呪術



「今何て言いました?」
「むしろ何て聞こえたの?」


おどけたように笑い、肩をすくめて彼は言った。「聞いたまんまの意味で合ってるよ」と。いやそれが結構問題なんだけど、と頭の中では華麗なツッコミを披露してみたが実際それをお見せすることは出来ない。つまりそれだけ私はパニックを起こしていたのだ。



まだ夏とはいえない。初夏、と言われるとそれもまだ早いようなそんな季節。呪霊の活動も少しばかり落ち着いているのか自分の行動に余裕が出てくる時期だった。しかしながらそこまで余裕があるわけではなく、むしろ焦りの方が私の内側を占めていた。というのも来週、実家から姉がくることが決まったのだ。それも昨日、突然。別に姉が嫌いなわけじゃない。むしろ大好きで、幼い頃なんてよく「お姉ちゃん、待って」と後をつけ回していたような気もする。そして姉はそんな私を嫌がることなく「名前」とよく可愛がってくれていた。

だが問題はそこではない。雷雲が突然発生するのと一緒で、それは突然落とされたのだ。「名前、結婚しないの?」という私にとっては最大級の落雷が。確かに私はもう二十六になるし世間の結婚適齢期のど真ん中と言える年齢だ。でもどう頑張ったって今の自分に『結婚』という言葉が付属として現れることはない。それを「仕事のせいだ」と言ってしまえばそうかもしれないけど、正直私がそういうことを考えてないのが一番の原因だ。
姉にはっきり「しないし相手もいないよ」と言えば良かっただけなのに。昨日の私が変な見栄を張って「結婚前提で付き合ってる彼氏がいるから大丈夫」なんて言うからこんな事態になったのだ。ただの世間話で終わり、姉がこっちに来ることもなかっただろうに。口は災いの元、とは本当にこういうことを言うのだろう。

そしてその憂鬱な気分を吐き出した溜息を拾い上げたのが、たまたま事務室にいた五条さんだった。どうしたの?そんな辛気臭い顔しちゃって。心底不思議、みたいな顔をしてコチラを覗き込んでくる五条さんの距離感に若干うわぁ……ってなりながらも、実はいろいろあって、と答える私はかなり律儀だ。そして話を全て聞いた彼は一言「ちょうど良かった!」と嬉しそうに手を叩く。何が?と思ったり口に出すよりも先に「僕もちょうどそういう相手探してたんだ。だからその相手、僕にやらせてよ」と言い始めたのだ。ここで冒頭に戻るわけである。


「だって完全に利しかないじゃん」
「いやいや!五条家当主とそんなことできません!」
「そんなことってなに?キスとか?セッ」
「そういうことじゃない!嘘で付き合うとかってこと!」


何を口走る気だこの男!そんな心配してないわ!!心の中でツッコミの嵐を巻き起こしている私をよそに「ねぇねぇ聞いてる〜?」って。そんな顔で聞くな。


「そもそも、私に利があったとして五条さんにはそんなものないですよ」
「なんで?」
「私は……そりゃ五条さんみたいにハイスペックな彼氏がいたら自慢できるし鼻高々ですけど。五条さんは別に、私じゃなくても……」


そう、そうなのだ。この人は五条家の当主で最強で。おまけに顔まで良いときている。
そんな人がなんで私みたいな凡人を選ぶ?利なんて何一つもないじゃないと思うのは決して間違いじゃないはずだ。
先程からそれを伝えているというのに全く引いてくれないのは一体何故。彼の意図が全くわからない。……もしかして当主だから身を固めなさいとかって言われてるのかな。いや、五条さんのお母さんがどんな人かは知らないけど、それで彼が動くとも思えない。しかしこれだけ言っても引かないのだから、いっそのこともう諦めて受け入れた方がいいのかもしれない。私がここで律儀さを見せた時点で負けだったのだ。


「オマエぐらいの凡人でちょうどいいんだよね」


わりと失礼な言葉と……唇に残る微かな感触。私たちの曖昧な関係の始まりは想像以上にあっさりと始まってしまった。









たかが一週間。されど一週間。短いような長いような、そんな時間。姉が来る日までにできることなんてたかが知れているし、むしろ何もなかったような気さえするけど。とりあえず互いのことはよく知っておかなければならないということで、今日。私は五条さんと夜ご飯を共にする。しかも五条さんの家で、だ。もちろん、外で食べないんですか?と提案はした。けれど彼は「外だと誰が聞いてるかわかんないじゃん」の一言でこの会話を終わらせた。まぁそれもそうか、という単純な私は、結局スーパーに寄ってから彼の家に来てしまった。
たまにはちゃんとした和食が食べたい。何がいいですかというリクエストに対して出た答えがそれだった。最強の口に合う和食。さばの味噌煮?ぶりの照り焼き?それともだし巻き玉子みたいなもの?とか。それはもうひたすら考えたけど、やっぱり安定の肉じゃがにすることに決めた。だってそれが簡単かつ美味しく出来るものだったから。


「肉じゃがっていうのが名前っぽくていいよね」


そう言いながら箸をつけて、ちゃんと「美味しいよ」って言ってくれるのだから何だかくすぐったくて仕方がない。だって五条さん、本当はもっと意地悪だし。なんなら料理だって絶対バカにされると思ったのに。


「するわけないじゃん。名前が僕のために作ってくれた料理なのに」
「なんだか甘々ですね五条さん……」
「そりゃ彼女なんだから。当たり前」


なるほど。こうして世の女たちは五条さんに堕ちていくんだな。なんとなく世の公式がわかったような気がして薄っすらと笑みが溢れる。偽りの関係なのに彼が囁く言葉は、まるで砂糖菓子みたいに甘いから勘違いしそうになるけどそこまで単純じゃない。でも私でさえこうなのだから実際に本物の『彼女』として言われた人たちはイチコロだったんじゃないかなあ。なんて、そんなことを考えながらお味噌汁をすする。うん、美味しい。









「お布団、もっと広いかと思ってました」
「キングサイズ的な?」
「はい。完全に偏見ですけど」
「本当にね」


諸々済ませてあとは寝るだけ。勝手に大きいベッドなのだろうから二人で寝ても余裕があるだろうと思っていたけれど、どうやらその解釈は間違っていたらしい。一人入ってまぁ少し余裕があるかな、ぐらいのベッドに二人で入ったら……確実に狭い。これなら先程のソファとかで寝た方がいいかもしれないな。


「五条さん、私あっちのソファで寝ますね」
「……は?なんで?」
「だって二人で入ったら確実に狭いじゃないですか」
「だからいいんじゃん。くっついて寝られるでしょ?」
「くっついて、って……」
「だって僕たち、恋人同士なんだよ」


名前その意味わかってる?っていう言葉。そっくりそのまま五条さんに突き返してやりたい。私たち、いくら『恋人同士』といえどその前には『仮の』という言葉が付いているんだということを彼は忘れているんだろうか。
文句というか、とりあえず私たちの関係ってこうなんですよ。そう伝えようとする前に突然伸びてきた五条さんの腕。咄嗟に後ろへ下がろうとする私の反応よりも早い速度で捕まり、引かれた私の腕。そのままお布団の中に連れ込まれたわけだけど……なんか、なんでこの人こんなに行動が早いんだろう。この前のことといい、全て計算してるのかな。


「僕と寝るの嫌?」
「嫌、というかそういうことじゃなくて」
「恥ずかしい?」
「それもありますけど」
「とりあえず少しずつ慣れてよ。そんなんじゃお姉さんの前で演技なんて絶対ムリだよ」
「ぐうの音も出ない……」
「まず僕のことは名前で呼ぶこと。あと敬語もなし」
「えっ!無理です!」
「結婚前提彼氏なんだろ?いつまで五条って呼んでるの?って絶対言われるよ」


先程から五条さんの正論パンチが右と左、交互に飛んでくる。確かに、もう仰る通りだ。お姉ちゃんには結婚前提って言った手前、かなり前から付き合ってるようなニュアンスで伝わってしまったのだから。お姉ちゃんが来た時によそよそしい態度なんて出してしまったら疑われるに決まってる。そしたらもう、そのまま両親に報告コースは免れない。


「それと」
「……ん、ぅっ…………!」
「……キスも少しずつ慣れてね」


おやすみ、ともう一度唇に。そして額に。それぞれ熱を分け与えてくれた五条さんはそのまま眠りについてしまった。私だけが、ドキドキしている。その現実にどこか悔しくなりながらも、同じように眠りにつくことを決めた。
五条さん。なんで私を仮の恋人に選んでくれたのかはわからないけど、今ちょっとだけ楽しいです。正直な気持ちを伝えられるとしたら、きっとこの関係が終わりを迎える時だと思いますが、その時は言わせてください。五条さんが恋人役で良かった、って。









「実在、してたのね。名前の恋人」


姉来訪当日。早速失礼なことを言われてしまったが、実際彼は恋人ではないのだからあながち間違いではない感想なのだと思う。ごめんなさい。期間限定で実在させてしまいました。驚いている姉を見ながら「名前さんはお姉さんとそっくりなんですね」と爽やかに話す五条さんは完全にオフモード。しかも私服とサングラスの組み合わせは破壊力抜群で、先程から周りの視線が痛いほど刺さっている。顔面国宝ナメてたわ。そう思わずにはいられない状況だった。


「えっと、五条さん、でしたっけ。貴方から見た妹ってどんな感じなんですか?」
「二つ下の後輩ですがしっかりしています。でも二人っきりになると時々天然を発揮するので面白いですね」
「そうなの!この子慣れてくるとそうなっちゃうのよねぇ」


二人の話は想像以上に噛み合っており、いい具合に進んでいる。やっぱり五条さんが適任だったのかも、と今更ながらに感謝の気持ちが込み上がってきた。だってこれがもし伊地知くんや七海さん、他の呪術師だったらきっとここまで上手くいかなかっただろう。ある種の詐欺師みたいなところあるもんね、五条さん。一人で納得しながら紅茶を口につけ、二人の会話が終わるのを待つ。


「それで?いつ結婚するとか決まったの?」
「今月中に諸々挨拶を済ませて、来月に婚姻届を出そうかと。挙式は来年に」


飲んでいた紅茶をものの見事に吹き出した。え、待って。聞き間違い?やっぱり私耳おかしい?フェードアウトしそうな私に「ね?」と微笑む彼は本当一体何を考えているのだろう。いくら仮とはいえ。役とはいえ。そんなに具体的な数字を出して大丈夫なのだろうか。それとも五条さんのことだから何か考えがあるのだろうか。
しかし姉もすっかりその気になってしまい、「家に帰ったら両親の予定聞いておくわね!」なんて張り切ってしまっている。どうしよう。実は婚約破棄になっちゃったんだよね〜なんてことになったらそれこそ大問題だ。五条さんにいろんな気持ちを込めた視線を飛ばしたのに、彼は笑うだけでそれ以上何も言ってくれなかった。





「あんなこと言ってましたけど、何か考えがあるんです?」


姉と別れて再び五条宅へ。こればかりは真意を確かめないとかなりまずい気がする。けれど肝心な彼はというと、姉と会う前よりもご機嫌な様子だ。こんなに私が焦っているというのに。


「え?別に考えてないよ。そのままんの意味」
「ちょ……っと、待ってください」
「うん。僕ね、めちゃくちゃ待った」


名前がこうして僕のところに来てくれるのを。気付けば詰められた距離。鼻と鼻がぶつかりそうなほどの至近距離で、彼はそう言った。


「五条、さん」
「だから悟だって」


そのままゼロ距離。重なる唇はこの前の比にならないくらい深い。口からなのか、それとも鼻からなのか。甘ったるい声が出てしまうのが妙に恥ずかしい。息が出来なくなるほど重ね続け、離れた時には軽く酸欠状態。倒れそうになる身体を優しく抱きとめる五条さんの腕も、温かい。


「もう僕の家には名前と結婚すること言ってあるから」
「…………………は」
「仮の恋人?冗談でしょ。僕が仮でそんなのに付き合うわけないじゃん」
「だって、互いに利しかないって」
「それはそう。だってオマエのこと手に入るチャンスはどうやったって『利』でしょ」


つまり、最初から。彼にとっては「仮の恋人」ではなかったということ?追いつかない私を笑いながら見つめる五条さんが嬉しそうで急に恥ずかしくなる。僕めちゃくちゃ名前のこと好きだったの気付かなかった?って言われても、そんなの知らない。知らなかったから今こんなに焦っているんじゃないか。「恋人役が五条さんでよかった」っていうシナリオは、見事に書き換えられてしまった。


結局、そのまま流れるようにお泊りして「この前我慢してたの偉かったでしょ?だから今日はいいよね」なんてあっという間に脱がされて。次の日立てなくなるまでされたのは苦い思い出だ。けどその日の夜にはサイズのぴったり合った指輪が右手の薬指に収まってしまったから、文句の一つも言えなくなってしまった。

とりあえず五条さん。まわりから囲んでいくの怖すぎるので、それだけはやめてもらっていいですかね。












ラストカードダウト


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