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仕事に疲れた。第一線で働くことに。そんなことを心の中で唱えたのは二十八という年齢だけ見たら働き盛りの時だった。朝早くから満員電車に乗って、会社ではひたすら書類整理やらデータ管理やら。時には貼り付けられたような笑みを浮かべながら営業をして、疲れた顔で布団に倒れる。化粧を落とさなければいけないという概念はいつの頃からか消えた。おかげで肌はボロボロだ。「お風呂に入ってからじゃないとお布団に入りたくないんだよね」と言っている友人がいたけど、私には到底真似出来ない。

そう考えていたのは、遡ること二ヶ月前。ボロボロだった肌はそこそこ回復して、今は年相応かそれより少し若いくらいには見えるだろう。睡眠の質もいくらか改善された。それもこれも、実家様々である。


「名前ちゃん、そろそろ慣れてきたんじゃないの」
「ふふ、そうですねぇ。おかげさまで」
「親父さんもこんな可愛い娘が隣で働いてたら嬉しいよなぁ」
「だって」
「見慣れた顔だからなぁ」
「失礼すぎる」


なんてことない穏やかな会話。OLとして働いていた頃には考えられなかったことだった。
二ヶ月前に突然帰ってきた娘から「仕事辞めたいんだよね」と言われた時、父はどんな気持ちだったのかはわからない。少しだけ考える素振りを見せてから、「じゃあ店手伝ってもらえるか?」と言った父は、どこか安心したように見えた。それはもしかしたら気のせいかもしれないと思ったけど、パートから帰ってきたお母さんが「お父さん、ずっとあなたのこと心配してたのよ」と教えてくれたから、あながち外れてもいないのだろう。そんな経由があって今は実家のラーメン屋を手伝っているというか、働いているというか。まぁそんな感じだ。私は基本オーダーや配膳しかしないけど、お父さんの作るラーメンを食べて「美味しい」と言ってくれる人の顔を見るのが好きだから意外と天職かもしれないと思っている。


「名前さん、チャーシュー麺と担々麺ってもうできてます?」
「チャーシュー麺と、担々麺……。あ、いつもの」
「そう、いつものです」


じゃあ俺配達行ってきますね。そう言って元気よく出ていったのは以前からいるアルバイトの男の子だ。確か大学三年生だっただろうか。二十歳そこそこの子だったと思うけど今時の子にしては珍しくしっかりしている。あれなら社会人になっても何も問題ないだろう。なんて。どこ目線かわからない物言いをしているけど、本当に良く出来た子なのだ。
そしてそんな彼が持っていったチャーシュー麺と担々麺は、今日も同じ人が注文したのだろうか。


「松川、一静……」


空いた時間に見た伝票に残された名前は、やっぱり前回と同じ人だった。
いつの頃からか、この人は同じ曜日に同じラーメンを頼むようになっていた、と。そう教えてくれたのはアルバイトの彼だった。いつも同じ味で飽きないんですかね。たしかにそれもそうだと思ったからだろうか、やたらとその会話が記憶に残っている。そしてその会話直後に私も電話注文を受けたのだ。松川一静と名乗る男から。


『チャーシュー麺と担々麺。一つずつ』


電話越しの声はやたらと落ち着いていた。……ように思う。噂の人からかかってきた電話だったからか私の方は変に緊張してしまって、ちゃんとオーダーが取れたかが定かではない。クレームなどは入ってないからたぶん大丈夫だったと思うけど、失態を犯してしまった感は否めない。
その日から私の頭の中では『松川一静』の声がこびりついてしまっている。たった一回しか聞いてないのに余韻がすごいなんて、きっと只者ではない。けれど残念ながら実物を見ていないので『松川一静』がどんな人物なのかというのは完成しないのだ。


「確かに目力強いですけど、普通の人ですよ」
「あ、そっか。配達の時に塩原くんは見てるもんね」
「そうですね。でも落ち着いてる雰囲気の人ですよ。やっぱり葬儀屋だからっていうのもあるんですかね?」
「そ、葬儀屋!?」


あれ、言ってませんでしたっけ。賄いの塩ラーメンを食べながらあっけらかんと言っている彼を見て、私は箸が止まってしまった。だって、葬儀屋って。特殊な職種すぎて驚いてしまうのもそうだが、そこへ平気な顔をして配達している君も君だとツッコミたくなる私は別に変ではないはず。やたらと落ち着く声で、落ち着いている雰囲気を纏う、葬儀屋の男性。これらの情報だけで人を構成することは難しいかもしれないけど、私の頭の中では勝手に出来上がっていた。きっと素敵なオジサマに違いない、と。いつか会いたいと願いながらも今は目の前の味噌ラーメンに集中しよう。ここの味は、伸び切ってからでは美味しくない。






さて。そろそろ再就職のことも考えなければならなくなってきた。このお店の居心地はいいけれど、いつまでもいるわけにはいかないだろう。私が父の味を引き継ぐ、とかなら分かるけど、そうではないのだから。きっとそれは、今も一生懸命父から教わっている塩原くんが担うのではないかとこれまた勝手に思っている。となると私は仕事を探さなければならない。……選択肢として。東京にもう一度出るか宮城に残るかのどちらかなのだけど。ここが一番の要素だけど一番のネックポイントになっているのだ。東京はお金がいい。けれど、その分もちろん大変なことが多い。それはよくわかっている。その反面、宮城は地元ということでいろいろなことに融通が効く。ただ賃金が少ないのだ。実家にいればいいじゃないかと思うかもしれないけど、そこは私の気持ちの問題でもあるのだ。


「担々麺お願いします」


お冷を渡したタイミングで入った注文は、担々麺。そういえば最近電話取ってないからこのワードを聞くのも久しぶりだな。そんなことを思い浮かべながら注文した人物の方に顔を向けると、何故かばっちりと目が合ってしまった。なんだかそらすことができなくて固まっていた私を見て、にこっと微笑む。


「ご、ごゆっくりどうぞ!」


そのままお冷の方に視線が戻った隙に慌てて厨房へと戻る。走ったわけでもないのに心臓がドキドキしてて痛い。え、なに。私何かした?あんなにじっと見つめられることも久しくなかったから免疫力が落ちているのだ、やめてくれ。そう思いながら厨房にオーダーを通した直後、配達から戻ってきた塩原くんが放った言葉によってさらに心臓は痛くなることになる。


「あれ?松川さん珍しいですね!お店に来ていただくの!」
「たまにはいいかなと思って」


今日は何もないから。そう話す声の主。……今、塩原くんは彼のことを『松川さん』と言ったか?聞き間違い?頭の中が大パニックを起こしている時に来た塩原くんの腕を咄嗟に掴んで「ねぇ!あの人松川って言った!?」と聞けた上に小声で話せたのは私にしてはファインプレーだったように思う。やっぱりあっけらかんと「そうですよ」と話すこの年下の男は猛者か何かなのだろうか。なんでそんな何でもないことかのようにしていられるのだろう。私にとっては、今目の前に想像でしか会ったことがない人物がいる。そんな衝撃的な瞬間なのに。

出来上がっていた担々麺を運ぶのはこんなに大変なことだったろうかと。そう思うくらいには足が重かった。決して嫌とかではないのだけれど、何故か無性にドキドキしてしまうのだ。目が合ったから?微笑まれたから?どちらにしてもそのくらいのことでこんなになってしまうなんて、という恥ずかしさも少しずつ湧いてきてしまう。お待たせしました。そう言って彼の前に置いた担々麺だけは、いつもと同じように美味しそうな湯気を出していたけど。


「あの、……松川さん、ですか?」
「はい、松川です」
「いつも、えっと。ありがとうございます」
「え?……あぁ。いえいえ」


ここの担々麺が一番美味しいから。そう話してお箸を取る動作でさえも綺麗で目が離せなくなってしまう。所作が美しい人って本当にいるんだ。


「よかったら、一緒に食べます?」
「へ?」


突然のお誘いに随分とマヌケな声が出てしまったけど、たぶん間違いではないはずだ、この反応。もしかして、ずっとここに立っていたから食べたそうに見えてしまったのだろうか。さすがに初対面でそんな食いしん坊のような印象を与えてしまうのはまずい。大丈夫ですと断ってから厨房の方に戻ろうとした私の足は、しかしそこでピタッと止まってしまう。


「名前さん」


名前呼ばれたような気がした。けど周りはお昼時ということもあって随分と賑やかだから、本当にそうなのかわからない。少しだけ。本当に少しだけ後ろに意識を持っていく。


「今度、俺と一緒に出かける時間……作ってもらえたりしない?」


名前を呼ばれたことはどうやら聞き間違えではなかったようだ。……でも。今度こそ聞き間違いなんじゃないかと疑ってしまう。だって今言われた言葉をそのまま飲み込んでしまうと、まるでデートのお誘いみたいじゃない。勘違いかもしれない。そう自分に何度か篩をかけないとすぐに頷いてしまいそうになる。

あぁ、でも。

またその微笑みを向けられたら頷くことしかできない。だめですか?なんて。言わせるつもりないでしょう。少しだけ彼を責めてみたけど、結局私は首を縦に振っていたんだから












まんまとらえられてしまったということ








「なんだ。名前今度松川くんとどこか行くのか?」
「な、なんで」
「今日仲良く話してたろう。まぁ母校も一緒で同い年なら共通点もたくさんあるからなぁ」
「……………ん?」
「ん?」
「母校が一緒?」
「名前、松川くんは青葉城西の子だよ?」






ヒメツルソバの花言葉を、キミに




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