DC





些細なケンカ程内容は曖昧で、記憶に残っていない事の方が多い。けれど嬉しい時間よりも嫌な時間の方が長く感じる謂わば『相対性理論』とやらが私の空間を支配するから、後々覚えていなくてもその時間だけは強烈に記憶に残るのだ。

仲はいい。好きだし、一緒にいられる時間を大切にしたいと思っているのも嘘じゃない。でもそれでもやっぱりケンカは起こるもので、今日もそれは例外なく起こった。
久しぶりに陣平が家に来るから彼の好きな甘いものでも買って待ってようと近くの洋菓子店でマカロンを買っただけ。到着した陣平に久しぶりだな、と抱きしめられるまでは普通だったはず。なのに中に入って私が買ったマカロンを見た瞬間、「これどこで買った?」と眉間に皺を寄せながら聞いてきたのだ。お店とか気にする人だっけ?と思いながらも「駅前のだよ」と返した訳だが、その返答を聞いた途端に彼は盛大なため息を吐き、名前さぁと始まったのである。
しまった。そう思った時には既に手遅れで、目の前の彼は盛大な『不機嫌』を纏わせこちらを睨んでいる。そんなに睨まなくてもいいじゃん。そんな言葉を投げかけた瞬間聞こえてきた舌打ち。まずい。本能的にそう感じて「陣平」と声を掛けるも「今話しかけんな」という言葉を残して奥の部屋にこもってしまった。
えぇ、嘘でしょ。そこに立てこもられたら私どうすることも出来ないんだけど。そもそも、そんなに怒ることなの?あのお店に行くことが。確かにこの前二人でケーキを買いに行った帰りに「あの店、もう行くなよ」とかなんとか言われたような気がする。でも理由を聞いたのにちゃんと答えてくれなくて結局私は意味が分からないまま。なんならそのまま忘れてしまったから今日行ってしまったんだけども。


「……っ、陣」
「ちょっと出る」

 
あまりに理不尽。だって理由も教えないで自分の気持ちだけ一方的に押し付けて。挙句の果てに怒ってこもって。そりゃ私が忘れて行ってしまったのは悪かったかもしれないけど、そんなに、出て行くほど嫌だったならちゃんと理由だって話してくれたっていいじゃない。


「せっかく、会えたのに」


簡単にお休みを貰えるような仕事じゃない。私もそうだけど彼はもっとだ。取ろうと思えばそれなりに身体を張らなければいけないんだということを以前彼の親友から教えてもらってからは「一緒にいたい」なんてことは言わないようにしてきた。だから彼からの『久しぶりに次の土曜休み取れた』というメッセージに心躍らせていたというのに。なんでこんなことになってしまうんだろう。……だめだ。一度ネガティブな方向に考えてしまうとその思考は止まることを知らない。素直にごめんって。もう行かないからって。そうやって言えば良かったのに。可愛げもないこんな女にいつも陣平は寄り添ってくれているのに、なんで私ってこうなんだろう。そこまでいくと後はもう涙が溢れてくるだけだ。

結局そのまま何をするでもなく待ち続けた私の耳に、再びドアノブをひねる音が届く。いてもたってもいられなくてその音の方へ駆け寄れば髪の毛が濡れている彼の姿が目に飛び込む。雨だ。ずっと顔を伏せていたから気付かなかったけど、どうやら天気も私と同じで何か悲しいことがあったらしい。


「なっ、おま、泣いてたのかよ……!」
「だ、っじん、……、が……っ」
「………悪い。ただいま。……抱きしめてやりたいとは思ってるんだが今濡れてるから」


何か拭く物、と促す彼にむしろお風呂に入ってきなよと促す。けれど彼は断り、結局風呂場にあるタオルを自分で引っこ抜いて拭き始めてしまった。風邪ひくよ、と声をかけてもそんなの知らねぇとばかりにガシガシと頭を拭いた後洗濯機に放り込む。そんなに急がなくても、と思ったのも束の間。再び抱きしめられた私の身体はすっぽりと彼の腕の中に収まっていた。彼の匂いと雨の匂いが混ざった、なんだか不思議な匂いが私を包む。それだけでこんなに落ち着くんだから彼の匂いには随分と強烈な鎮静剤が含まれているらしい。そのまま簡単に抱き上げられリビングのソファに移動したかと思えば私の身体は彼の膝の上へ。随分と近い陣平の顔にドキドキしながらも、彼が頬に滑らせる手に自らの体温を乗せる。


「とりあえず、悪かった」
「私も、ごめん。せっかく、会えたのに」
「……ほんとに、泣かせる気はなかったんだ」
「私が勝手に泣いただけだから、気に」
「するに決まってんだろ。あのな名前、オマエが泣いてたら心臓止まりそうになんの、俺は」


そうやってなんだかごにょごにょ言っている陣平がおかしくて、ふふって笑ってしまう。笑われている彼は「ったく……」と呆れているような声を出していたがそこに怒りなんて全くこめられていなくてひどく安心する。


「陣平、どこ行ってたの?」
「あ?……あー」


歯切れの悪い彼は、なかなかその続きを口に出さない。この様子だとどこか歩いただけじゃなさそうだけど、では一体どこに?


「……名前が行ったケーキ屋」
「……わざわざ?え、なんで?」
「名前、知らないだろ。あそこの店員で一人、オマエのこと気に入ってる奴がいんだよ」


この前一緒に買いに行った後、名前に向ける視線が気に入らなかった男がいたのがなんとなく引っかかった。同じ男だからわかんだよ、あぁコイツ名前のこと気になってんだろうなって。だから、行ってほしくなかった。別にオマエの気持ちがどうこうなるとは思ってないけど、もしあっちが名前に何か危害を加えるようなことあったら困るからよ。だからとりあえず、釘は刺してきた。ついでに名前の好きなケーキも買ってきた。


「だからもし今度どうしても行きたいっていう時は俺といる時だけにしろ」
「……ううん、もう行かない」


ちゃんと理由が分かったし、そんな風に考えてくれている陣平の気持ちを踏み躙りたいなんてことはどうしても思えなかった。ケーキなんて他のお店でも買える。世の中にあの一店舗しかないのであれば彼と一緒に行くことも視野に入れたかもしれないが、そんなことはないのでその選択肢は瞬時に消え失せた。
結局、私は私のことしか考えていなかったけど、彼は私のことを考えてくれている良くできた彼氏だということが目に見えて分かってしまいしょんぼりしてしまう。……ううん、でもいつまでもそんなしょげていたって仕方ない。彼がこうして仲直りの機会を設けてくれているのだから私はそれにちゃんと応えたい。


「陣平」
「ん?」
「ちょっと、目、閉じて……」


本当は少しだけ待ってからすれば良かったんだろうけど、なんだかその間でさえ恥ずかしくなってしまい性急に口付けてしまう形をとってしまった。歯がぶつかることはなかったけど少しだけ場所がズレたような気がする。自分からキスをすることなんて片手で数えるぐらいしかなかったからどう足掻いても照れが先に来てしまい、下手くそな口付けをお見舞いすることになってしまった。唇がくっついている時も、離れた時も。心臓の音がやけに大きく耳に届く。目を開いて呆けている彼に、何か言ってよ、と言葉にするのがやっとだった。


「……名前さぁ、ほんとさぁ……!」
「ご、ごめん?」
「ちげぇよ、謝んな。今めちゃくちゃ泣きそう」
「うそ!?」
「嘘。泣かねぇけど。……そのぐらい嬉しかった」


だから今度は俺にもさせろ。そんな横暴な台詞にも胸がときめいて仕方ないなんて、随分と中毒性がお強いようで困ってしまう。目を閉じて、もう痛い。でもその痛みは甘くじんわり、内側から私を溶かしていく。好きだ。まるでそうやって熱を吹きかけているみたいに。


後日あのケーキ屋さんの前を通った時に店員さんの一人と目が合う。あえて目をそらすのも変だから軽く会釈しようとした……だけだったのに。突然彼は何かに怯えるように店内に入ってしまった。……これは、あれか?もしかしなくても陣平に釘を刺されたのはあの人かな……?しかしすごい怯えてたけど。何したの、ねぇ。そう問いたいのになんだか聞いちゃいけないような気がしてならない。とりあえず、この話題は二度と口に出さないでおこうと心に決めた。











Out of the mouth comes evil!






- ナノ -