心から感謝をこめて






どうしていいかわからずに困り果てていたのは、あの瞬間私だけだった。そらした視線は興味もないお店の『この秋オススメ!落ち着いた栗色カラーで季節を楽しもう!』というポップで止まり、そこからしばらく動くことができなかった。
もう行っただろうか。けれどそれを確かめる勇気は持ち合わせていなくて、来た道を戻っていくことを決めた私は少しだけ足早にその場を去った。店内に入ろうかとも思ったけどもしもそれで鉢合わせしてしまったら……と考えたら怖くてたまらなかったから、その選択肢はすぐに消えた。何もやましいことなんてしていないのだから堂々としていればいいのに。……そうやって、いつもならポジティブに考えられていた私はいとも簡単に迷子になってしまったのだ。

お互いに忙しいからすれ違っちゃうね。
そんな会話をしたのすらいつだったか覚えてない。けれどあれはまだ互いに『恋』というものの楽しさを肌で感じていた時だったように思う。好きだと言って。キスをして。それ以上のこともして。一つ一つに心臓を高鳴らせていた。こう言ってしまうと今ではもうそうではないのかと思われてしまうかもしれないけど、そんなことはない。私は今でも彼を見るとドキドキしてしまうし、好きだと思うし、心臓は高鳴り続けている。でもそれは、一方的な話だったというわけだ。


「………浮気?松田が?」
「私もまさかなぁって、思ったんだけどね」


相談したいことがあるんだけど、ちょっとだけ時間作ってもらえないかな。私の突然すぎるその連絡に何事かと思ってくれたのか、諸伏くんはすぐに来てくれた。彼も陣平と同じ職種だけあってかなり忙しいはずなのに。ごめんなさい。まず最初にそう謝れば優しく「大丈夫だから顔上げて?」と声をかけてくれる彼に涙が出そうになる。
私の話に怪訝そうな顔をしながら頷いていた彼は、一度深く考えるように目を閉じた。松田に限ってそんなことするかな。小声でボソボソと呟いていたがしっかりと私の耳にも届いていた。陣平に限ってそんなこと。でもそれは私だって何度も考えた。何日も考えて、結局堂々巡りになってしまったから助けを求めたのだ。


「潜入捜査があったとかじゃなくて?」
「そういう捜査あるって、言ってた?」
「……オレは、聞いてないけど」
「……そっか」
「でも課が違うからね。松田には聞いたの?」
「……聞いてない。どうやって聞けばいいのか、わからなくて」


この問題があってから連絡を取っていない。というわけではない。もうしばらく彼とは連絡を取っていなかったし会ってもいなかった。何日も何日も。会いたいって苦しくなっていた時に見た光景だったから余計にショックだったんだ。私の知らない女の人とホテルに入っていく陣平を見るなんて。


“今日女の人とホテルに入っていくの見たよ”


随分と楽しそうにね、って。
そんなふうに言ってやりたいとも思ったけど、言って傷つくのは間違いなく自分自身。それを送って、もしも最悪な事態が起こってしまったらそれこそ耐えられる自信がなかった。……いや。もうすでに最悪な事態の真っ只中か。


「………名前ちゃん」
「……っ、ごめ……っ」


何度も夢に見る。あの二人がホテルに入っていくところを。今日も無事かな。怪我してないかな。早く会いたいな。そうやって次に会える日を楽しみにしていたのに、蓋を開けてみればなんてことない。私が独りで踊り続けている舞台でしかなかった。相手役である陣平は、別の舞台に行っているのにも気づかないで。


「泣かないで……っていうのは、無理だろうけど」
「……ううん。ごめん、忙しいのに」
「名前ちゃん」
「……ん?」
「苦しいかもしれないけど、ちゃんと松田に聞いたほうがいいと思う」


きっとこのままじゃ同じ考えの繰り返しだから。そう話す諸伏くんの目が、真っ直ぐに私を射抜く。わかってる。こんなふうに誰かを頼ったところで、最後はちゃんと聞かなければならないことくらい。けれどもしそれで「そうだよ」なんて言われたら?「アイツのほうが好きなんだよな」なんて。言われてしまったら。そうやって一度傾いてしまった思考は止まることなく一気に下っていってしまう。止まれと願っても、そこに私の意思は届かない。
私の目に溜まった涙が、ふと止まる。伏せていた視線を上げると、やっぱり困ったように笑いながら私の目尻にハンカチを当てている諸伏くんと目が合う。泣いたら松田が悲しむよ、という言葉が正しいのか正しくないのかはもうわからないけど、その優しさがただ嬉しかった。


「あ、まだ使ってないハンカチだから!」
「え?あぁ……。気にしてなかったや。ハンカチ、洗って返すよ」
「いや、いいよ。汚れたわけでもないし」


涙をふいたそのハンカチをそのままポケットに入れた諸伏くんはそのまま店員さんを呼ぶ。そろそろ彼と話して一時間は経つから、タイムリミットが近づいているのだろう。あぁでも。少しだけでも吐露できたのはよかったのかもしれない。ここに来るまでよりも、心がほんの少しだけ穏やかだ。


「とにかく松田と話してみるんだよ」
「……うん」
「それでもダメなら、また話聞くからさ」


約束。そう言って指切りを交わした私の心に、小さな勇気が灯ったような気がした。







今の心情に一番近い言葉ってなんだろう。そんなことを考えながら天井をぼーっと見つめてみたけど、答えは浮かばず。ただ時間だけが流れていっていた。

結果だけ言えば、まだ何にもアクションを起こしてはいなかった。諸伏くんと話してから三日。メッセージを送るためのスマホは机の端っこにあり、充電があるのかどうかもわからない。昨日の昼から何の通知音もしないからもしかしたら切れてるかも。なんとなく状態を把握しておきながら動けないのは私の意思。無駄にある四連休のおかげで仕事関連の連絡が入ることがないからスマホをイジらなくても困らない。そんな現状に感謝しつつゆっくりと起き上がる。
テレビをつける気力もなくとりあえずそのままキッチンへ。元気がなくともお腹はすくのだから、存外私ってタフなのかも。自嘲気味に笑いながら冷蔵庫の扉を開ける。たしか冷凍していたご飯があったはずだから、久しぶりにオムライスでも作ろうかな。卵もまだある。そうと決まればまずフライパンを出さなければ。


「……おい」
「……………………?」


しばらく使ってない小さめのフライパンはどうやらキッチン下の収納棚の奥に入っていたようで、取り出す為に体半分突っ込んだ時何やら後ろの方で声が聞こえた。掴んだフライパンと共にそこから這い出ると、かなり怪訝そうな顔でこちらを見ている陣平がそこにいた。


「………えっと……?」
「……元気か」
「まぁ……見ての通り……?」
「なら、いい」


あんなに連絡することを躊躇っていたはずなのに、いざ本人を目の前にするとこんなにスルスルと言葉が出てくるものなんだろうか。新たな発見に驚きつつもそのまま中に入ってしまった陣平を追いかけるように続いていく。もちろん握っていたフライパンは置いて。


「携帯見たか?」
「……見てない」


というより、充電がない。けれどその情報が彼にとって必要なものなのかはわからなかったから、あえて伝えることはなかった。
私の答えを聞いて、何やら呟いているが上手く聞き取れない。なんだろう。彼は何を言いに来たんだろう。別れ話だろうか。……やだな。心の準備なんて全くできてないのに。


「名前」
「……うん」
「ごめん」
「……それは、別れたいって……意味かな」
「は?」
「え?」


何言ってんだみたいな顔して私を見つめる彼は、何度か瞬きをしてからもう一度呟いた。「は?」と。


「えっと。だって陣平、他に好きな人」
「はぁ!?…………いねーよ。そんなん。オマエ以外に誰を好きになれっつーんだ」
「いや、だってホテルに」
「潜入捜査」
「でも佐藤さんじゃなかった……」
「今回佐藤は別のヤマ抱えてたから交通課の奴借りたんだよ」


あんなうるせぇのと付き合える奴の気が知れねー。そうやってうんざりしながら話す彼は相手の女性を思い浮かべているのだろうか。眉間の皺が深く刻まれている。


「……ヒロから叱られた」
「諸伏くん、に?」
「名前のこと泣かして楽しいのか、って」
「えっ」
「アイツ、意外と毒吐くぜ」


あまりに印象がなさすぎて衝撃的だったけど、きっと嘘ではない。そう確信が持てるほど私の中では強い味方なのだ。諸伏くんという人は。あの話を聞いた後どういう経緯で陣平と話すことになったのかはわからないけど、一喝してくれたということにただただ頭が上がらない。ありがとう。今度会ったらちゃんとお礼しないと。


「悪かった。不安にさせて」
「…………っ」
「でも俺は、名前以外を好きになる気も、オマエを手放す気もないんだ」


今までそらし続けていた視線を、前に向ける。そんなふうに真っ直ぐに見ないで。とか。それじゃまるでプロポーズみたいだよ。とか。言いたいことは次から次へと溢れてくるのに、一つも言葉が出てこない。その代わりとでも言うように先ほどから溢れているのは涙ばかり。好き。大好き。私も離してほしくない。ずっと抱きしめててほしい。そんな独占欲の塊をぶつけられたら嫌にだってなるはずなのに、全部受け入れるように抱きしめてくれるから。余計に涙が止まらない。
キスもしてほしい。普段ならしないようなお願いに一瞬だけ驚いたような表情を見せたけど、私の要求はすんなり通った。
少しだけ日に焼けた顔が近づいてきて、そのまま触れた唇はちょっとだけカサついていた。でもとてもあたたかくて、やわらかい。矛盾した感覚があまりに愛おしくて何度も何度もせがんでしまう。


「……じ、っ……ん、!」
「変なタイミングで息吸うな。……呼吸困難になんぞ」


そうさせてるのは陣平なのに。けれどそんな文句は言葉にする前に飲み込まれてしまったから伝えることはできなかった。でも、そっか。私って思ってた以上に愛されてるんだなってわかったからもうなんでもいいや。
抱きしめられて密着していた体をもっと、とでも言うように回した腕の力を込める。ゼロ距離というよりマイナス。ほんと私って単純だなぁ。こんなことで嬉しくなるなんて。でも離れてから一番最初に飛び込んできた薄い水色の瞳が同じように緩んでいたから、きっと彼も同じようなこと考えてるんだと思う。


「……なぁ」
「なぁに」
「もっかい、キス」


それは本当に了承を得る必要があったのだろうか。私の返事を聞く前に重ねてきた唇は先ほどよりも深く、自然と舌を絡ませるようにして熱を渡してきた。お互いに夢中で、気持ちよさしか感じないようなキス。満たされていくっていうのはこういうことなんだろうなぁ。


「…………だいすき」
「……ばーか煽んな」


こういうちょっと子どもっぽいところとかを見ると思わず笑ってしまうけど、私も時々そんな感じだからお互いさまだね。とりあえずこの甘い空気を壊すようなお腹の音が鳴り始めたから、一緒にオムライスでも食べませんか?












世界でいちばん美味しいとは言えないけど



大丈夫


不思議としあわせを感じられるようには
なっているはずだから











「……ヒロ。おまえもしかして名前といた?」
「………なんでわかったの?」
「名前の匂いが、微かに」
「密会してたんだ……って言ったら、怒る?」
「……………………あ?」
「でもその前に、松田」
「てめぇ……!アイツに手なんか出してみろ……!」
「名前ちゃんのこと泣かして楽しいのか?」







何も知らぬ愚か者にチェックメイト





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