呪術



茹だるような、暑さ。一日の疲れをギュッと凝縮したような足の重さは週の後半になるにつれて驚くほどに増加している。早くお家に帰りたい。そう思うのは仕方がないことで、働きに出てる人はみんな大体そう思ってるはず。そんな憶測を散りばめながら家の扉を開けると、なんだか妙な違和感。扉を開けた瞬間にやってくるもわっとした空気は嫌いじゃないけど、さすがに暑すぎる日には勘弁してほしいと思っているその空気は、今日に関しては冷えているのである。冷房点けっぱなしで出ちゃったのかな…?そうだとしたら今日一日でかなりの電気メーターを振り動かしてしまったということだ。…でも点けてしまったものは仕方がない。今日はこの疲れた足へのご褒美ということで手を打とうじゃないか。

シャワーを済ませ、リビングの椅子に腰かける。少しだけ高さのある"それ"は、明らかに私のサイズには合ってない。足をぶらぶらさせながら、いい加減新しい家具にでもしようかと本気で考える。買い替えて欲しくないなら、早く帰ってくればいいんだよ。口に出すでもなく、そう心の中で唱えた。



「ご飯食べたくないなぁ」



夏バテという訳じゃないけど、疲れて帰ってくるとこういう事がよくある。一人分のご飯を作るのは意外と億劫だということが分かったのは、勿論一人になってから。最初の頃はそれでも作ってたけど、今ではたまにカップ麺で済ませちゃったりもする。良くないと分かりつつもやってしまうのは人間の性だと思うけど、そこんとこどうなんだろう。手元にあった砂時計を指で弄りながらぼーっと考える。



『これがいいんじゃないかな』



そう言って手に取った砂時計を、彼はとても大切にしていた。砂が落ちる音が落ち着くのだと、穏やかな顔で呟いたのを今でもしっかり脳裏に焼き付いている。
自分の方に引き寄せて、その近くでうつ伏せになる。砂時計をひっくり返して、振動で伝わる砂の音にだけ耳をすませればサラサラと綺麗な音が鼓膜に届く。丁度よく冷えた室内に流れる砂の音をもっと聴きたくて電気を常夜灯に変える。少しだけ暗くなった室内で再び目を閉じた。



「今日も忙しかったよ」

「でも美味しいカフェ見つけたの」

「残業最近してないのに疲れるんだよね」

「"先輩って彼氏いないんですか?"って聞かれた」



「会いたい」



そう思いの丈をぶつけていたのに、急に微睡んでいく私の世界。砂の音が止んでしまったのでもう一度ひっくり返して意識も閉ざす準備をする。あぁ、このまま寝ちゃうと風邪ひいちゃうかも。そんなことも頭の隅で考えたけど、今さら動く気力は私には残されていない。

















『風邪ひくよ』



……ひかないよ。


『名前が風邪をひいたら私の心臓が潰れる』



潰れるの?それは私が困る。


『ならしっかりタオルケットでも掛けて』



風邪ひいたら、傑、看病してくれる?


『うーん、まず風邪をひかない努力をしようか。それでもひいてしまったのなら、ちゃんと看病するよ』



嘘じゃない?
ちゃんと傍にいてくれる?
起きても、いなくなってない?


『………………勿論』



傑、好きだよ。


『……うん』



早く帰ってこないと、家具、買い替えちゃうからね。


『せっかく私サイズのにしたのに?』



だって私しか使ってないから。足、届かないもの。


『はは、ごめん。長さがどうしたって違うからね』



どうせ短足ですよ……。


『……さ、もう寝なさい』



……………傑は




どうしてそんなに悲しそうな、愛おしそうな顔で私のことを見つめてるの?そう聞きたかったのに、迫り来る眠気にはどうしても勝てなかった。何かの魔法にかけられたように、目蓋が重い。
おやすみ、と額に受けた唇の温さと、チリン、と鳴った風鈴の涼やかな音色を合図に私の意識はそこで本格的に途切れた。





次に目を覚ましたのは明け方。時計を確認すると、まだ短針は四を指している、そんな時間。あくびを一つ落とし、起きがけに身体を伸ばす。椅子で寝たからか身体が痛い。
バサッと、何かが落ちた音が背後から聞こえた。痛い身体ながらに後ろを振り向けば、そこにあったのは淡い藤色のタオルケット。……私持ってきてたっけ?昨日の記憶があやふやすぎて思い出そうにも断片的なことしか出てこない。断片的と言っても覚えてるのは砂時計を弄ってたことぐらいだけど。



「とても幸せな夢だったような気がするんだけど…」



こういう時の夢ほど覚えてなかったりするんだからちょっと悔しい。怖い夢とかはいつまでも覚えてるのに。



「残念だけど仕方がない。ちょっと早いけどお仕事の準備しようかな」



サイズの合わない椅子から降り、じんわりとかいた汗を流すべく風呂場に向かう。その時、後ろでチリン、と鳴った風鈴に気付いて目をやれば、いつの間にか開いていた窓に気付く。窓際に立ち、涼しい風が入ってくる窓をもう少しだけ開け一度エアコンを切る。一晩中、いやそれ以上の時間稼働させ続けていたエアコンも、少し休ませてあげないと。
ついでに落ちていたタオルケットを椅子の背もたれにかけようと持ち上げた瞬間、鼻を擽る匂いに懐かしさを覚える。……目の奥が、熱い。





「傑…………?」




砂は、時を刻まずにその様子を静かに見ていた。































「今日も変わりなくて何よりだよ」



彼女の住むその場所を後にしながら、彼女の息災を確認できたことに安堵する。精神的には息災でないことは解っているけれど、それでも私は彼女を自らの元に連れ出す気はない。かといって誰か他の猿に渡すつもりもない。彼女は私の愛情だけを感じ、私の愛情に縛られてればいい。まわりから見たら随分と歪んだ【愛】なのかもしれないが、実際にそんな事を言われたら物申すだろう。

猿ごときが、他者の価値観を私たちに与えるな、と。


『傑、好きだよ』


その言葉に返してあげられなかったことは、すまないと思っている。けれど彼女の『好き』という気持ちに返すとするならそれ以上の『愛』だ。辞書で引くような意味で一緒くたにはされたくないが、確かにこの胸に宿しているのは紛れもない愛。ドロドロとした感情に包まれたそれは、離反した今でも消えることはない。



「私の腕の中で愛を与えられ続けておくれ」











くるくるくるくる

狂狂狂狂

その愛を受け止めたら最後

共に堕ちる以外の選択肢なし


正確に刻を知らせる砂のように

一片の狂いもなく

共に生きて 共に死のうか











刻んで、落ちて、静寂に溶けた


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