呪術



一般的に言われている『恋をすると綺麗になる』という言葉を、いつからか信じなくなった。元々女性は恋多き生き物だし、誰かと恋愛する度に見目麗しくなっていたら既にこの世は綺麗で溢れかえっているはずだから。そしてそれがもし本当なら、私は今頃かぐや姫も驚く絶世の美女になっていたはずなのだから。
そんなやるせない気持ちを抱えながらも、鏡の中に映る私は一生懸命に笑顔を作っている。この不自然である自然な表情を、あと数時間後には披露しなければならない。









「え?お見合い?私が?」


本当に、それは突然の事だった。朝食で出たトーストをいつものように少しずつ齧りながらテレビを見ていたら、そういえばと母が口を開いた。曇りのち晴れか。ここ数日外れっぱなしの天気予報を眺めながら耳だけは母の方へ傾けた。


「そろそろお見合いでもする?」


テレビの中のお天気お姉さんが驚いた様子で何か言っている。けれどその内容が耳に入ってくることはない。そう、ここで先程の私のセリフに戻る。そんな「おかわりのコーヒー飲む?」みたいに軽く聞いていい内容なのか。しかし如何せん母は真剣に私の答えを待っている。二十も後半になってきてそういう相手もいない私を気遣ってのことなんだろうけど、正直余計なお世話だ。
けれど断ったって、またすぐに同じような話が舞い込むんだろうな。母の性格上恐らくそれは絶対だ。それならば一度行ってしまった方が後々何も言われなくて済むだろうし、気も楽になる。

どんな相手なの。その私の返しはどうやら了承を得たと思われたらしい。そこからはあれよあれよという間に日程やら何やらが決まってしまったのだから母の行動力は時として恐ろしい。




「というわけなので、その日はどんな任務を入れられても行けないです」
『なるほど。わかりました』
「ごめんね伊地知さん」
『いえ、ご実家のご都合なら仕方がありません』
「ありがとう」


お見合いしている最中に任務を頼まれても困ってしまうので、前もって伊地知さんに相談したら快く承諾してくれた。スケジュール調整などでいつも苦労を強いられている彼からしたら突然の予定変更なんて以ての外だったろうに。電話越しでも分かる優しさに胸が温かくなる。今度何か菓子折りでも持っていきます。


『何、名前お見合いするの?』
「……五条くん?」
『そんなの僕聞いてないんだけど』
「まぁ……今初めて言ったしね」


それじゃあ私、忙しくなるからこれで。
挨拶もそこそこに切ろうとした私に彼は何やら言葉を発したような気がしたけど、そこは敢えて聞こえないフリ。たぶん、いつも通りたいした内容なんかじゃないだろうから遠慮なく切ってやった。


「……びっくりした」


電話越しに聞こえた五条くんの声は、まるで耳元で囁かれたかと錯覚してしまう程の近い距離で響いてきた。ここが自室で良かったと思ってしまうぐらいには頬が熱い。冷静に対応できた数分前の自分を褒めてあげたいな。そう思ったのはその場にしゃがみ込んでため息をついた後だった。









給仕として働きに出ていた母に連れられ、そこで偶然出会った男の子。五条悟とは、所謂幼馴染という関係だった。同い年の遊べるお友だちがいなかった私は、一緒に遊んでくれる「さとるくん」が大好きだった。母がお休みの日でも暇があれば会いに行ってたし、彼もそれを受け入れてくれた。そうして過ごしていくうちにお友だちの域を超えた「好き」を彼に抱くようになっていたのは、もはや自然なことだったように思う。



「さとるくん、女の人は『こい』をするときれいになるんだよ」
「はぁ?そんなのウソにきまってんじゃん」



今でこそ信じてはいないが昔は本当にそう思っていて、彼にもその言葉を投げかけた。私もアナタに恋をしてるから、この先綺麗になるんだよという意味合いも込めて。今にして思えばなんて健気なんだろう。幼い頃の私の方がよっぽど自分に素直で可愛らしい。


「オマエ、何も変わんねーな」


呪術高専で久しぶりに再会した彼から言われたその言葉が、たぶん、想像以上に刺さってしまったんだと思う。ずっとずっと好きだったのに。恋を、していたのに。何も変わらない自分自身に絶望したと言えば大袈裟かもしれないが、本当にそのくらいの気持ちを抱いたのだ。そしてこれは思春期という多感な時期とも被っていたからかもしれないが、かなり心は荒んでしまった。

恋をしたって綺麗にはならなかったじゃん。

そんな可愛げもない考えを、今日まで持ち続けてきたんだ。私は。






「そのうちお相手の方見えるから」
「ねぇ、私本当にこれからお見合いするの?」
「何今更な話してるのよ」


逃げないでね。ただ一言忠告して母は行ってしまったけど、一体この状況でどこに逃げるというのか。本日何度目かのため息を零して天井を仰いだ。
そもそも、私がこの年齢まで独り身だったのは他でもない。誰か他の人を好きになる想像ができなかったから。言わずもがな、初恋を拗らせた結果だ。五条悟という人間を、ずっと好いてしまっていたから。荒んでいた心なんて関係ない。私が選んだ道を嘲笑うかのように、好きだと思ったらもうダメなんだと。まるでそう言われているかのようにそれは付き纏っていた。これはもう、一種の呪いだ。幼い頃の可愛らしい恋心はいつしか苦しみを伴う恋心に変わってしまったのに。それを捨てられないなんて。
だからお見合いの話がきた時、正直チャンスだと思った。五条悟を断ち切る絶好の機会だと。もう、振り回されるのはごめんだ。






「へぇ、綺麗に着飾ってるじゃん」

「まぁ、準備に二時間かかった………し……?」






つい反射的に言葉を返してしまったけど、この声は母ではない。今日初めて会う相手でもない。だって私はこの声を知っている。広い部屋に響く、耳に届いた声。答え合わせをするように顔を横に向ければ、今一番会いたくなかった人がこちらを見て佇んでいる。


「これだけ広いと探すの大変だから予め部屋の場所ぐらい教えておいてよ」
「え、いや。は?」
「というわけで、行こうか」


あまりにイレギュラーな人物の登場に、まるで時が止まったかのように動けなくなってしまった。そんな私を笑いながら見ていた当の本人はその長い腕を私の方に伸ばし、いとも簡単にその魔法を解いてしまった。いきなり手を引かれたことでバランスを崩し、あっという間に五条くんの腕の中に収まってしまう。え、ちょっと待って。なんでここにいるの、とか。任務はどうしたの、とか。いつもの格好とは違う、オシャレな服にお化粧ついちゃうよ、とか。今目の前で起こっていることのどれもが理解できないでいる。不意打ち以外の何物でもない五条くんの登場に、頭の中はパンク寸前状態だ。
引かれた手は自然と握られ、そのまま二人で歩き出す。これじゃあ人攫いだよ。そんな軽口を叩ければ良かったけど、生憎そんな余裕は微塵もなかった。彼も彼で私の方を一切見ないから何を考えての行動なのか全く……、いや本当に意味がわからない。


「ちょ、五条くん……!」
「任務なら早々に終わらせてきたから安心して〜」
「五条くん待って」
「この後どうしよっか。とりあえず僕の家来る?あ、脱がすのは得意だから任せてね」
「………っ。さ、悟くん!」


ピタ、と。ようやく止まった歩みと同時にコチラを射抜く瞳。そういえば彼の顔、まともに見たの久しぶりだな。なんて。こういう場違いな程に呑気な考えを巡らせるのは、人の心理状態的によくある行動だって誰かが言ってたっけ。


「なに?」
「なに、は私のセリフだよ。何してるの……?」
「連れ出した」
「困るよ……。私この後お見合いするんだよ」
「好きでもない奴と?」
「それは………」
「だって名前が好きなの、僕じゃないの?」


その場に流れる静寂。どれだけ自惚れているんだと、即答する事ができなかった時点で認めているようなものだ。彼の言葉から察するに、全て知られていたということなのだろうか。私の拗らせ続けていた恋心を。だとしたら、ねぇ。ここに現れて私を連れ出した意味って何?どう頑張っても追いつかない思考を手放したい気持ちと、彼の真意を知りたい気持ちが入り交じって感情さえも大爆発だ。ついには両目から涙がはらはらと流れてしまう。


「……悟くんのことが好きだって言ったら、世界は何か変わるの?」
「何も変わらないよ」
「……好きじゃないって、言ったら?」
「それは困るね。だって僕は名前のこと手放す気なんてないんだから」
「それ、は」
「言葉で伝えないと不安なら、毎日言おうか?名前が好きだって」


でもそんなの、なんの意味もないと思うけどね。

その言葉を彼の腕の中で聞いた私はまさに茫然自失。言葉そのものにもそうだけれど、抱きしめられている現状は心臓が握り潰されているような苦しさだった。夢なのかと思うほどに現実感がないのは、この場の雰囲気のせいだろうか。先程から人一人通らない廊下で二人、まるでドラマのような一幕が流れている。ねぇ、これは。貴方も私と同じ気持ちでいてくれるって、自惚れてもいいのかな。


「……私、昔と変わらないのに」
「なにが?」
「悟くんに言われた通り、恋をしても綺麗になんてならなかったのにな、って」
「オマエの綺麗の基準って何か分からないけど」
「悟くんの隣に立っても恥じないぐらいに綺麗でいたかった」
「なにそれ。反則じゃんそんなの」


可愛いすぎてさ。電話越しではない耳元での囁きにくすぐったさを感じたのも一瞬。気づけば顎を持ち上げられ、重ねられた唇。あっさりと触れられた唇から伝わる熱は一気に全身へと伝達されていく。互いに食べ合うみたいに、何度も、何度も。あまりにそれが気持ちよくて、温かくて、あれこれ考えるのが面倒になる。もう、いっか。このまま一緒に溶け込んだって。


「……ほんと可愛すぎてムリ。とりあえずその着物さっさと脱がせたいからここ出よ」
「え?」
「他の奴の為に着飾ったなんて虫唾が走るだろ」
「あ……」
「むしろここで脱がせないだけ有難いと思ってよね」


そそくさと逃げるように走り出した私たちの後を追う人は、今はいない。そろそろ私が部屋にいない事に気付いて慌てている頃だろうか。そういえば「逃げないでね」って言われた時、一体どうやって逃げるんだと思ったけど。まさかこんな形ですっぽかすなんて、私自身も思わなかったよ。とりあえずお母さん、ごめんなさい。今回のお見合いは破談でお願いします。








世界の世迷い事は君のために


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