心から感謝をこめて






このまま目が覚めなければいい。
完全に覚醒してしまった頭でそんなことを考える。――目を、開けなければ。この時間を切り取れるような気がしてならないから。所詮、無駄な足掻きだと言われても……もがき続けていたい。……あぁ、嫌だな。少し離れた所で煙草の匂いがする。彼は、起きてしまったのか。
おはよう、と。声をかけるべきなのかな。そう思いつつも声を発するところまでは出来ていない。だってそうしたら……私が『起きている』ということがバレて今日が終わってしまう。まだ日が登っていない窓の外の空気を感じながら、やっぱりそんなくだらないことを考えている。


「起きてんだろ」
「………………なんでわかるの?」
「職業柄」


ここで『名前のことなら何でもわかる』とか甘いセリフが飛び出てこない辺りが、なんとも彼らしい。そうだよね。松田くんは警察なんだもの。私の狸寝入りぐらいすぐに見抜いちゃうのは当たり前か。
ゆっくりベッドから起き上がる。ギシ……ッという音が部屋の中に響いたのは、この建物が古いからかな。そう考えても答えはわからない。だって、私はここが築何年だとか全然知らないもの。飛び込みで入った、ホテルのことなんて。


「オマエ、今日仕事は?」
「私はお休みだよ。松田くんは?」
「俺はある。いいな、休み」
「……松田くんも休んじゃえば?」
「ばーか。んなこと出来るわけねぇだろーが」


何言ってんだ、みたいな表情で、笑いながら煙草を加える。少しだけ遠くにいる彼と私の間に出来ている溝は、そのまま私たちの関係を表現しているみたいだ。


(いつから、こんな関係になっちゃったんだっけ)


天井を仰ぎながら過去を振り返る。
当時付き合っていた人と別れた日に高校時代の友人である松田くんと再会し、次の日が非番だという彼のお言葉に甘えずっと抱えていたモヤモヤを吐き出していた。今までワガママも言わず我慢していたのに。連絡だって本当はもっと欲しかった。服だって、髪だって。あの人が好きだというものに近づけていたのに。そんな止まることない愚痴は、終電を逃しても尚続いていた。お客さん、もう店じまいですよ、と。言われるまでずっと。
あとはもう、行く所なんて一つだった。終電がない二人が行く所なんて……そういう所しかない。

あの日、彼が「名字?」と声をかけなかったら始まらなかった私たちの関係は、現在進行系で続いてしまっている。不毛だ。そうは思いつつも自分からは手放せないでいるのだから本当にどうしようもない。


「おい。もう少ししたら行くぞ」
「あ、うん」


いつの間にか着替えていた彼に促され、時計を見る。なんだ。もうそんな時間か。わかった、とだけ伝えてシャワーを浴びにお風呂場に向かう。彼を横切った時に鼻を掠めた煙草の香りは、無性に恋しくなるものだったけど。いかにも『なんでもありません』みたいな顔をして通った私に、彼は何かを想ってくれるのだろうか。







「アンタそれさぁ……完全に遊ばれてるよ」


カラン……と氷が浮かぶ。アイスティー。ちょっとガムシロップが多めだったかもしれない。
目の前で私よりも憤慨しているのは大学時代の友人だ。例の元カレのことも存じ上げており何度も相談したことがある。ほんっと最低な男に捕まったよね!!と怒り狂っていた彼女が、続けざまに聞いた私の話を聞いて呆然としていたのはもう随分前のことになる。


「最初は、名前がいいならそれでも……って思ったけど」
「……うん」
「もう、その関係2年になるんでしょ?」
「え、そんなになる?」


2年……。2年?
繰り返し出てしまった言葉を拾った彼女は「把握してなかったの?」と呆れたように私を見る。でも。だって。そんなに経ってるなんて本当に思わなかった。つまり私は、周りの女の子たちが恋愛だなんだと楽しんでいる間の時間を棒に振っていたということか。頭を殴られたような、は言いすぎかもしれないけど、体の芯を叩かれたような大きな衝撃が私を突き上げたのは確かだった。
もう、いい加減に目を覚ましなよ。そう言って私のことを本気で心配してくれている彼女は3ヶ月後に結婚式を控えている。幸せの真っ只中にいる友人からそんなことを言われれば、さすがの私もマズイと思い始めた。


「とりあえず新しい出会いからどう?旦那の友だちで一人彼女が欲しいって言ってる人がいるんだ」


すごく優しい人でね、常識もあるんだよ!
私の気を引く為に必死に続けられた言葉に笑いながら頷く。ここまで心配してくれている友だちがいるのに、私は何をやっているんだろう。そう思ったら今まで燻っていたのが嘘みたいに止まっていた針を突き動かす。わかった。お願い。その言葉を聞いた彼女が嬉しそうに頷いたのを、私はしばらく頭から消すことができなかった。







よくよく考えてみれば、セフレに近い関係だったのかもしれない。そう思ったのはやっぱり友人の言葉がきっかけだったけど、私自身も疑問に思っていたこと。「彼の家に行ったことあるの?」というストレートパンチは思った以上に鳩尾に入ってしまい、むせ返る程苦しくなったのは言うまでもない。
そう。私は彼の家に足を踏み入れたことがない。一度も。本当にあるんですか?と聞かれても、その存在を知らない私は『たぶん』としか言えないのだ。
もしかしたらちゃんと付き合っている人がいて、その人と一緒に住んでいるのかもしれない。だから……私は外。彼女は内。そんな構図ができているのだ。そして一度そう思ってしまうとこの感情があまりに重く、苦しい。そう感じてしまう。


(それならいっそ。蓋をしてしまえばいい)


初めからなかった。彼を慕う心なんて。そう思えば幾分か軽くなる。きっとこのまま私が連絡しなければ彼がすることはないだろうし、自然に消滅するだろう。……付き合ってもないのに自然消滅なんて。ほんと、私ってバカだなぁ。


「大丈夫?」
「……あ、大丈夫です!」
「疲れたらちゃんと言ってね」


ぼーっとしていただけなので大丈夫ですよ。そう返せば「良かった」と微笑む彼は、以前友人が紹介してくれた例の人物だ。

彼は彼女の言う通り、すごく優しい人だった。こちらのことをしっかりと考えてくれているし、細かい所もちゃんとエスコートしてくれる。なんでこんな素敵な人に付き合っている女性がいないんだろうと本気で考えるほどだ。……だというのに。

(松田くんのことなんて考えている場合じゃない)

せっかくのデートだというのに、雰囲気をぶち壊しにするようなことを考えていてはいけない。この逢瀬は私にとってとても意味のあるものなんだから、集中しないとそれこそ無駄になってしまう。

もうやめたのだ。何もかも。

彼のことを考えるのも
彼のことを想うのも


「……名前?」


だからこういうドラマみたいな場面に遭遇してももう動じない。そう、思ってたのにな。


「名前、なにしてんのオマエ」


たったそれだけの言葉なのにどうしてこんな、鎖で繋がれてしまったかのように動けなくなってしまうのだ。何も悪いことなんてしていないのだから堂々としていればいいのに。
けれどそんな心理状態なんて全くわかっていない松田くんは仁王立ちで私の前に立ち、ただでさえ切れ長の目をさらに細めてこちらを睨んでいる。しかもスーツ姿なのを見ると、もしかしなくても仕事中なんじゃないだろうか。


「松田くん仕事中なんじゃないの」
「うるせぇ。今何してんのかって聞いてんだよ」
「……見て、わかるでしょ。デート」
「………………あ?」


まわりの温度が急に氷点下になったかのような、ドスの効いた低い声。この声は知ってる。学生の時喧嘩を吹っかけられたり、理不尽なことを言われた時に出る松田くん特有の声だ。マズイ。本能的にそう思った時にはすでに遅く、私の反射速度を上回る勢いで掴まれた腕。


「……ふざけんな」
「まずその腕離しなよ」
「おめーとは話してねぇ」
「君のこと知ってるよ。名前ちゃんのこと遊び相手にしている例の男でしょ?」
「俺はオマエのことなんて知らない。まず第一に、コイツのことを名前で呼ぶんじゃねぇよ」

大きくて、綺麗な指だな。見当違いなことを考えながら、ある意味で当事者じゃない人のような目線で事の成り行きを見守る。私が間に入って止めてしまったら火に油を注ぐことになってしまい、逆効果になることはわかっていたから。でも、この状況をこのままにしておくわけにもいかない。どうしよう。誰か呼べばいいんだろうけど誰を呼べばいいの?まわりにギャラリーも集まってきてしまってもはや恥ずかしい。そのせいもあり。だんだんと思考能力は鈍ってしまう。


「ちょっと陣平ちゃん!何してんの!」
「うるせぇ萩。黙ってろ」
「はぁ……?……って、あれ?名前ちゃん?」
「萩原くん……!」
「こうして会うの久しぶりだねー!高校の時以来?相変わらず可愛いなー名前ちゃん!」
「えっ」
「松田がよく話してるんだよね、名前ちゃんのこと。だから元気なのは知ってたんだけど」


突然の萩原くんの登場にも驚いたけど、それ以上にその彼の爆弾的発言に目を白黒させる。私の話を?松田くんが?いやいやありえないだろ、と疑い半分で飲み込もうとしたのに、「ややこしくなるから黙ってろっつってんだろ!!」と怒鳴る彼を見て、あ、コレ本当のことだ。と妙に納得してしまったのは無理もないだろう。
まぁ一旦その手離してあげなよ。そう告げた萩原くんの言葉を受け止めたのか、ゆっくりと離される綺麗な手。それを少し残念に思っている私は、やっぱりどこかおかしいのかもしれない。


「……仕事終わったら行くから」
 

それだけ言い残して松田くんは萩原くんとどこかへ行ってしまった。仕事に戻ったのだろうか。雑踏に紛れ込んでしまって、二人の姿はすぐにわからなくなってしまった。
いや。この状況で残されても。と心の底から思ったけど。恐らく隣に立っている彼も同じことを思っていたのだろう。なんとなく気まずい雰囲気のまま一緒に映画を観て、ご飯はまた今度にしましょうということになった。私が悪いわけじゃないと彼は言ってくれたけど、この状況を生み出したのは私だからやっぱり申し訳なくなってもう一度だけ謝った。こんなに優しい人、他にはいないかもしれない。





負の感情を抱きながら過ごす時間は体感的に長く感じる。バラエティ番組で話していた専門家の言葉に、それでも時間は誰しも平等だよ、と思った自分。あまり人生の中でそういった現場に立ち会ったことがないから言えていたんだろうな……。やはりそんな、どこか他人事のように考えている私を見てさらに眉間のシワを深く刻んだのは、他でもない松田くんだった。
「仕事終わったら行くから」の宣言通り、彼は私の家を訪れズカズカと中に入ってきた。いや、一応ここ女性の部屋なんだけど。そうツッコミたくなる程堂々と入ってきた松田くんに、ある意味かける言葉が見つからない。そもそもよく私の家知ってたな。


「前に一度、オマエが酔いつぶれたからここまで運んできたことあったろ」
「……そうだっけ」
「ちゃんと覚えとけよ」


そしてその会話を最後に、現在進行系で沈黙を貫いている。二人で座り込み、面と向かっているのに話すことが見つからない。そう。そもそも話すことがないのだ。別に私たちは身体だけの関係で、付き合ってすらいない。それなら私が新しい恋愛を始めようとしたって彼には関係ないはずなんだ。なのにこんな、怒っているような感情ぶつけられたら。


「俺は」


ようやく、彼の口が開く。正直何を言われるのかわからなさすぎて変に緊張してしまう。でももしこれで、わざわざフラレてしまったらどうしたらいいんだろう。自分から蓋をするのとは訳が違い、抉られてしまった傷はなかなかに治らない。それがわかっていたから、先手を打ったというのに。


「名前が好きだから一緒にいたのに、オマエはそうじゃなかったってか」
「………………ん?」
「たしかに始まりはあんなだったけど、ぶら下げられたチャンスに飛びつかないほど俺は臆病じゃない」
「待って。いや、待って」
「なんだよ」
「私たち、って……セフレじゃないの?」
「………………はぁ!?」


いや、そのセリフは私が貴方に返したいのよ。突然流れ込んできた言葉の数々に、たまらず「はぁ!?」と言ってやりたいのは間違いなく私の方なのだ。何言ってんだオマエ。みたいな顔、やめてもらっていいですか?


「だって、松田くん一度も好きとか付き合おうとか言ったことない。……よね?」
「………やっぱ覚えてなかったのかよ……」


絶対忘れない、とか言ったのはどの口だ?と頬を掴まれて伸ばされているが、そんなこと言われてたらこんなに悩んでないのよ。だから。
そう必死の思いで松田くんに伝えると、ポツポツと話してくれたのは出会って5回目のこと。その日も結構呑んだ後にホテルに入ったらしいんだけど、何故か彼は急に「このまま何も言わねぇのはさすがに男としてダメだろ」と思ったらしい。だから……好きだって。言ったんだって。
その時に私は「絶対忘れない」と言ったらしいんだけど。どうしよう。全く覚えてない。そんな大事なこと言われて忘れるなんて、普通に考えてありえない。

でもじゃあ、なんで家に入れてくれなかったの。長年の悩みを彼に投げかけるとたった一言「寮だから物理的に無理だろ」と返されてしまった。なるほど。寮。


「たしかに言ったタイミングがマズかったのは否めない」
「……。や、ちょっと待って。まだ心の準備が……っ」
「待たない」


そのまま腕を引かれて彼の胸に飛び込んでから、そっと重なるだけの口づけ。一度だけの、長い長いキス。穏やかに流れている時間があまりにも苦しくて、涙が出てしまう。それぐらい、静かなキスたった。


「俺から離れんな」


付き合って。とか。
これからも一緒にいよう。とか。
そういう言葉を選ばないところが彼らしいと思ったし、あまりにも愛おしかった。
ごめんなさい。私はやっぱり、どうしても彼じゃなきゃダメみたいです。せっかく蓋をしたのに、それをこじ開けてくる人だけど。それでもこの人の隣で笑っている自分が、きっと一番好き。


「……今度こそ、絶対忘れないから」
「これで忘れたらさすがにヘコむ」


どこからともなく出た笑い声が重なった時、グッドなのかバッドなのかわからないけどそんなタイミングで鳴ったのはお腹の音。そういえばまだ何にも食べてなかった。どうやら彼も同じなようで音がやけに大きかったのは二人分だったかららしい。
今家にあるの素麺だけなんだけど。自分の女子力の低さを露呈しているようで若干悲しくなったけど、それでも「いいな、素麺。いろんな麺つゆ作ろうぜ」と言ってくれる彼がいるからこの際低くてもなんでもいい。








白い糸にたくさんの着色料
それでも着く色は全てじゃない

それならアナタはどの色を手に取る?


私ならもちろん

たった一つの赤い糸しか選ばない








「なんか意外とレシピあったね」
「そーだな。トマト系多くなかったか?」
「やっぱり夏だからかなぁ……」
「同じ夏なら汗かく方でもいいかもな」
「松田くん食べられるの?」
「当たり前だろ。ほら、こいよ」
「え?」
「俺がぜんぶ食ってやるから」







食欲旺盛な君には待ったナシ




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