呪術



夜が明けるにはまだ少しだけ早い時間帯の外は、思った以上に暗くはなかった。もう時期春になるからだろうか。そんな事を考えながら歩く足取りは軽く、気付けば鼻唄まで奏でてしまう。今日の私はちょっとご機嫌かもしれない。

お邪魔しますと控えめにかけた声は、きっと家主には届いていないだろう。けれどこういうのは礼儀だから欠かすわけにはいかない。そのまま出来るだけ音が立たないように歩いていたけれど、そもそもこの家防音がしっかりしているんだったという事を思い出して普通に歩き始める。
少しだけ長い廊下の先にある部屋。そこで眠っているであろう家主を起こすべく、開いていた扉から顔だけ出して声をかけた。


「五条さんおはようございます!」
「…………え…なに、もう……そんな時間…?」
「はい。もうそんな時間です」
「………まじか…ぁ」


欠伸を噛み殺しながら起き上がった五条さんはとても眠そうだけど、すぐにベッドから出てくれるからとても助かる。けれどまだ頭が覚醒しきってないからか少し寝惚けた様子なのが可愛い。


「とりあえず簡単な朝ご飯作っておきますね」
「サンキュ。ちなみに傑は?」
「この後起こしに行こうかと思ってます」


何やら少し考える素振りを見せてから「じゃあ朝はパンでいい」とリクエストしてきた五条さんは私の頭を軽く撫でてから部屋を出ていってしまった。なんとなく、撫でられたところが温かい。
これは担当になってから気付いたことだけど、五条さんはスキンシップが多い。ような気がする。

朝ご飯の支度をしている途中でリビングに入ってきた五条さんは、先程の眠そうな顔とは打って変わって目がこれでもかと言わんばかりに開いていた。(元々目が大きいから完全に当社比だけど。)
五条さんって、なかなか寝ないイメージあるけど起きない事はないんだからすごいよなぁ。そんな何とも不思議な感覚を覚えながらも作ったものを並べていけば「今日も美味そう」とボソッと呟くから自然と頬が緩んでしまう。


「今日のスケジュールってどんなだっけ」
「まず朝イチの収録があります。それが終わったら移動して、現場のお笑いライブに参加ですかね。収録とライブの間は少し時間が空くので仮眠が必要ならそこでになります」
「ふーん。オッケー」


いちごのジャムを塗りたくったトーストを頬張りながらスケジュールを確認する姿はプロみたいだ。いや、彼は今人気絶好調のお笑いコンビ『祓った本舗』の片割れである『五条悟』なのだからみたいではなく歴としたプロなのだけど。普段人前で見せる調子に乗った姿しか知らない人からすれば、この姿はなかなかにレアではないかと思う。それもマネージャー業の特権かな、なんて。


「ところで、どうするか決めた?」
「え?」
「……まさか忘れた?」


突然振られた話の内容がまるで分からず、曖昧な返答をしてしまった事で先程までの緩やかな空気が一気に壊れた気がした。やばい。五条さんの表情が不機嫌丸出しになっていく。


「この前の飲み会の帰り」
「へ?」
「俺の家で一緒に暮らさない?って言ったの」
「は」
「忘れてねーよな?」


ニコッと笑っているのに一ミリも笑っていないような気がするのは気のせいだろうか。……こういうの、蛇に睨まれた蛙って言うんだっけ。

五条さんの一言で思い出されるのは、先日行われた収録の打ち上げの時の事。お酒に弱い五条さんが珍しく酔ってしまったので夏油さんと一緒に介抱していたんだっけ。その後歩いて帰らせるのは危ないって判断したから私の車で送っていったんだけど。たぶん、その時の事を言っているんだ。
夏油さんは残ってしまったので車内には私と五条さんの二人きり。それ自体はたまにある事だから別に気にもならなかったのに。
――なのに突然助手席に座る彼が「オマエさ、もう俺と一緒に住めばいいと思う」と呟いてコチラを真っ直ぐ見たから。ハンドルを握る手に、少しだけ冷たい体温をかぶせて。
私が困惑してても信号は迷わない。青で照らし出された進行方向に進むべく車を発進させた時にはもう、五条さんは目を閉じて眠ってしまっていた。

そんな事言われたら、次会った時どんな顔したらいいんだろう。いや。でも五条さんはお酒が入った状態だ。もしかしたら覚えてないかもしれない。だったら、わざわざ蒸し返す事もない。そう思って普段通りに振る舞う事を決意したのは、五条さんを送り届けてから自宅に戻りもろもろ済ませた布団の中でだ。
そして案の定、彼は何事もなかったのように過ごしていた。いつも通りの少しだけ雑な接し方。ほらやっぱりね。忘れられた事に安心した私は己の記憶からも消し去ってしまっていた。


「……あれって、冗談ですよね」
「は?冗談だと思ってんの?」
「そもそも、覚えてたんですか……」
「当たり前じゃん。俺酔ってなかったし」


自分の足先で泳いでいた視線が一気に上に向く。してやったり、という五条さんがそこには立っていて。私は罠にかかったんだという事を一気に理解する。酔ってなかっただなんて、そんな。あの日の五条さんの演技力にまんまとしてやられた過去の私、もっと人を見る目を養え。


「えっと、だってマネージャーと一緒に住むなんて」
「おかしくねーだろ、別に。そもそもオマエの面倒が省けるじゃん」
「私の……?」


だってわざわざ朝早く起きる必要もない。起きて準備して、わざわざここまで歩いて起こしに来るとか時間の無駄じゃん。車もこのマンションに停めてあるのに。そんな時間あったらギリギリまで寝て頭しっかり休めてさ、その分を俺たちにまた還元してよ。
先程と変わらずニコニコしながら説く五条さんが、一歩ずつ近付いてくる。本能的に『危ない』と感じた時にはもう、ひんやりとした温度が背中から伝わっていた。


「俺、我慢するのキライだから」


顎を掬われ近付いてきた顔。咄嗟に目を閉じたのにいつまでもその時は訪れなくて。恐る恐る目を開けると視界いっぱいに広がる五条さんの、ご尊顔。呼吸ができているのか分からない。心臓が押しつぶされたような苦しさが永遠に続いているような感覚。


「かーわいい」
「……っ」
「今日はとりあえずこれで勘弁してやるよ」


その言葉の意味を理解するよりも前に、頬に熱が与えられる。ようやく離れた五条さんの表情はとても意地悪なのに、あまりにかっこよくて目が離せない。でも別に、五条さんの事が好きだからマネージャーになった訳じゃないんだけどな。


「とりあえず鍵渡しておくから」
「え!?いきなり!?」
「とりあえず今日ライブ終わったら着替えとか取りに行こうぜ」
「私の話聞く気あります?」
「さーてと。傑起こしに行くか」


いつの間にか平らげていた朝ご飯に片付けられていた食器。水を使ったからか、ひんやりとした手が私の温い手を攫って家を後にする。下の階にいるなかなか起きられない夏油さんを起こしに行った私たちの手は繋がれたまま。それを見た夏油さんが珍しく飛び起きるのは今から数分後の話。









ご機嫌だね、愛おしそうだね




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