HQ!!






なぁ。これあげる。

そう言ってこそっと手渡されたのは可愛い黄色のリップだった。なんでこれを私に?って思ったけど、あれやろか。そんなに唇カサカサしてるように見えとったんかな。試しに唇をひと撫でしてみたけどイマイチよくわからない。潤ってるわけやないけど、そこまでガサついているわけでもない。やっぱりよくわからなくて首を傾げてみたけど、とりあえず貰った物は貰った物。制服のポケットにしまって次の授業の準備を始めた。


「待って名前。それホンマなん?」
「なにが?リップの話?」
「それしかないやん!しかも……治くんから貰ったって」


移動教室だったので友だちとゆっくり歩きながら話していたのは先ほどあったことだった。しかしその話を聞いた途端血相を変えて小声で話し始めるのだからもうわけがわからない。今日はそんなことの連続である。


「アンタ治くん知らないの!?」
「去年同じクラスになったから知ってるよ。バレー部なんやろ?」
「そうだけど……そうじゃなくて!人気度の話!」
「人気度?」


はぁ〜とこれみよがしに深いため息を吐きながら「名前はホンマに興味ないことにはからっきしやなぁ」と残念そうに呟く。失礼な。私だって治くんの人気度ぐらい理解している。
宮治くん。彼はバレー部に所属していて、そこには双子の宮侑くんもいる。二人の人気は絶大で、一目見ようと他校からも女子生徒が押し寄せて来るほどだ。まぁ、興味がないというのは間違っていないので二人の情報についてはそれしか知らないし、それ以上知ろうとも思ってない。特に侑くんのほうはファンが過激だというのも聞いたことがあるから、下手に近づけば私の平穏な学生生活も終わってしまう。


「そんな治くんが名前にリップをくれたんやろ?」
「唇がガサついてたから不憫に思ったんやない?」
「そしたらガサついてる女子みんなに渡し回らないといけなくなるやん。ありえへんやろ」


その理論は一理あるが、だとしたらなんで?というところで話が進まなくなってしまう。だったら唇の問題やと思っとったほうが何も考えなくていい。


「この話、私以外にしたらぜったい!あかんからな」
「わ、わかった」


鬼気迫る勢いで肩を揺すられ、半分気持ち悪さを伴いながら頷いておく。それだけ重要なことなんやからな、と彼女は言うけど、本当にそうだろうか。ただの気まぐれで、それこそ何か景品で当たったから近くにいた女子に渡そうとか。あとは他のファンの子から貰ったけど使わないから流れ弾のように私に渡したとか。いろいろな可能性があると思うんやけど。ポケットにしまったリップを取り出し、眺めながらいろいろなことを考えていたせいで授業なんて一ミリも頭の中に入ってきてはくれなかった。 


その後、治くんから何かアクションがあるわけもなく、淡々と日々は流れていった。友だちから連日「何かあるかもしれん!」と言い聞かされていたけど、実際そんなに都合よく物事は進まない。そもそも私は治くんに対して好きだとかそういう感情を抱いているわけじゃないから、何かあっても困るのだけど。そうため息を溢した私の横を「今行ったら侑と治の名物喧嘩見られるって!」と嬉しそうにはしゃぐ女子生徒が通る。……あんなふうに彼らの行動を追うほど好きだったらまた話は変わるんだろうか。


「名字さん何でそんな浮かない顔しとんの?」
「え?治くん?」
「はい、治くんです」
「今体育館にいたんじゃないの?」
「あー、ツムとの喧嘩の話?北さんが来る前に逃げた」


北さんというのはバレー部の誰かなんだろうか。あまり飲み込めてない私に、北さんというのはバレー部の主将だよ、と丁寧に教えてくれる治くんはやっぱり侑くんよりも優しい。


「そういえば、あのリップ使ってくれてる?」
「……あれってやっぱり私が使っていい物だったの?」
「……いやいや。名字さんにあげたんやから名字さんが使わんと意味ないやん」


もしかしたら使う用途で渡された物じゃないかもしれないという可能性はここで絶たれた。
結局、渡されたあの日からどうしたものかと悩んでしまい使わずに未だポケットの中に入れっぱなしのリップ。もしまた彼と話す機会があったら聞いてみようと思ってたのにそんな機会はなかなか訪れなかったから随分と温まってしまった。


「……なんで」
「うん?」
「なんでくれたの、リップ」


使う使わないの前に、まずそこじゃないだろうか。近くにいたのが私で、気分的に渡したくなったのであればそれはそれでかまわない。でもよくよく思い出してみると、あの日。私の近くに治くんはいなかったはずだ。だってバレー部はミーティングをするから体育館に来るようにっていう放送が流れていたから。間違いなく彼は体育館にいて、私は一番離れた教室にいた。同じあげるなら、それこそ同じクラスの女の子にでもあげればよかったのに。あぁでもそうなったらその子が他の子たちから嫌がらせされたりするからということなんだろうか。


「さぁ。なんでやろうな」


これは、はぐらかされたんだろうか。微笑んだ彼からはこれ以上何も出てきそうにない。


「ところで名字さん、今週の土曜暇?」
「暇だけど……」
「練習試合あるから、来てくれへん?」


ここでまさかの新たな問題発生。私は今、治くんから練習試合の観戦をお誘いされているということでいいんだろうか。ここまでくるとこの行動に何か意味があるんじゃないかって疑ってしまいたくなるけど、たぶんそれはない。だったら、揶揄われているだけなんだろうか。


「まぁ気が向いたら来てな」


手をひらひらさせながら去っていく治くんは、その先の階段でもう女子生徒に捕まっていた。そんな、人気があるような人なのに。そこまで考えて何度目かの振り出しに戻る。


(まぁ、考えてもわからないか)


そういった次元の違う人が考えていることなんて、凡人の私がわかるわけない。人気者の気持ちは人気者にしかわからないのだ。昔から難しく考えるのは苦手だったのに、突然超能力バリの思考能力が手に入るわけない。今の私にできることは、家に帰って夜ご飯を食べることだけだ。







季節の変わり目とはいうけど、こんなに気温は下がるものなのだろうか。布団の中から見る天井が、いつもよりも遠くなるのは季節が秋になったから?


「何アホなこと言ってんの。単に熱出しただけやろ」


母からの正しすぎる指摘にぐうの音も出ない。おでこに貼られた冷えピタは残像ではなかった。しかも、よりによって今日熱を出すなんて……。壁に掛かったカレンダーの赤い丸印が虚しく輝いている。

今日は例の練習試合の日だった。行くかどうか悩んでいたけど、忘れたらいけないと思って一応赤丸をつけていたのに……。結局その甲斐も虚しくこんな状態になってしまった自分が少しばかり恨めしい。

気が向いたら来て、ということだったし、別に行かないからといって責められることでもない。と思う。治くんのことだから。(これが侑くんだったらどうだかわからないけど)幸いにも今日は土曜日。二日間しっかり休めば月曜日にはしっかり学校に行けるはずだから、その時に謝ろう。ごめんね。熱が出ちゃったから行けなかったの、って。

(あぁ、でも)

こんなに悔しいのはなんだか久しぶりだった。むしろ熱を出したことにもどかしさを感じるのなんて初めてのことかもしれない。いつもだったらゆっくり休める〜ぐらいにしか思っていなかったのに。


「早く、熱下がらないかな……」


目を閉じて、そう願う。次に世界が目に映る時には歪まないでくれますように。







……とう、……なのよ。

……丈夫で、……か。……同…す。

………わぁ!……名前も……ねぇ。

………上……ですか?



お母さんと、誰かの声が聞こえる。弟が外から帰ってきたんやろうか。お姉ちゃんは今日具合悪いから勉強は見てあげられへんけど、塾の宿題は自分でちゃんとやるんだよ。心で念じながらもう一度意識を底に沈ませる。先ほどより楽になったとはいえ、やっぱりまだ頭は痛い。


「ホンマに具合悪そうやな」


熱のせいで頭は最高潮に浮かされているらしい。弟の声ではなく、治くんの声がする。でも彼は私の家も知らないし、今頃は練習試合の真っ最中だからここにいるはずがない。……思えばいつもそうだな。ここにいるはずないって。そう思っているのに何故かいつも近くにいるんだから。本当に、不思議な人。


「せやろ?俺いつも名字さんに近づこうと機会伺ってん」


治くんが?私に?ないない。だって接点がなさすぎる。たかだか一年同じクラスだったというだけで仲良くなれるなら宮兄弟と仲良くなれる人がゴロゴロ溢れかえっているという状況になってしまう。


「べつに誰とでも仲良くするわけないやん。名字さんだからって、なんでわからんの?」


どことなく、拗ねたような言い回しをする治くんがなんとなく可愛いと思えてしまう。そうか。夢か。そしたらひとまず夢の中でいいから謝ってもえぇやろか。今日行けなくてごめん、って。


「そないな状態で来られるわけないやん。俺そんな鬼とちゃうで」


うん。きっと治くんならそう言ってくれると思ってたけど、でもやっぱり謝りたかったから。だからせめて、夢の中で予行練習させて。


「……なぁ、今どこにリップある?」


……リップ。あのリップか。結局ずっと使えなかったからまだ制服のポケットの中に入ってるよ。夢の中だというのに身体が重すぎて思うように動かないから『あそこ』というのが伝わらないかもしれないけど。なんとか頑張って探してみてほしい。


「お、あったあった。んで、これを……っと」


ねぇ治くん。私の唇そんなに乾燥してたかな。だからこうして夢の中に現れてまで私の唇にリップを塗ってくれるの?鼻の中にほのかに香ってくる金木犀の香りがなんだかとても心地良い。
……でも、なんだろう。一瞬。本当に一瞬だったけど、リップじゃない生温かい感触も一緒にやってきた。随分と柔らかいそれに、心当たりがない。


「好きな子にキスした時、好きな香りが唇からするのたまらんやん?」


せやからリップあげたんやで。名字さんに。

そう言われた私はどうしていいかわからず固まってしまったけど、そこからどうなったかはよく覚えてない。けれど次に目を開けて明るい世界が飛び込んできたのは、次の日の昼間だった。額の冷えピタも随分とカピカピになっている。


「なんでもありな夢やったな……」


でも夢って潜在意識っていうくらいだから……もしかして私、治くんに対して何か特別な感情を抱いていたんだろうか。そう思わざるを得ないような内容に昨日とは別の意味で頭が痛くなる。


「とりあえず、あと一日ゆっくり休もう……」












か真か

現実か空想


それがわかるまでにかかる時間は
   
果たして


『時間』で現せられるんだろうか







「あ、名字さん熱下がったんやな」
「………ん?なんで熱って知っとんの?」
「何言っとんの?見舞いに行って」
「………っ。ちょ、ちょっと待って……!」
「キスまでした仲やん?」





込められた想いで唇をなぞる




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