
闇から本能的に逃げようとする体を内心で叱咤して、一歩を踏み出す。
恐怖で歯が噛み合わなくなりながらも、闇に向かって手を伸ばした。
触れれば、闇は獲物を求めて纏わりついてきた。
せり上がってくる吐き気と涙を呑み込んで、私は強く、消えろ、と念じた。
脳裏に浮かぶのは闇に呑まれる人々の光景−−過去の記憶。
−−もう、見たくないんだ。
敵も味方も、世界だって関係ない。
もうこの闇に、誰かが呑み込まれるのは見たくない。
強く思って手を握りしめれば、闇は一瞬、強く輝き光に変わると、すぐに離散し姿を消した。
私は力無くその場に座り込む。
……真の闇だったら、消すことは無理だった。
不安定な理解者が創り出してしまった不安定な闇だったから、まだ征することができたのだ。
「−−お前なら」
すると背後から聞こえた声に、え、と振り返る間もなく強い力で両腕を引かれた。
泣きそうに顔を歪めた彼と目が合う。
掴まれた部分が熱くて息を詰まらせた。
視線を向ければ、私の腕を掴む彼の手から時折、火が揺らぐ。
「お前ほどの理解者なら、生きていくことが出来るのか……!?」
その叫びに、やっぱり、と私は眉を下げた。
彼が拒絶したのは、この世界だけじゃない。
元の世界には戻りたくない、かと言ってこの世界や別の世界で生きていくのかと訊かれれば、それも違う。
彼が拒んでいる世界、それは言うなれば全てだ。
全ての世界を、彼は拒絶している−−生きていくことを拒んでいる。
私は首を横に振った。
その行為が、私も彼も違わない、という励ましにも似た何かを示したものだったのか、それとも彼の問いに対する答えだったのか、自分でも分からなかった。
「俺は駄目だよ。もう、生きていけない」
「そんなこと、ない」
男は悲しく笑って首を振る。
「拒絶したのは、世界の方だ」
「……世界が?」
「元の世界は、俺という存在を吐き出した。この先たとえ生き延びたとしたって、いつか必ず吐き出される−−拒絶される、世界から」
だから−−と彼は泣きながら笑った。
「俺の方から、拒んでやるんだ」
火を止めた、闇を消した、だというのに掛ける言葉が見つからない。
彼は天を仰ぐと、ユートピアか、と自嘲するように呟いた。
「ゆう−−何?」
「俺が探し求めていた場所だよ」
意味は−−と彼は私に目を向ける。
私の腕を掴んでいた手を離すと、ゆっくりと口許へ持っていった。
頭の中で警鐘が響く。
「決して存在しない理想郷」
「待っ−−」
「俺たちのような存在に、安寧の地なんて、ないんだよ」
男が自身の口許に手を当てた−−炎が見えた、次の瞬間、彼の体が内側から大きく弾けた。
私を濡らす、彼だった何か。
呆然と手を視界に翳せば、赤い雫が床に落ちた。
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