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こんにちは。その一言の一体何がいけなかったのかは知らないが、その男の子はとても生意気に「アンタ誰。萩原の姉貴のなに」と食ってかかってきたのだ。え、いや待て待て。普通「こんにちは」には「こんにちは」を返すのが当たり前なんじゃないの?人として。だというのにこの少年(まぁ年齢はそんな変わらないみたいだけど)ときたら言葉にも視線にも棘しか含まないではないか。そんな突然の返しに呆気に取られ言葉に詰まらせていた私に、「姉ちゃんの知り合い?綺麗な人じゃん!」と爽やかな笑顔を向けてきたのは友人の弟。え、いや本当。今時の小学生怖い。

あまりにインパクトが強すぎた私たちの出会いはそうして幕を閉じた。なんならその後千速に「私の友だちに失礼な態度を取るんじゃない」ってめちゃくちゃ叱られてたこともあり(むしろ殴られていたような気がする)、彼に対する印象はなかなかにマイナススタート。しかも残念なことに私は彼の名前を知る機会を逃してしまい、しばらく、というか本当つい最近まで『弟友だち』と呼んでいたのだ。千速の家に遊びに行って鉢合わせした時も。中学校内で会った時も。まさか居るはずないと思っていた高校の入学式でも。私は彼のことを名前で呼んだことがなかった。



「お届け物でーす」
「……………………えっと」
「あー、っていうかコイツ、俺がもらってってもいいっすか?」
『……はぁ!?駄目に決まってんだろうが!!』
「わりぃけど、オマエに拒否権なんてねぇんだよ」


その一言と同時に私の肩を掴んでいた手が離れた。いや、離れたなんてもんじゃない。吹っ飛んでいった。いつかの千速のマジ殴りに引けを劣らないパンチは、風を切るような速さで私の頬を掠めたのだ。どうしよう。今現在進行形で起こっている事態が全く飲み込めない。とりあえず。とりあえずちょっと待って。そもそもなんでこんな所に弟友だちがいるの?ここ一応、ホテルだよ。そういう感じの。
何も喋るな。ひとまず何か上に着ろ。そう言って私に上着を被せてきたんだけれど、そこまで酷い格好してるか?小走りでホテル内を駆け抜けながら己の格好を確認してみたけど、まぁ肌着だからちょっと恥ずかしいかな、ぐらい。意外と過保護なんだなぁって思いながら横を走る弟友だちを見遣れば何かが伝わってしまったのだろうか。凄い形相で睨まれた。

後ろから男が追いかけてくる気配がする。このままじゃ捕まっちゃうし行き場所なんてどこにもないのに何でこんな逃げてるんだろう。息も苦しい。なのに走るのを止められないのは、弟友だちが手を離してくれないからだ。


「……黙ってろ」
「っ、んむ」


人のいない街路地。よくこんな場所知ってたなって思う程に薄暗い道に隠れる私たち。抱きしめられてまで身を隠す必要は、本当にあったのだろうか。鼻の中いっぱいに広がる彼の匂いにドキドキしながらも、そんなことをぼんやりと考える。腕、回した方がいいのかな。力の入っていなかったそれを彼の背に回し、そっと抱きしめるように力をこめる。一瞬ビクッとしたような気がしたけど、それ以上に彼の体温が温かくて心地いい。


「……行ったか。しつけぇ男だな」
「………いや。いやいやいや。それよりもまず何か言うことあるんじゃないの」
「あ?何かあるとすればオマエの方だろ」
「え、いや何もありませんけど」
「彼氏でもない男と遊びまくってんだろ?」


抱きしめられたままだから顔は全く見えず、彼の溜息だけが聞こえる。なんで突然そんな言葉が出てきたのかはわからないけど出所は恐らく千速か研二くんだろう。まるで全部知っていますみたいに言っているけど、それはちょっと違う。

普通の恋愛で普通に楽しんでいた時期だってちゃんとあった。けどいつからか「好き」って何かよくわからなくなった。自分じゃない誰かを選ぶ彼氏。浮気っていうものは一回されたらそれだけで人間不信になるものなんだと、自分が体験してみてようやくわかった。だからといって身体だけの関係を築いたってそんなものは「好き」には到底及ばない。そんなの、わかってる。わかっていても、身体だけは満たされていたい。心が「愛」を渇望しているからこそ、走ってしまった行動なんだと。


「きみは、誰か人を本気で好きになったことがある?」
「……はぁ?」


誰か本気で人を好きになったことが彼にもあるなら、少しは理解ってもらえるかもしれない。そう思ったけど、そもそも恋愛に対しての価値観が違えば意味はないか。


「……やめようって、何度も思ったんだけどね」
「じゃあやめれば」
「簡単に言ってくれるね、弟友だち」
「………あとそれもやめろ」
「それ?」
「俺の名前、さすがにもう知ってんだろ」


不貞腐れたように、今度は私のことを見てそんなことを言う。名前、確かにもう知ってるけど。今更というかなんというか、呼ぶタイミングがもうないというか。むしろ彼がそんなことを気にしていたということに驚きを隠せない。
え、っと。これはもしかして、呼ぶまで離してもらえない感じなのかな。先程よりも少しだけ強くなった腕の力にそんな確信めいたものを抱く。


「……早く」
「心の準備がまだできていないから……」
「そんなもん、オマエいらねぇだろ」
「相変わらず失礼だな」


いつまでもこうしている訳にはいかない。覚悟を決めて呼ぼうとした瞬間、けたたましい音楽が静かなこの場所に鳴り響いた。驚きのまま慌ててスマホを確認すると、そこに表示された【萩原研二】の名前。え、今度は弟くん?彼といい研二くんといい、タイミングを見計らったかのような演出は一体どういう訳なんだ。
ハギの野郎……とぼそっと呟いた言葉は聞き流して、未だ鳴り続けるスマホをタップする。もしもし。言い切るか切らないかのところで『大丈夫だった!?』という大声が聞こえ、咄嗟にスマホを耳から離す。その剣幕に少なからず動揺したが、もう一度耳につけ落ち着いて話しを始める。


「もしもし、研二くん?大丈夫っていうのがよくわからないけど、とりあえず現在進行系で弟友だちに抱きしめられてる」
「ばっ!!余計なこと言ってんじゃねぇ!!」
『ああ、松田と合流できたのか。よかった〜』
「ねぇ、何がどうしてこうなったの?」
『あれ?陣平ちゃんから聞いてないの?』
「何を?」


彼の話を要約すると、私とホテルに入った男は言葉巧みに人を騙してヤることだけヤり、挙げ句の果てには人の静止も聞かず中に出してしまうような最低な男なのだという。……一体その情報源はどこからなのか。
だから名前さんがソイツの餌食にならなくて本当に良かったよ、と。安堵した声で言う萩原くんに素直にお礼を言う。


『礼なら陣平ちゃんに言ってやって』
「え?」
『アイツ、名前さんがホテルに入って行くの見て血相変えて飛び出してっちゃったからさ』
「そう、なんだ……」
『お節介かもしんないけどさ、名前さん。もっと近くに良い男がいると思うよ』


それだけ言って電話を切ってしまった萩原くんに、萩原くんの、言葉に。今度は私の頭が追いつかない。その話通りにいけば、この未だ腕を完璧には緩めてくれない彼は私の心配をして追いかけてきてくれたということになる。なぜ?あんなに敵意を剥き出していたはずの彼が私なんかの心配を?
放心していた私に「……どうした」とかける声があまりに優しい。どうしたもこうしたも、アナタの顔が見られなくて困ってますなんて言えるわけもない。


「萩原、なんだって?」
「あ……、えっと、良かったって」
「しかもオマエ、抱きしめられてるなんて余計なことハギに言うなよ」
「あはは……ごめん」


そんな会話をしていたら、突然離れた腕。驚いて彼を見上げると「ずっとここにはいられねぇだろ」と呆れたように言いながら歩き始める。名前の下りはもういいのか。安心したような、少し残念なような。そんか気持ちで歩きだそうとした私の手を、当たり前のように攫っていく大きくて綺麗な手。まだ何があるか、わからないだろ。ぶっきらぼうに、少しだけ小さな声で言い訳のように呟いた彼の言葉が想像以上に私に染み込んでいく。ありがとう。そう言った私の言葉が、ちゃんと彼に届きますように。







「いい加減、変な男関係どうにかしろよ」


結局私の家の前まで送ってくれた弟友だちから何度目になるかわからない忠告を受ける。いや本当に、ここに着くまで何回その言葉を言ったよ。そうツッコミたくなる程の回数に、さすがにもうやめようかな……と観念した気持ちになる。いやまぁ、ここまでいろんな人に迷惑をかけてしまったからさすがに止めるけど。
目の前で何回目になるかわからない忠告をする彼に対してもそうだ。たぶん今回相当迷惑というか心配をかけてしまった。きっと。研二くんの話が本当ならだが。まさか大学に入ってからも人に心配かけるなんてなぁ。しかも高校生に。


「ごめんね。そりゃ千速の友だちがそういうことしてたら嫌だよね」
「……………………………………は?」
「え?だって千速のこと好きなんだよね?」


そう、歩きながら私は一生懸命考えた。高校生の彼が何故嫌いだった私に対してここまで優しくしてくれるのか。それはたぶん、彼が千速への恋心を拗らせているせいだ。昔聞いた「陣平ちゃんの初恋の相手って姉ちゃんだからさ〜」という弟の声をふとした瞬間に思い出し、全てが合致したのは言うまでもない。確かに好きな人の友だちがそんな最低な事をしていたら彼も嫌に決まっている。私も逆の立場なら嫌だと思うだろう。行動できるかはちょっとわからないけど。

私の言葉が図星だったのか黙ってしまった彼に再度「ほんとにありがとね」とお礼をして中に入る。……ことは出来なかった。後ろを振り返ると、私の腕を怒ったような、どこか寂しそうな顔をしながら掴む弟友だち。え、やば。もしかしてこれ地雷だった?

「あ、ごめん……?」
「それは、何に対して」
「じ、地雷だったかなって」
「オマエ……、ほんと鈍感にも程があんだろ!」
「私生まれてこの方鈍感なんて言われたことないんですけど」
「俺がオマエを助けたのなんて好きだから以外に理由なんてあるわけねぇだろ!」
「だから千速を」
「名前に決まってんだろ!!」


叫ぶように出された声は、嫌でも私に届く。え。え?好き?私を?誰が?きみが?嘘でしょ?でも確かに彼は私の名前を呼んで言った。好きだ、と。まさかの展開に完全に追いつかなくなった頭の処理能力。


「ここまで待たせて、礼の一つもないとか」
「いや、だって」
「……キスぐらいさせろ」


そのまま掴んだ腕を引かれ、驚きの速さで奪われた唇。その瞬間景色が止まった。いつまで経っても進まないような時間に頭がおかしくなる。なのに触れているところはとても熱い。なにこれ。
ようやく離れた。そう思った時に初めてちゃんと息が出来ていなかったことに気づく。整わない息を整えようと必死になっている私を見てニヤッと笑う彼はなんて意地悪なんだろう。


「……わかったか?」
「わ、わかりました……」


至近距離で見る彼の顔を見て思う。この人はこんなにかっこよかっただろうか。なんだかとてもいけないことをしているようで咄嗟に目を瞑って離れようとしたのに、トドメといわんばかりにもう一度唇に触れてきたのだから本当たちが悪い。


「きょ、今日はとにかくありがとう!」
「おう」
「あの!」
「あ?」
「陣平くん、かっこよかったよ!」
「なっ………!」


この際もう言い逃げでもなんでも構わない。だってもう、意識しない方法がわからない。あんなに真っ直ぐな『好き』を伝えられてしまっては、どうすることもできない。私の頭の中はもう松田陣平のことでいっぱいなんだから。なんてこった。実に単純な脳みそに全身でスタンディングオべーションだ。


「しかも、え?なに。この姉弟どうなってんの」


今後の身の振り方というか、接し方というか。一生懸命考えていた私の元に届いた『松田に好きって言われたんだろう?』『陣平ちゃんめちゃくちゃ喜んでたけど、名前さんついに!?』というメッセージに、ついには頭痛を覚えるようになっていた。












効能 : 恋煩いに効く薬をください





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