心から感謝をこめて






人並みの幸せ。それを特段欲しいと思ったことはない。というのもこの界隈、明日どうなるのかもわからないというのが現状。五体満足で生き延びれば運が良かったと思ってしまうぐらいに、不安定な未来。その中で自分の役割とは一体何か。一度、いや何度も。考えてみたけれど答えが出たことはない。けれどそれは自分だけではないはずだ。他にも多くの呪術師がおり、自分のような年齢の者もいれば……もっと幼い、学生の者まで。数多くの未来が用意されているというのに何故あえて、このような茨の道を通るのか。……しかしそれは、過去の自分にも言ってやりたい言葉でもある。呪術師なんてロクなものではないから、ならないほうがいい。そう、忠告してやりたい。





「ただいま」


玄関を開け、日課のように挨拶を。毎日繰り返し行う動作に特に意味はないとも思うが、やらない理由もない。それに今は、ちゃんとその言葉に返してくれる人がいる。


「おかえりなさい!」
「おとーさん、おかーりー!」


靴を脱いで振り返った瞬間、身体にかかる二人分の重み。二人分と言っても一人は大した重量もなく、足元にひっついているだけなのだが。
結局そのまま二人とも抱き上げて中に入る。おとーさんちからもち!とキラキラした目でこちらを見ている小さな存在と、同じようにキラキラはしているがとても幸せそうに笑う存在。どちらも愛おしく私自身の顔まで緩んでしまう。あ、建人さん嬉しそう。そう言ってまた笑う彼女の額に唇を寄せ、至近距離でもう一度。「ただいま」と。


「今日帰ってくるの早かったんだね」
「今はそこまで忙しくないので」
「おとーさーん!いっしょにおふろー!」
「今日はお母さんと入ろ?お父さん疲れてるから」
「やだー!きょうはぼく、おとーさんとがいい!」


いつもおかーさんとはいってるから、きょうはおとーさん!そう駄々をこねる息子を見ながら正直ちょっと、羨ましいと思うのは大人気ないだろうか。いつも定時で帰れるわけではない。子どもの時間に合わせて入浴してしまう名前とお風呂に入ったのは、いつが最後だっただろう。そう考えてしまうと、いつも彼女と入れている我が息子にちょっとした嫉妬心が芽生えてしまう。


「それじゃあ、おいで」
「えっ。いいの?」
「その間にご飯の支度をお願いしても?」
「それはもちろん……。ありがとう」


別にお礼を言われることではないのだが。そう思ったけどやはり彼女なりに申し訳無さを感じてしまったのだろう。近付き、息子の目を盗んで一度、二度。口づけてしまえば少しだけ頬を赤らめた名前と目が合う。結婚してからだいぶ経つというのに彼女はまだ初々しいままだった。
浴室から私を呼ぶ声がする。動きが活発な息子はきっともう服を脱いで準備万端なのだろう。今行きます。そう声をかけてから甘ったるい空気が流れているリビングをそっと後にした。







「久しぶりに建人さんとお風呂もご飯も出来て、嬉しかったんだね」


そう言いながら息子を抱き上げる彼女はどの母にも負けないくらい愛情に満ちた目をしていた。それを見て、胸の内側が熱くなる。まさか自分がそんな感情に包まれることになるなんて思ってもみなかった。それが率直な感想。
一度お部屋に行ってくるね、と。息子をヘッドまで運んで行こうとする彼女の裾を掴む。不思議な顔をしてコチラを振り返る名前に、今日は私が、と。息子の体をそっと抱き上げ布団まで連れて行く。いつも三人で寝るベッドだから、息子一人だけで使うと随分と広く感じる。穏やかな寝息のその向こうで、一体どんな夢を見ているのだろうか。

リビングに戻るとワインのボトルとグラスが二つ用意されていた。が、肝心の彼女の姿がない。


「あ、ごめんなさい。軽くお風呂入ってきちゃった」


今髪の毛乾かしてきちゃうね。そう言って再び自分の前から姿を消そうとする彼女を引き寄せ、ソファに座らせる。何が起きたのかよくわかっていない名前の髪にかかっているタオルを掴み、優しく拭いていけばようやく理解したようだ。かなり久しぶりの感覚に、目を閉じて気持ち良さそうにしているのがわかる。何も映っていないテレビに、その様子が映っているから。


「今日はサービスいっぱいだね」
「たまにはいいでしょう」
「お仕事、大変なんだから別にいいんだよ」
「それを言うなら、貴女だって家事育児で大変でしょう」


家にいるからといって、決して楽に過ごしているというわけではない。むしろやることがたくさんあって大変なんだということは理解しているつもりだった。
結婚して、五年。初めは『結婚』なんてするつもりはなかったのに。それがどうだろう。今では子も一人授かっているというのだから過去の自分が見たら卒倒するかもしれない。灰原が生きていたら、驚きすぎて泣いてしまうかも。けれど仕方ない。それだけこの女性に惹かれてしまったのだから。手を、離したくないと思ってしまった。もうその時点でこうなる運命だったと思わざるを得ない。

ドライヤーである程度乾かした髪に指を通す。出会った頃と何ら変わらない、サラサラとした綺麗な髪。名前はあの頃から変わらず、愛情に溢れている。


「名前」
「なあに?」
「弟か妹が欲しいと、風呂場で言ってました」
「…………え?」
「期待に応えてあげましょうか」


同じ香りが漂う髪の毛に唇を添える。鼻から入ってくるそれが堪らなく愛おしく、止まらなくなりそうだ。


「……起きないかな」
「あの大きなぬいぐるみ、置いておきますか」
「ダミー?」
「ダミーです」


有言実行。あの子が生まれた時に名前の両親からもらった大きなイルカのぬいぐるみをそっと横に置く。それを母か、それとも父か。どちらかと思ったのだろうか。ぎゅっと抱きしめうっすらと笑みを浮かべている息子の愛らしさといったら。いつの間にか後ろにいた彼女も同じことを考えていたのだろう。かわいいなぁ、と。呟きながら微笑んでいる。
けれど可愛さで言ったら、貴女も負けてない。そんな歯の浮くようなセリフは残念ながら言うことはできなかったけど。代わりに、ソファに沈むその身体に。たくさんの愛情を注ぎ込むから覚悟しておいたほうがいい。それもこれも、こちらを甘く煽る貴女が全て悪い。







「そういえば七海のとこ、二人目生まれるんでしょ?」


おめでと〜と拍手を贈ってくれる先輩に軽く会釈で礼を返す。というかこの人、一体どこからそういう情報を仕入れてくるのだろう。第一子の時もそうだった。まだ誰にも言っていないのに「七海オマエ、父親になるんだろ?」と両手いっぱいのプレゼントを渡された時は流石に何故、という気持ちのほうが強かった。僕なんでもわかっちゃうんだよ〜。ではない。


「毎回思うんですが、何で知ってるんですか」
「だから僕」
「そういう回答は求めてないので」


被せるように声を出せば拗ねたように口を尖らせるこの男。本当に自分より年上なんだろうか。時々本当にわからなくなってしまう。


「七海。僕はね、ただ嬉しいんだよ」
「はぁ」
「オマエが誰かを愛して、誰かに愛されるってことがさ」


そう言って少しだけ口角を上げた五条さんは、なんとなく。なんとなくだけれど、昔の夏油さんによく似ていた。誰かを想い、慈しむ心を持っていたかつての先輩に。毎度毎度、この人には振り回されっぱなしだし、なんなら先程の回答も正確には得られたわけじゃないけれど。それでもまぁいいか、と。思ってしまうぐらいには価値のある言葉だった。


「っていうか七海ほんと、ムッツリだよね」
「はっ倒しますよ」







秋風が木の葉を舞い踊らせる。そんな季節に娘が生まれた。……というのも三年ほど前になるが。兄となった息子は甲斐甲斐しく妹の面倒を見ており、今日もまた、庭で二人、ゆっくりと散歩を楽しんでいる。よく『兄が我慢をする』というのを耳にするが、我が家ではそういったものは関係ないように思う。それも全て妻が子ども一人ひとりを尊重しているからなのだろう。「お兄ちゃんなんだから」という言葉を聞いたことがない。むしろ「今日はお兄ちゃんタイムだよ」なんて言って甘えられる時間を作っている。そんな子どもたちに囲まれている彼女の「建人さん」という声が、あまりにも優しくて胸に響く。


「ぼーっとしてどうしたの?考えごと?」
「だいぶ冷えてきたから何か羽織る物があったほうがいいかと」
「それなら私取ってくるよ」
「いや、私が行きます。名前は子どもたちを見ててください」
「うん。わかった」


お願いします。そう言いながらも視線は前に向き、二人で遊んでいる我が子を眺めて微笑んでいる。
薄手のカーディガンを二枚。少しだけ厚めの上着を一枚。カーディガンは縁側に置き、上着は彼女の背中へ。つい最近まで風邪をひいていた名前にとってみればこの冷ややかな風は毒だろう。ありがとう、と。今度はこちらにも笑みを向け、私の肩に頭を乗せる。温かい。そう呟いた彼女の頬は少しだけ冷たかった。少しだけ間を空け、額と頬に口づけを。体温が高い私の温度が移ればいいと思いながら唇にも一度だけ。


「ぱぱとまま、なかよしさん!」
「あいかわらずラブラブだね。お父さんとお母さんは」


少しだけ口が達者になった息子と、話が成立するようになった娘。そんな二人の目の前でキスするぐらいならと日常に盛り込んだのはつい最近のことだった。子どもたちはそれを見て恥ずかしがることもなく、『父と母は仲が良い』という認識でいてくれるので何も困ることがない。


「この前五条のおじさんが言ってた。二人は前からラブラブだったって」
「……会ったんですか?」
「ほら、この前建人さんが任務に出ている時に。帰ってくるの待ってたみたいなんだけど、その日残業になっちゃったから」


そういえば先日「今度七海の家行くね!」と言っていたような気がする。結局その日は帰宅したのが深夜だったし、会うことはなかったのだが。


「だってお父さん、ボクが生まれる時すごい嬉しそうだったから『これは何かある』と思ってお母さんに聞いたんでしょ?五条のおじさん」
「は?」
「『オサカンだったんだよ』って言ってた!」
「あ、あの……」


しどろもどろになりながら何かを言おうとしているのがわかったが、なるほど。つまりあの時五条さんが知っていたのはそういうことだったのか。長年の疑問がまさかこんなところで解けるなんて。しかも自分の息子の口から。


「あまり外でそういうことは言わないように」


しかし、そういうことをこんな幼い子どもの前で言うなんて本当に気が触れているんじゃないかと疑ってしまう。とりあえず明日、五条さんに会ったら一発ぶん殴っておこう。貴方のせいで子どもたちが余計な言葉を覚えてしまったこと、どう責任取っていただけますか?と。











雲一つない 青い空

穏やかな笑い声が聞こえる
この空間に

私がいて

貴女がいる


そして

かけがえのない存在



それがどんなに幸せなことか


アナタにおわかりいただけるだろうか












「ちょ、七海ストップ!!」
「言い訳は後で聞くかもしれません」
「聞かない選択肢もあるの!?」
「子どもたちに変なことを吹き込んだのと」
「………と?」
「私のいない時間に妻と会ったことの、二発」
「理不尽!!」







そんなの知ったことではないと嘲笑う





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