心から感謝をこめて






トリプルフェイス。三つの顔を持つ男。その俗称が特段気に入っているわけではない。が、それぞれの環境で違う自分を演じているのは嫌いじゃない。なんだか酔狂だね。そう言われたこともあったけど、それについては否定はしない。確かに僕のこの生活を知ってしまったらそう思われても仕方のないことだけど、愛する国の為だ。酔狂だろうとなんだろうと受け入れる他道はない。

そんな話をしたのが、いつだったかも思い出せないのはここ最近の疲れが溜まっているからなのかもしれない。風見にも指摘されるなんてな。そう愚痴ったところで根本は何も解決しないのだがボヤくぐらいは許せ。


「少し睡眠とればいいだけだと思うよ」
「……っ、な!」
「私が入ってきたことにも気づかないなんて、よっ疲れてたんだねぇ」


家の中で聞こえる声は自身の声とハロの声。だけのはずなのに。いつの間にか来ていた来訪者は驚いた僕を気にするでもなく「とりあえず簡単なご飯できてるよ」と笑うだけだった。……いや。それよりも前に何か言うことがあるだろう。しかしそう言ったところで不思議そうな顔をして終わりだ。わかってる。だって僕等は幼馴染だから。


「久しぶりのご飯どう?」
「ん。美味しい」
「ゆっくり食べてね」


正直そんなにゆっくりする暇なんてないのだが、彼女の空気だろうか。それが影響して随分と穏やかに時間が流れているような気がする。元々時間が空いた時は自炊するようにしているから、久しぶりに食べた”ちゃんとしたご飯”というわけではないけど。でもこうして”僕の為に作られたご飯”を食べたのは久しぶりかもしれない。

幼馴染でもある彼女は、小さい頃から不思議な女の子だった。他の人よりも緩やかに流れているような時間を作り出すのは今も昔も変わらない。おっとりとした、といえばわかりやすいかもしれないが、とにかく彼女は世間の荒波なんて関係なく歩いている。まるで彼女が歩いているその場所だけ凪のようだ。そんな名前の近くにいると自分のまわりも静けさを取り戻すような気がする。


「零くん」
「……ん?どうした?」
「大丈夫?具合悪い?」
「そんなことはな、……っ」
「……たしかに熱くはないね。おでこ」


額と額が触れ合う。あまりに近いその距離。いや、きみは本当に何をしているんだ。少し動けば唇が触れてしまいそうな位置に名前の顔があり、動揺を隠せない。そんな僕とは逆に平然としている彼女は「熱がないならいいんだけど」なんて言いながら離れていく。ないならいいんだけど、ではない。今この一瞬で熱が上がったのは間違いないし、なんならその原因はキミだ。


「そういえばこの前ポアロに行ったんだけどね」
「え?いつ?」
「先週だったかな?零くんがいない日」


先週は組織の仕事が入ってしまったから、たしかにポアロの方には顔を出すことが出来なかった。来るなら来るで一言言ってくれればいいのに。そんなことも考えたけど、言われたところで確実にシフトに入れるわけじゃない。致し方ないか。そう自分に言い聞かせて納得させる。


「新しいスパゲッティ出てた」
「マスターに何か一つ新作を、って言われてね」
「じゃああれ零くんが考えたんだ。どうりで」
「ん?」
「セロリが入ってるなって思ったの」


零くん好きだもんね、セロリ。それに続けるように放たれた「私も好きだよ」の言葉はもちろんその前に話したセロリにかかっているのはわかっている。わかっているのに、一々反応してしまうなんて随分と子どものようだ。
けれど彼女はいつもこうして僕の心を弄ぶ。そのせいだということを全く理解してくれない名前にいつか思い知らせてやりたい。そんなに軽々しく「好き」だなんて言うもんじゃない、と。でもそれを言ってしまえば、いつまでも報われない片想いに終止符を打つことにもなってしまう。だからこそ難しく、動けないでいる。







小さい頃から変わらないと思う。彼女の雰囲気は。おっとりとしていて、どこか天然とも言える女の子だった。僕とヒロと名前。どこに行くにも三人一緒で、たくさんの時間を共に過ごした。ヒロも名前が好きで、小さい頃は何かと競い合っていたようにも思う。でもそれを見たって彼女は特に何かを感じるわけではなく、むしろ「がんばれ〜れいくん。ひろくん」なんて呑気に声をかけていた姿が記憶の片隅に残っている。結局それを見た僕たちは気が抜けて勝負なんてどうでもよくなってしまった、というのが一連の流れ。いつ思い出しても色褪せない。そんな数少ない大切な記憶。


「こんばんは安室さん」
「……!名前さん!どうしたんです?」
「安室さん考案の新作スパゲッティが食べたくて来ちゃいました」
「……あれ?でもこの前」
「あ、いらっしゃい名前さん!安室さん。この前名前さん来てくれた時、安室さんがいないからスパゲッティは諦めて帰ったんですよ」


梓さんが奥からそう声を出す。……てっきり、この前食べたかと。そう思っていたのに、まさか違っていたなんて。目の前ではにかんだように笑いながら「実は」と話す彼女が愛おしくて顔が緩みそうになるが、さすがに勤務中。そんなことをするわけにはいかないし、なによりそのくらいのことを抑え込めないなんて何がトリプルフェイス。耐える他選択肢はない。
僕の葛藤を知ってか知らずか(いや絶対知らないだろうけど)相変わらず安室さんってかっこいいですね〜なんて言ってくる彼女を一瞬。本当に一瞬だけ恨んだ。普段、かっこいいなんて言わないくせに。そんな心の狭い文句をそっと投げかけながら「ありがとうございます。名前さんの可愛さもお変わりなく」と反撃。しかし彼女はそれに対して恥ずかしがる様子もなく笑うだけ。


「安室さんと名前さんって仲良いですよね」
「ふふ、そう見えます?」
「えぇ、とっても!」
「でも安室さん、皆さんに優しいですからね」
「あー。それはそうかも。だからファンも増えるんですよね……」
「はい。なので絶賛片想い中なんです」


にこにこしながら発言していた名前以外の時間が止まる。今、なんて?隣にいる梓さんも同じようなことを考えているのか、その言葉に続かないで呆けている。沈黙してしまったこの空間に流れているのは少しだけ古いクラシックだけ。


「じゃ、じゃあ私もうあがるので安室さん戸締まりよろしくお願いしますね!」


それを破ったのは梓さんだった。時計を見るとたしかに彼女の退勤時間となっていたから上がらなければいけない。が、できることならこの空間に僕たち二人を残さないでほしい。
いつも以上に颯爽と出ていってしまった梓さんをなんとなく目で追ってから、そのままゆっくり店内を見渡す。タイミングが良いのか悪いのか。残っているのは僕たち二人だけだった。


「ごちそうさまでした。今日はもう帰るね」
「名前、もう遅いから送っていく」
「え?大丈夫だよ。家すぐそこだし」
「いいから。ちゃんと待ってるんだぞ」


大丈夫なのに、と。ふわっと帰ってしまうことも考えられたのでもう一度だけ釘を刺しておく。そんなに言わなくてもわかってるから大丈夫だよ、という言葉が一番大丈夫じゃない気がする。
今日は元々お客さんもそんなにいなかったので早々に閉め作業を行い、いつでも帰れるようにしておく。名前には先に車のところに行くよう伝え、鍵を渡す。いつどこで見られているとも限らないから細心の注意を払わなければ。そこに行くまでに何もないことを祈りながら表の看板をCLOSEにして、自身も早々に店を出る。


「そんなに慌てなくても平気なのに」
「あんまり遅くなると明日の仕事に支障が出るだろ」
「あ、私明日休みなの。だから支障出るの零くんだけかも」
「平日に休みなんて珍しいな」
「うん。ちょっとデートしてくるんだ〜」


エンジンをかけようとした手が止まる。デート?明日?わざわざ平日に休んでまで?先程まで僕に片想い中だなんて言っておいて、実は全く違うんです、ということだろうか。
思えばいつもそうだ。彼女は誰とでも打ち解けられるから、仲良くなった男たちは自分のことを守備範囲内なのだと勘違いする。でも実際そんなことはなくて、好きなのかと問えば「お友だちだよ」と困ったように笑う。当然のようにそうだと思っていた自分もいたけど、やっぱりどこか不安になっていたのも事実だった。

何やら楽しそうに話している彼女の話が、上手く鼓膜の奥深くまで届いてくれない。


「……零くん聞いてる?」


聞いてはいる。脳がそれを処理してくれないだけで。しかしそんなことを彼女に言ったところで上手く伝わらないんだろう。そうやっていつも僕は彼女に振り回されてきたんだから。
あぁ、どうしようかな。このまま送り届けて別れても、きっともう眠れない。明日からまた公安の仕事が始まるというのに集中しきれない己の未来が視えてしまう。こんなに振り回され続けるなら。いっそ。


「行くなよ。デートなんか」
「え?」
「さっき僕に言ったのが本当なら、片想いなんかじゃないから」
「……待って零くん」
「もう待たない。ずっと好きだったんだから」


多分今後もう見られないだろう。こんな彼女の間の抜けた顔なんか。僕の言葉を聞いて何を感じているのか、空いた口は閉じられただ真っ直ぐにこちらを見ている。


「……なにから、ツッコんでいいのかわからないけど」
「……けど?」
「私、今度甥っ子とデートするんだよ」


たっぷり間を空けてから飛び出した言葉は、「は?」という何とも語彙のないものだったが、目の前の彼女は不可思議、とでも言うようにもう一度言った。甥っ子、と。そうなってくると今度は僕が呆ける番だった。えっと。つまり僕はいらぬ勘違いをして先走ったと。そういうことだろうか。


「でも、そっかぁ。零くん私のこと好きだったんだね」
「……いや。もう一回やり直したい。やり直させて」
「零くんもそうやって焦ったりするんだった思ったら嬉しかったから、やり直さなくていいよ」


なんだそっかぁ。片想いじゃなかったんだね。
にやにやしながら先程僕が言った言葉を噛みしめるような彼女に対して恥ずかしいやらなにやら。複雑な気持ちが入り混じる。べつに。焦ったりなんかしていない。そう言ってみたけど、笑って流されるだけで終わってしまった。あぁ。なんだ。結局またこうして僕は彼女に転がされてしまったのか。


「零くん」
「………なに」
「すきだよ。だいすき」
「………っ」
「今なら私の唇、空いてますよ?」


人差し指で名前自身の唇をトントンと叩きながらこちらを上目遣いで見るなんて。本当一体どこで覚えてきたんだ。これはちょっと叱らなければ、と思うほどに頭を抱えてしまったけど。結局その誘惑に乗らないという選択肢を取れないんだから共犯か。頭の隅でそんなことを考えながら彼女の頬に手を添える。かけようとしたエンジンの出番はもう少しだけ先。












あぁ、でも
そんなことないか

きみとの時間を共有するなら

ここじゃなくてもいいのだから


せっかくなら いつもの場所で

もう何回かリップ音を響かせようか










「そういえばこの前風見さんに会ったよ」
「風見に?どこで?」
「零くんの家の前」
「…………まさかとは思うが一緒に部屋に」
「入ってないよ。むしろ逃げられちゃった」
「は?」
「ねぇ零くん」
「ん……?」
「風見さんに何て伝えてるんだろうね?私のこと」








ブランディッシュの響きは現在進行系





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