木ノ葉隠れの里近くの森の中、国と国を結ぶ道を逸れ、小道を進み、生い茂った草の壁を抜けると現れる、人里から離れたその場所には、ひっそりと佇む一つの家があった。
どこか遠くからは清流の音が静かに聞こえ、庭には淡い色をした花が咲き、屋根の上では小鳥が羽を休めている。
木漏れ日の中、庭先には二つの人影があった。
「それじゃあ、行ってくる」
言うと、イタチは名前の頬に口付けを落とした。
名前はどぎまぎとしながら、赤くなる頬を押さえる。
イタチは軽く笑い声を漏らした。
「そんな顔をされたら、離れられなくなるな」
イタチは優しく名前のことを抱きしめる。
名前はその腕の中からイタチを見上げた。
「あの、いつもいつも言っていて、鬱陶しいだろうなとは思うんですけど……どうか今回も、気をつけてくださいね」
もちろん──と名前は微苦笑する。
「イタチさんが強いことは分かってます。だけど、だからこそイタチさんに与えられる任務はどれも危険で難しいので……」
そして、そんな任務をも完璧にこなすのがイタチという男だとも分かっている。
だがその強さを信じていても、どうにも不安はいつになっても消えてくれない。
「鬱陶しいなんて思わない。俺の身を案じてくれて、ありがとう」
イタチは言うと、名前の額に口付ける。
「今回は一週間程度で帰ってこれると思う」
名前は甘く痛む胸をそっと押さえた。
イタチを見上げて、頬を緩める。
「はい……待ってます。行ってらっしゃい」
イタチは名前の顎に指を掛けると、優しく顔を上向かせ、啄むようにキスをする。
やがて唇を離すと、名前を腕の中に閉じこめ、その柔らかい髪に指を通した。
「……心配なのは、俺の方だな」
すると呟かれたその言葉に、夢心地にぼうっとしていた名前は顔を上げる。
読み取れない眼差しを向けてきているイタチに、瞬くと、自分の胸を叩いてみせた。
「だ、大丈夫ですよ。確かに私は最近任務に出ていませんが、まだまだ戦えます」
「それは分かっている。げんに、先日報告をしに木ノ葉隠れへ行ったときも、カカシさんが言っていた」
「カカシ先生が?」
「ああ。任務の依頼主が、お前を指名してくることがあるらしい」
「私を?」
名前は驚きに目を丸くさせると、すぐに事情を理解して笑った。
「わざわざ指名までするということは、時空眼ですね」
「カカシさんがそれを許すわけがない。何よりもちろん、俺もな」
名前は何も言わず、ただ頬を緩めると、イタチの背中に手を回した。
イタチは静かに続ける。
「お前の能力は時空眼だけじゃない。そしてお前の強さは、忍術だけじゃ決してない。それは分かっているが……」
「ありがとうございます」
名前は明るく笑った。
「だけどやっぱり、強さ云々関係なしに、私は大丈夫ですよ。これから任務地に行くイタチさんと違って、私はここにいますから。この場所で、危険なんてまずありませんよ」
──と、思っていた時期が私にもありました。
ほんの6日前、イタチさんとした会話を思い出しながら、私は音を立てずにクナイを手に取った。
素早く印を結ぶと、響遁の術を発動し、耳を研ぎ澄まさせる。
木々が風に揺れる音が聞こえ、小鳥の囀りが聞こえる。
そして確かに聞こえた──砂利を削る人の足音と、荒い呼吸が。
それは穏やかな川のせせらぎに紛れてしまいそうなほど微かなものだったけれど。
私は素早く装備を整えると、家を飛び出し、音の出所へ向かって木々を飛び進んでいく。
──こんな人里離れた森の奥に来るなんて、いったい何者だろう。
足音を消せていないことからして、忍ではないと思うけど。
もし忍であるなら、心身に何らかの重大な傷を負っていて余裕がない状態のはず。
それか──と、私は目を細める。
わざと音を立てて、こちらを誘っているか、だ。
(だとしたら、狙いはどっちだ……?)
私か、イタチさんか。
──この場所で、危険なんてまずありませんよ。
6日前、私は確かにそう言った。
そしてその考えはいまでも変わっていない。
そもそもこの場所で、予想だにしない事態が起こることなんてまずありえないんだ。
この場所を訪れる人と言えば皆、私とイタチさんが信を置く大切な人たちだけで、予期せぬ来訪者はいない。
もし来たとするならば、それは招かれざる客である可能性がとても高い。
音に近くなってきたところで枝の上に着地すると、木の幹に身を潜めて、そっと人影を窺った。
「ちくしょう……いったいどこなんだよ、ここは!」
男が一人、悪態を吐きながら、足を引きずり歩いていた。
怪我をしているらしい。
引きずる足の後ろは砂利が一本道に削れ、血が転々と跡を残していた。
(……忍じゃない。)
男の動作を見て取って、すぐにそう確信する。
しかしつぶさに観察してみれば、男の頬や腕にはひっかき傷のようなものが見えた。
私は暫し考えると、やがて枝を蹴って男の前に着地した。
「大丈夫ですか?」
突如現れた私に、男は心底驚いた様子だったが、懐に伸ばし掛けた手をすんでで止めると、まじまじと私を見た。
「どうしてこんなところに、女が……」
「私のことはどうでもいいです。足、怪我をしているようですが大丈夫ですか?」
「あ、ああ……。……いや、実を言うと辛いんだ」
「ひとまず止血しないといけませんね」
ポーチから布を取り出して、男の足を手当していく。
脳裏をよぎるのは、先ほど己の懐に手を伸ばし掛けていた男の姿。
(何か、武器を……?)
ちらりと目をやれば、逆に向けられる視線を感じた。
顔を上げると、男は口元に笑みを浮かべている。
「こんな辺ぴな場所で暮らしている奴がいたんだな」
「私のことですか?」
「ああ、そうだ。あんたはこんな山奥にいるにしては軽装すぎる。どこか近くに、拠点があるんだろ。誰と暮らしてるんだ?」
「誰と、って」
「あんたみたいな女が一人、こんな場所で暮らしていくなんて危険すぎるからな」
男は続けて、
「恋人か?」
「恋人……」
呟けば、脳裏に映るのはイタチさんの姿。
思うだけで、胸が甘く痛み頬が熱くなる。
「その顔、当たりのようだな。けど、一緒に住んでたって、一人で飛び出してきちゃ結局不用心だ。彼氏に任せて、自分は家で待っていればよかったのによ」
私は少し考えてから、口を開いた。
「相手は今いないので」
「……つまりここらへんにいるのは、あんた一人っていうことか?」
「はい」
「……寂しくないかい?」
「それは──」
言いかけたとき、男に腕を引き寄せられて、砂利の上に倒された。
覆い被さってきた男は口元を歪めて笑う。
「慰めてやるよ」
瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。
慰めてやる──この言葉、きっと昔の私じゃ理解できていなかっただろう。
だが成長した私には分かる。
この人は、イタチさんがいなくて寂しい思いをしている私を慰めようとしてくれているのだ──イタチさんの代わりを担ってくれようとしている。
だけどイタチさんの代わりなんて誰にも務まらないし、そもそもこの人が私を慰めるなんて、そんな苦行をする必要はどこにもないんだ。
(……イタチさんは、少し変わってるから)
──頭が良くて、優しくて、強くて、非の打ち所なんてまるで見当たらないイタチさんには、だけど少し変わったところがあった。
あったと、知った。
それは、私なんかを愛してくれるということ。
そして完璧なイタチさんの、そんな変わったところが、私は大好き。
(イタチさんが少し変わった人で、よかった……)
なんて失礼なことを考えながら、私は男の頬と腕を再度見回した。
そこに残るひっかき傷を確かに認めて、私は思わず涙ぐむ。
この人、きっと医者か何かなんだ。
人を助けることを生業にしてる。
体に残る傷は、おそらく痛みに暴れる患者から受けたものなんじゃないだろうか。
そしていまは、私を癒そうとしてくれている。
心の傷を、治そうとしてくれている。
だけどだからといって、私なんかを慰めるなんて、そんなの自分を犠牲にしすぎだ。
私は強い光を目に灯して彼を見上げた。
「大丈夫です。私は大丈夫」
「なんだよ、寂しいだろ?」
「確かに寂しくないと言えばそれは嘘になりますが、あなたがそんなことをする必要なんてないんです」
言えば彼は変な顔をして、まじまじと私を見たかと思えば、嘘だな、と言った。
私は首を傾ける。
「嘘?」
「ああ。寂しい思いをしているなんて、嘘だろ?」
「何を──」
「寂しいなら、寂しいと思うくらい相手を想っているんなら、もっと抵抗するだろう。その人以外に触られたくないと焦って暴れるはずだ」
「あ、焦ってはいますよ。あなたにこんなことさせられないので」
「焦る方向が違うんだよな。それだけしか想ってないなんて、いったいどんだけ魅力がない奴──」
彼が何か言いかけたとき、頭上で気配がした。
そして、愛しい人の声も。
「──おい」
イタチさんの声に彼が顔を上げた瞬間、その顎に蹴りが入った。
私は、え、と声を上げる。
放物線を描き飛んだ彼は、そうして地面に落ちるとぴくりとも動かない。
「えっ、イタチさん──えっ?」
「ここにいろ」
完全に混乱している私にイタチさんはそう言い置くと、意識がない男を担いでどこかへ消えた。
暫しぽかんとしてから、ようやく我に返って慌てて立ち上がれば、イタチさんはすぐに戻ってきた。
私を抱き上げて家まで歩き、そうして着いた家のベッドに倒される。
覆い被さってくるイタチさんに、いつもならどぎまぎするところだが、今も今で違う意味で心臓が大変なことになっている。
私は恐る恐るイタチさんを窺い見た。
「あ、あの……イタチさん……?」
「……俺が何かに怒っているのは分かっているな」
「あの……はい」
「だが何に対して怒っているのかは分かっていない」
「えっと……」
必死に考え、言葉を探し、しかし見つからない答えに私は口を噤んだ。
イタチさんが私の頬に手を添える。
「悋気を隠そうとは特段考えていなかったが、あえて言うことでもないと思っていた」
「悋気……?」
「だが今回のようなことにならないためにも、お前にはちゃんと、理解しておいてもらう必要があるな」
名前──と、イタチさんが私を呼ぶ。
「確かにお前は、お前自身のものだが、俺の女でもある」
「おっ……!!」
「知らなかったか?」
「し……知らなかったわけじゃ、ないですけど……」
しどろもどろになる私に、イタチさんは微かに笑う。
「だがあまり深く理解していたわけじゃないだろうな」
困って見上げた私の視線を受け止めて、イタチさんは妖しく目を細める。
「名前、お前はいい子だ。……自分が誰のものなのか、言えるな?」
私はイタチさんを見つめた。
胸に甘い痛みが走る。
私は──と、口を開いた。
「わ……私、は」
言おうとして、しかしうるさく鳴る心臓に胸が苦しくなり言葉が途切れてしまう。
頬が熱い。
胸を押さえれば、イタチさんは私の唇を親指でなぞり、笑い含みに言う。
「どうした」
「……あ、あの」
「……顔が真っ赤だな」
「し、心臓が、すごく、どきどきして」
イタチさんは微かに笑い、そうか、と言った。
そして呼ぶ。
名前──と、甘い声音で私の名前を。
優しく、しかし有無を言わせない強さを孕んだ眼差しを向けられれば、言わずにいるなんて無理だった。
「私、は──イタチさんのもの、です」
イタチさんは唇で弧を描くと、私の額に口付けを落とした。
「いい子だ」
「イタチさん──」
イタチさんが私を見つめる。
私もイタチさんを見つめ、そうして目を閉じた。
唇に重なる熱を、うっとりと受け入れる。
愛しい人に触れたくて、しかし怒っていたイタチさんが思い返されて、恐る恐る首に手を回してみれば、口付けが深いものになる。
優しく髪を梳かれて、唇が離れる。
「名前……」
「イタチさん──はっ!そ、そういえばあの男の人はどうなったんですか?」
夢見心地に微睡んで、体の力が抜けて落ち着いて、すると脳裏をよぎった光景に、はっとした。
「見間違いじゃなければ、イタチさん彼の顎を蹴っ──蹴っ……て」
底冷えするような眼差しに、私は自分が何か間違えたことに気が付いた。
冷や汗を流せば、イタチさんは淡々と言う。
「さっきの男は、いわゆるお尋ね者だ」
「えっ──えっ!?」
「こんな人里離れた場所にいた時点で、怪しいとは思わなかったのか」
「怪しいというか、不思議には思いましたけど……」
「まあいい。そっちの危機感については、また今度だ。今はとりあえず──」
言って、イタチさんは顔を寄せる。
「名前、お前が俺の女だということは、さっき教えた」
「は、はい」
「もう一つ、教えておくことがある」
イタチさんの瞳に熱が灯る。
「俺は別に、自分のものに手を出されて、黙っているような男じゃない」
確かに──と、イタチさんは続けて、
「この手を離れていっても心動かされないもの、拘らないものはたくさんあるが──」
イタチさんが私の頬に手を添える。
目が逸らせない。
「誰の目にも触れさせたくないと思うほど、心奪われているものだってある」
「イ……イタチ、さん」
イタチさんは、手を、と言って私の手首を撫でる。
「触らせてたな」
「あの……」
「声を、聞いたな」
イタチさんは私の耳元に顔を寄せた。
戸惑っていれば、耳たぶを柔らかく食まれて、私は声にならない声を上げる。
「イ、イタチさん……!」
イタチさんの舌が耳をなぞる。
肩を押したが、易々と布団に縫いつけられた。
鼓動が速くなり、呼吸が乱れる。
顔にどんどん朱が昇る。
「や、やだ、駄目です」
「……名前」
囁くように名を呼ばれて、私はぴくりと体を揺らすと、動きを止めた。
「それでいい」
イタチさんは私の頭を撫でると、少し離れる。
ぼやけた視界は瞬くと鮮明になり、すると笑うイタチさんが見えた。
「俺を映し、声を聞き──俺の名前を呼んでいろ」
20190707