(後)
 カカシが体を離すと、コポ、となまえの中から零れ落ちてきた、大量に吐き出された自身の欲の果て。
 なまえへ吐き出した感覚が体中を巡る快感は非常に背徳感に満ちたものだった。
「カカシさ……ごめ……なさ……」
 荒く弾んだ息を勘付かれないよう平静を装ってなまえから体を引き剥がす。
 なまえの膣から流れ落ちた自身の精液がやたら厭らしさを際立てて、下がった下半身の熱が一旦持ち直しそうになった。
 どこまでも、最低だな――とカカシはなまえを見たまま思う。
 涙を流し、カカシに背を向け倒れ込んだままのなまえに手を差し伸べることもしなかった。

 一旦離れてしまった心は、きっともうここには戻っては来ないと。分かっていたつもりではあったのに、なまえがこのままイルカと幸せな光に満ちた未来を二人手を取り合って歩んでゆく姿を見るという苦痛には耐えられそうになかった。――例えそれが自分自身の招いた結果であっても。
 驚いた顔のなまえを力づくで家の中へと引きずり込んだ時、もう前にも後にも道は無かった。
 カカシとなまえのはまった沼は、怖ろしいほどの広さと底のない深さがあった。どこにも光なんてない。最初から闇の中で二人もがいていたのだから。
 それでも……その中でも、なまえの笑いかけてくれていた顔だけが、ただひとつカカシの顔を沼から出させてくれる存在だった。
 息ができていれば。それだけで一先ずは生きていけた。ただそれだけで良かったのに。
 カカシが先に見失ったのか、なまえが失くしてしまったのか。分からない。

 泣き止まないなまえをぼーっと見てるうち、言いようのない消失感が込み上げてきた。
 失った、のだ。もうずいぶんと前から。
「……いいよ。解放してやるよ」
 返答はない。カカシは続ける。
「イルカ先生となまえの間に子供ができるくらい愛し合ってみなよ。その存在は、きっとオレでも断ち切ることが出来ない」
 諦めの先には何が待っているだろう。自分の結末を思い描いて、カカシは深く息を吐いた。
 その代わり――
「でも、オレにも光を見せてよ。お前がイルカ先生に抱かれた後、必ずオレの所に来て。オレに抱かれて」
 カカシはなまえに体を寄せた。肩を引いて上を向かせ覗き込むと、とても不安そうな瞳がカカシを見つめる。
 最初で最後かもしれない。今なら、とカカシはなまえの頬に触れた。
 優しく撫ぜる手の平に熱がこもる。失わないために、最後の手段に出る。光を掴みたい。
「オレと、イルカ先生と。どっちの子が出来るか試してよ。愛し合っているのなら、きっと出来るでしょ。イルカ先生の子が」
 なまえが怯えた目の色に変わった。が、その目はすぐにとろんと微睡みはじめた。闇の中で赤く染まるカカシの左眼がなまえを眠りの中へと押し込んだ――。





 翌日、なまえは思った通りイルカに事を打ち明けたようだった。どこまで伝えたのかは定かではない。けれどそれは重要ではなかった。
 カカシの部屋の鍵をなまえから受け取ったあの瞬間、少しだけ盗み見たイルカの顔に、カカシは言い知れぬ悦楽を感じた。これで、同じスタートに立てたのだと。

 外が白み始めた頃、無情にもカカシに組み敷かれているなまえの顔には、何の表情も見られない。けれど、カカシにはそれもさして重要ではなかった。
「イルカ先生と無事ヤッてきたってことでいいんだね?」
 カカシに向けられていた目が伏せられた。肯定と取る。
「ちゃんとある程度中洗ってきたんでしょ? さすがに同じ穴に突っ込むのに、いくら先を譲ってやっているとはいえイルカ先生のぶちまけたモノがあるのは気持ち悪いんだけど」
 なまえの顔は一瞬にして怒気を帯びた。
「分かった分かった。じゃ、早速」
 カカシは横たわったなまえの着衣を素早く剥ぎ取ると脇へ投げ捨てた。幾度となくしてきたこの行為は、カカシには煩わしくてたまらなかった。
 イルカのような男ならきっとこういう場面でもなまえに気を遣うのだろう。優しく、壊れ物でも扱うかのように。
 邪魔な物は何一つ着けていない状況のなまえがあらわれ、カカシは自分の上着も脱ぎ捨てた。下は直前まで脱がない。それがいつもの事だった。
 なまえはカカシから顔を逸らすと、腹の前で両手をぎゅっと握り締めた。それが癇に障ったのか、カカシは両手首を乱暴に引き剥がすとなまえの顔の横に落とした。
「やめてくれる。浮気者の二人が、今更純愛とか思い込んでんじゃないよ」
「そ……んな……浮気なんて!」
「言い訳はもういいよ。さっさとヤろう」
 カカシはなまえの体に覆い被さると、適当になまえの体を触り始めた。
 なまえの気持ちいいところをわざと避けるよう動く指先に、なまえはぎゅっと目を閉じる。硬く瞑った目には力がこもりすぎて痛々しく見えた。
「ねぇ、ちゃんと善がってよ。イルカ先生の前では厭らしい声上げてんでしょ? オレのとどっちが気持ちい?」
「っ……」
 カカシはなまえの乳首をぎゅっと摘まんだ。痛みに歪む顔、だがすぐ後に眉がひくひくと動く。カカシはなまえの乳首を捏ねながら、反対側の乳首に刺激を与えた。
「気持ちいいならちゃんと声出してよ。そんなんじゃオレの勃たないよ? それだといつまでもオレの部屋から出られないけどいいの?」
 カカシはこれ見よがしになまえに下半身を擦り付けた。未だ熱を帯びていないので、固いモノが見当たらない。ほらね、と言わんばかりに、カカシはなまえにニヤリと笑って見せた。
「頑張ってね? オレと、イルカ先生と、なまえの子宮はどっちを選ぶかな?」
 ふるふると首をふるなまえをあざ笑うと、カカシは止めていた動作を再び始めた。今度は、的確に、すべてなまえの気持ちのいいポイントに触れていく。なまえは手で口を覆ったが、それでも溢れてくる声により興奮が増した。それだけ、気持ちいいということだ。

 朝日がゆっくりと顔を出し始めた。それなのに、全く光を感じさせない空間でカカシとなまえは深く深く闇へと落ちて行った。





 少しだけ違和感を感じて、イルカはなまえの顔を覗きこんだ。まさかと思ったのは、イルカが持ってきたなまえの好物である大福に手も掛けないからだ。
「……なまえ、まさか……お前……」
 椅子が倒れるほどの勢いで立ち上がると、イルカはなまえの脇に膝をついた。
 なまえは俯いたまま、その表情はとても嬉しそうには見えない。けれど、イルカは反対に顔いっぱいに嬉しさをあらわした。
「ほ、本当に!? おま、いま、ここに、ここここ、ここど、こここどこど」
 なまえの腹のあたりに手を当てると、イルカはどもって言葉にならない音を羅列した。
 その様子には、さすがになまえも噴き出した。
「……昨日、家で検査したの。……赤ちゃん、できたみたい」
「ほっ……ほん、とに……」
 イルカは両手で顔を覆った。嬉しすぎるのだろう、プルプルと震えている。叫びたい気持ちを精一杯堪えていた。なんてったって今は夜の九時過ぎだ。教師であるイルカが近所迷惑になる程の大声を上げるわけにはいかない――のだが。
「…………っったぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 叫んで立ち上がると、イルカは大きくガッツポーズをした。
 近所迷惑と嬉しさを天秤にかけて、嬉しさが勝ってしまったのだ。
「ちょ、ちょっと! イルカうるさい! 静かにして!」
「静かに出来るか! 嬉しすぎて! 馬鹿!」
 はぁ!? と思わず喧嘩腰になる。こんな場面で馬鹿だなんて、失礼にも程があるのになまえの顔も笑っていた。
 けれど、それはすぐに消え去った。イルカはハッとしてすぐにしゃがむと下からなまえの顔を見上げた。
 今まで見た中で一番、優しくて、愛に溢れたその顔は、もうなまえ一人に向けられているものではなかった。
「すまんすまん、オレは男だから……ただ嬉しいだけで済むけど。女性にはこの先不安が待ってるんだよな」
 イルカはなまえの手をぎゅっと握りしめた。
「大丈夫だ、オレがいるから。絶対、大丈夫」
 笑いかけるイルカから顔を逸らして、なまえは声だけで笑った。
「……どうした? ……嬉しく、ないのか?」
 イルカの言葉にすぐさま首を振った。なまえは更に俯いた。垂れた髪が顔を隠してしまい。もう完全に見えなくなった。
「イルカ……」
「ん?」
「誰にも言わないで。妊娠した事」
 絶句した。イルカは何を言っていいか分からず、考えうる範囲でなまえの心を読み取ろうとした。そうでもしなければ、その先に続くのは、とても明るい話には思えなかったからだ。
 なまえは震えた息を吐き出した。
「……お願い。この子が無事産まれるまで待って欲しいの。誰にも言わないで」
 イルカはなまえの手を握り締めた。胸にグサリと突き刺さった刃を抜き取るのは、きっと不可能だった。
 責める気にもなれない。責めてもどうしようもない。けれど、怒りの先は一体どこへ向けたらいいのか。奥歯を噛みしめ、唾を飲み込んだ。
「……それは。オレの子じゃないかもしれないから、という事か」
 数秒後、なまえは震えながら頷いた。


 なまえと肌を重ねるようになってから半年が経っていた。思ったように子供がすぐ出来ないので、その間なまえとイルカはしばしの恋人としての期間を楽しんでいた。
 ただ、それは条件付きだった。
 会うのはなまえの部屋かイルカの部屋で。外で会うときは、極力恋人としての雰囲気を出さないよう、少しだけ距離を保つ事。
 それでも、イルカにとっては輝く毎日だった。ずっと好きだったなまえが、自分にだけ笑いかけてくれているという事実がこれほど嬉しいとは思わなかった。
 部屋にいる時だけでも構わなかった。手を握って、肩を抱いて、キスをして。一番初めのきっかけの日には、いきなり体から始まってしまった二人だったけれど、イルカはそれで済まそうとはせずなまえに沢山の愛と楽しさを教えてくれた。
 目の前で笑うなまえを守りたかった。子供は出来たら物凄く嬉しいけど、それでもなまえがここに居てイルカに触れて幸せそうにしていてくれるだけでも、とてつもない幸福であった。

 のに――

「……そうか。んー。何て言えばいいかな。どうして言ってくれなかったの、とは思うけど」
 なまえの手を包み込んでいたイルカの手の甲に、雫が落ちてきた。思っていたより頭の中が冷静でイルカ自身も驚いた。
 カカシと、イルカの、どちらなのか。
「そうだな……オレは、信じるよ。きっとオレたちの子だって。大丈夫」
 イルカは立ち上がると、なまえの体に手を回して優しく包み込んだ。
「どんな子かな。お前に似て、綺麗な顔立ちの子になるといいな」
「ふ……ぁ……うっく……」
 そうであって欲しい。二人とも願う事は同じだった。
 イルカの手に自分の手を回す。力をこめると、イルカが笑った。
 イルカが思うのと同じだけ、なまえもイルカの笑顔を守りたかった。
 自分にそんな価値は無くても。人として最低な事をして、それでも何も言わずなまえを受け入れてくれたイルカに、なまえは何度も謝った。
「やっぱ、馬鹿だなぁ。なまえ、オレがお前を嫌いになるわけないだろ」
 なまえはしゃくりあげて泣いた。
「話聞くから。もう隠さないで。ちゃんと教えて」
 イルカにしがみつくと、なまえはひとしきり泣いた。イルカの服がぐっしょりと濡れてしまった頃、やっと顔を上げたのにティッシュでなまえの鼻を拭いて笑うイルカを見てまた涙が溢れた。
 もう隠さない。イルカに、この子に誓って――――だからどうか――――なまえにやっと小さな笑顔が戻った。





「とんでもない卑怯者ですね、カカシさん」
 報告書を出しがてら待機所で休もうとしたところ、後ろから声がかかった。気配で気付いてはいたけれど、まさか直接自分に向かってくるなんてと思った。それも人の往来のある中。
 カカシは取手にかけていた手を引っ込めると、ゆっくり振り返りとぼけた顔をした。
「ん? 言っている意味がよく……」
「ふざけないでくださいよ」
 イルカはとても静かに怒っていた。
「場所変えません? ここではちょっと……ま、オレは別にいいんですけどね。聞かれても」
 完全に敵意を放つイルカに、何事かとギャラリーが集まりつつある。あのはたけカカシに、中忍が睨みをきかせているなんて興味をそそられないものか。
 一度息を吐くと、イルカは踵を返した。カカシはギャラリーに向かって散るよう手を振ると、イルカの後に続いた。


 使われていない会議室の中へ入ると、イルカは慎重に扉を閉めた。あまり人の来ないここは話を聞かれる可能性は低そうだった。
「で、先生が怒っている理由って何ですか」
「聞かないと分かりませんか?」
「えぇ、まぁ。あなたとなまえが話した内容なんてオレには分かりませんからね」
「っ……!」
 イルカはカカシの前につかつかと歩いていくと胸倉を掴んだ。
 軽々と避けられそうなものなのに、カカシは顔色ひとつ変えず動きもしなかった。イルカの何をもってしても、カカシの相手として全く意識されていない事の表われだった。
「どれだけあいつを悲しませたら気が済むんだ、あんたは!!」
「へぇ? あいつだけなの? オレが悲しんでないとでも?」
「は……?」
 不意打ちにイルカは目を丸くした。
「なまえが先にオレを裏切ったんでしょ。あんたたちがオレに内緒でこそこそ会うから」
「は……それは……」
「相談に乗ってた? それなら手を握り合う仲になっても、それは浮気じゃないと?」
 カカシを掴んでいたイルカの手が、だらりと落ちた。
「例えば……オレのなまえへの行動がなまえを傷つけていたとするなら、そうなった理由を考えてみてよ。ねぇ、それって……あの子を傷つけたのって俺じゃないんじゃない? イルカ先生、あの時、確実になまえを狙ってたでしょう?」
「だって……あれは……あんたとなまえは付き合ってないって……体の関係だけだって聞いたから……」
「ふぅん……そうだったんだ。じゃあオレだけだったんだね。なまえと付き合っていると思ってたのは」
 全身の血が止まったような感覚だった。生きた心地がしない。勘違いしていたのは……イルカとなまえの方だったのだろうか。
 イルカはカカシの片方しか見えていない目から視線を逸らせないまま立ち尽くした。
「どっちの子だろうね」
 カカシはにっこりと笑った。
「もしなまえに子供が出来て……オレの子なら、引いてもらうよ。イルカ先生」
 イルカの肩に手をポンと乗せると、カカシは静かに部屋を出て行った。


 部屋に一人残されたイルカに、昨夜のなまえの顔が浮かぶ。さっきの様子じゃカカシはまだなまえに子供が出来た事を知らないのだろう。
 なまえと付き合っていると思っていた――――カカシの言葉が何度か頭の中で響く。
 あの二人は付き合っていた、のだろうか。
 さっきまでもう一人いた居たはずの空間を振り返る。聞き出そうとしてもきっとカカシは答えないだろう。なまえにしか、きっとその答えは聞けない。
 嫌な予感がして、イルカは急いで仕事を終わらせに走った。





 夕暮れの中、なまえは家へ帰る道を歩いていた。病院へ行った帰りだった。
 検査の結果、きちんと妊娠している事が判明した。おめでとうございます、と投げかけられた言葉がまるで自分にではないようで、あまり実感がわかなかった。
 家までの近道である公園を横切ったとき、ふとベンチに見知った顔があった。
「カカシ……さん……」
「ヨッ」
 カカシは軽く手を上げ立ち上がるとなまえの側へと歩いて来た。
「今日は仕事じゃなかったの」
「え……あ……はい」
「ふーん。ちょっと来てよ」
 なまえの事には興味がないのか、自分から聞いて来たくせにそっけない返事を返すとカカシは有無を言わさずなまえの腕を取った。
「まっ……て……」
 前へ進めないのは、なまえが足を踏ん張っていたからだ。カカシは一旦なまえの腕を離した。
「何」
「今日は……イルカの家に行くから……」
「あぁ、そう。じゃあそれキャンセルしてね。今からオレの家に来て」
「なっ、それは……できな」
「いわけないでしょ。オレのいう事が聞けないっていうの」
 なまえの話を遮ったカカシに、恐怖の色が見える。とても怒っているようだ。なまえの足が竦む。
「オレの家に来たらイルカ先生のとこ送ってあげるから」
「やめて……」
 なまえの懇願にも一切反応することなくカカシが話を続ける。後に続いた言葉に、なまえは驚き動けなくなった。
「今日ね、イルカ先生オレのとこ来たからね」
「え……?」
 続きは部屋で、とカカシはまたなまえの腕を取った。

 カカシの部屋はいつも通り綺麗に片付いていた。悪く言えば生活感が無かった。
「そこ、寝て」
 いきなりベッドへ行くよう指図される。カカシはなまえの方へ目を向けるとベストを脱ぎ椅子の背もたれに掛けた。
「え……?」
「服脱いで、さっさと」
 カカシは上着を脱ぎ捨てた。無駄の一切ない引き締まった上半身がなまえの方へ迫ってくる。カカシは動かないなまえをベッドの方へと押しやった。
 ボフッと音を立ててなまえが布団に手をついた。無駄に受け身を取って横たわろうとしないところを見て、逆らう気なのだろうかとカカシはイラついた。
「なまえ、俺と付き合ってないと思ってたって、ほんとなの」
「へ……?」
 唐突な質問になまえの間抜けな顔が返ってきた。
「イルカ先生がそう言ってたけど」
 一向に服に手を掛けないなまえを見てカカシが無理に服を脱がせ始めた。
「や……カカシさん……あの……」
「もういいや。黙ってて。たまにオレに先にさせてよ。さんざんイルカ先生に先譲ったんだから、今日は綺麗ななまえの中使わせて」
 まるで古びた道具のような扱いになまえは眉を顰めた。傷ついたのとは違う。嫌悪だ。
 ボタンの多い前開きの服を着ていたせいか、カカシのイラつきが伝わってきた。舌打ちが聞こえた所でなまえはカカシの胸に手を突っ張った。
 さっきの、耳を疑うような発言の先を聞きださねばなるまい。
「ま、待って! え……あの、付き合ってたって……私とカカシさん……が?」
「は? そうだけど。違うの?」
 なまえはカカシを見たまま固まった。カカシの手も止まった。
「だって……そんな事……一言も……」
「そうだね。一言も言わなかったかも」
 カカシがなまえの肩をトンっと押す。ぽさりと音を立ててなまえは横たわった。視線の先は空を泳いでいた。
 上に覆い被さり、カカシがなまえの目の奥を覗きこんだ。なまえの下半身を先に引ん剥いた。
「言わなければいけなかったかな」
「……だって……私……カカシさんは私の事そんな風に思っているなんて……」
「どうだろ。今でも、好きだったかどうかはよく分からない」
 最後のボタンが外され、なまえの上半身も何も着けていない状態になった。
「なまえは好きでもない奴とセックスするの?」
「……しな……い……」
「でしょ。オレも、あの時はなまえ以外の女とは一切寝てないよ。セックスするのはなまえだけだった。ね、そういうのって、恋人って言わないの?」
 あまりにも価値観が違いすぎる。好きの先にある行為がセックスならば恐らく頷いていただろう。けれどカカシはなまえの事が好きだったのか分からないのだと言う――今となっても。
 だとすれば、あの体を重ね合った日々は、一般的に恋人と呼びあう人たちがするそれと同じだっただろうか。いや、となまえは少しの望みも捨てた。
「……違う……私は……付き合っていたなんて思えなかった」
「へぇ。じゃあなまえはオレが好きで抱かれてたんじゃないの」
「そう……だけど……」
 思考が同じ場所をぐるぐると回る。過去を思い出してみてもやはりカカシとの間に互いを好いているという瞬間は微塵も垣間見えなかった。
 自分だけが好きだった――カカシの事が好きだった。だから、何をされても平気だと思っていた。それほど、好きだった。
 だがカカシが変わってしまったのがなまえとイルカが手を取り合い離す瞬間を見てしまったせいならば、それはカカシの言う通りの結果になっている。

 ――裏切ったのはなまえの方だ

 闇に溶け込んで収拾がつかなくなった脳内に急に電撃が走る。カカシが性急になまえの胸元を貪り始めた。
「んあっ……!」
 齧り付く、というのが正しいようにカカシは一切歯の当たりを気にせずになまえの体に口を這わせる。突起に至っては噛みつく始末で、なまえは痛みに顔歪める。
「ひっ……」
 乳房の脇を噛まれ、とうとう悲鳴にも似た声を上げた。ちらりとカカシがなまえを見遣るが、獣が餌で遊ぶような行為は続く。
 痛い。痛いのに、何故か受け入れなければいけない気がした。なまえはぎゅっと目を瞑り両腕を交差して目の上に置いた。
 いつまで続くのかと考えあぐねいていると、ふと体が冷えた。カカシが体を離した。
「ね。オレって、なまえの付き合う対象には入らなかったの」
「え……?」
 目の上の腕を解くと、なまえはカカシを見上げた。突然カカシはなまえの上から避けるとベッドの上に座り、なまえの腕を引き体を起こしてやった。ぐんと勢いついてなまえの体が持ち上がる。カカシの目の前に顔が着地し、鼻すれすれの場所で目があった。
 返事に困る。なまえは質問の意味を整理しようと考えたが、自分は既にカカシに気持ちを伝えている。過去にも、さっきも。
 好きだ、と言っていたはずなのに。ともすれば、カカシには好きだと言うだけでは伝わらないという事だ。
「私は……カカシさんが好き……だったから……」
「うん」
 驚いてなまえは言葉に詰まった。カカシが、なまえの話を聞こうとしている。胡坐をかいて真っ直ぐになまえを見ている。昔から変わらない眼差しが、なまえの目の奥に答えを求めている。
 ひとつしか見えてないカカシの瞳に、嘘は通用しない。
「それで」
 二の句が継げないなまえに促す言葉を掛ける。到底考えられないその行為は、今、初めてカカシがなまえに興味をもってくれたことの証だった。
「教えて。なまえが、オレを裏切った理由」
 ちくりと胸が痛む。そうか、カカシの中では確実に、きっとこの先なまえが何を言っても、裏切られたという事実が覆ることはないのだ。
 二人が出会った日から、なまえとカカシが不安定に溜め続けていた水は底に小さな穴が開いた時点で戻ることは無かった。
 けれど。もしかしたら。今、まだその水は全て流れ切っていないのではないだろうか。開いた穴は実はとても小さくて、ポタポタと雫になって落ちていく程度だったのかもしれない。
 その小さな穴が塞がれば――
「どうしてオレを恋人だとは思えなかったの」
 返事が無いなまえに対し、イライラする様子も見せず淡々とした一定の音で問う。その目を見て、なまえは更に胸に突き刺さるものを感じた。
 ――悲しそうだった。限りなく無に近い表情にあらわれた、少しだけの色。好きだったから分かる。初めて見たカカシの悲哀の色。
「カカシさん……ごめんなさい……」
 けれどそのカカシの何倍も悲しそうな顔をして、なまえはやっと声を絞り出した。
 カカシはガシガシと頭の後ろを掻くと、ちょっと来て、と更に近くに来るようなまえを手招きした。
 少し躊躇した後、なまえはカカシに寄った。――いきなり腕が回ってきて、なまえはカカシに抱きすくめられた。
「ね。オレのとこ、戻っておいでよ」
 カカシがなまえの耳元で囁いた。全身が熱くなった。なまえは体を強張らせると、やっと息を吐き出した。
「分かんないんだよ。好きとか、そういうの。だから教えてよ。お前が居なくなって、オレがどれだけ苦しい思いだったか分かる?」
 微かになまえの首が左右に振られた。どの事に対しての動作か。カカシにはどっちでも良かった。どのみち否定されたのだから。
「……ま、いいや。じゃあ続きするから」
 なまえに回した腕を倒していこうとした瞬間、なまえがカカシの腕にしがみついた。それは横たえるなという拒否の意味だった。
「……何」
 とうとうカカシに怒りの色が戻ってきた。数分前と同じ張り詰めた空気に戻ってしまった中、なまえは激しく頭を振った。
 なまえがカカシの体を押しやると、少し二人の距離が空いた。それでもなまえを掴むカカシの手は離れないままだった。
「逆らうの?」
「子供、出来たの……」
 出し抜けに聞こえた言葉に、今度はカカシの動きが止まった。僅かになまえの体が震えている。伝ってくる微細な振動に、カカシはなまえを掴んだ手から少し力を抜いた。
「さっき……病院の帰りで……妊娠が判明したの……」
 俯くなまえの旋毛をしばらく見た後、視線が落ちてゆく。自然とその先はなまえの腹の当たりへと落ち着いた。
 今し方新しい生命の存在を聞いたばかりだというのに、カカシの手によって裸にされ何一つ身に着けていない状態のなまえを見てふと思いあたった。
 そういった類に未だ関わった事が無くても、恐らく誰でも聞いたことがあるだろう、腹を冷やすなという妊婦の特有の心配事が頭を過ぎる。
 カカシはタオルケットを引っ掴むと乱暴になまえの腰回りに置いた。
「そう。じゃあもうしなくていいね」
 何を意味しているのかは明らかだったが、その言い方には特に残念だとか引き止めたいとか無理にでもとか、そういった感情は一切含まれていなかった。
 ――なまえが、カカシに別れを告げた時の返事と同じだった。

 なまえはタオルケットで前を隠すと、ベッド脇に投げ捨てられていた自分の服を拾い上げた。
 のろのろとした動作で服を着る様子は、初めてなまえがカカシと体を重ねた夜を思い起こさせる。
 カカシは自分の服を手繰り寄せると上着を着た。
 服を着終え、ベッドに腰掛けたままの状態でなまえは黙っていた。俯いた顔はカーテンのように黒の髪の毛で隠されている。
 カカシはその隣に座っていた。
「いつ、産まれるの」
「来年の……春……」
「そう」
 ふと桜の花が頭を過る。大体誰でも思いつくだろう春の光景は、もう何時が最後に見たものか思い出せない。通り過ぎていく景色を情緒や趣を感じながら見遣った過去を思い出そうとした。が、近しい場所にそれを見つけられずカカシは目を伏せた。
 ――なまえは見たのだろうか。イルカと。咲き誇る花を見て笑い合ったのだろうか。
「イルカ先生は知ってるの」
「……はい」
「オレの子の可能性がある事も、知ってるんだね」
「……はい」
 昼間の事を思い出して合点がいった。だからイルカは抑えきれないほどの怒りをカカシにぶつけてきたのだ。
「オレは、どっちでもいいよ」
「……え?」
 なまえの顔が少しだけ上がる。黒髪のカーテンからほんのちょっと顔がうかがえた。
「イルカ先生の子でも、オレの子でも。ま、なまえとイルカ先生は二人の子がいいと思っているんだろうけどね」
 なまえは返事が出来ずにいた。腹の中でこれから十月十日大切にしていかねばならない。もうすでに変調をきたしているなまえ自身の体には引き返す事の出来ない重い責任が圧し掛かっていた。
「……カカシさんは……もし……カカシさんの子だったら……どうするの……」
「そうだな。父親になるよ」
 あっさりとした返答に拍子抜けして、なまえはがばりと顔を上げた。疑って止まない視線がカカシに突き刺さる。鼻で笑い返して、カカシは前屈みになってなまえの顔を覗きこんだ。
 軽く聞こえてしまったかもしれないけれど、カカシにとってはそうではなかった。
 例えば――――自分がその新しく尊い命の存在を放るとすれば、結局その光はイルカとなまえの元に灯るのだ。
 イルカなら、そうする。簡単に予想がつく。それだけは絶対に嫌だと思った。
 カカシは続けた。
「それとも捨てた方がいいの?」
 無意識になまえの顔が曇る。正しく悲しみをあらわしていて、それは全てなまえの顔に曝け出されていた。
 ――捨てないで。咄嗟に思った心の声に、なまえは戸惑いカカシから顔を逸らした。
「うん、捨てないよ。大丈夫」
 一欠けらも落とさず、カカシは壊れそうになったなまえの心を受け止めた。

「家まで送るよ」
「いえ……いいです……」
「心配だから。なまえのことだけじゃないよ」
 カカシは立ち上がると椅子に掛けられていたベストに手を掛ける。取り出した家の鍵をポケットに突っ込むと、カカシはなまえの方へ向き直った。
 カカシに腕を優しく引かれベッドから引き上げられた体はとても軽く感じた。なまえはそのまま、カカシの後について玄関で靴を履く。
狭い玄関で二人靴を履き終えたが、カカシが扉を開けようとしない。
 妙な距離感のまま並んで佇んでいると、玄関扉になまえの背が押し付けられた。
「どうしてだろうね。好きじゃなかったかもしれないけど。オレにはたった一人の女だったよ」
 呟くようにそう言うと、カカシは口布を下ろした。
 重ねられたカカシの唇を、温かいと思ったのは初めてだった。触れるだけのような、優しい口付け。角度を変えて何度も啄む。

 ――――同じだった。イルカがなまえを想うのと同じだった。カカシのキスに、なまえを愛しむ気持ちを感じ取ってしまった。

 唇が離れてゆくまでのたった数十秒。スローモーションのようにゆったりとした時間が流れた。
 ここがカカシの家だと忘れそうになる。温かい手の平でなまえの頬を撫ぜる目の前の人物が、カカシだと信じられない。
 なまえは顔を下へと落とした。それを機にカカシの手はなまえから簡単に離れて行った。
 玄関が開けられると、夏の終わりの風が吹き込んできた。カカシは動かないなまえの背に手を添えると外へと連れ出した。
 それ以上カカシの事を見られなかった。見てしまえば――気持ちが傾く。なまえは自分の心にきつく鍵をかけた。






 花弁が舞う校庭で、イルカは生徒たちが遊び散らかした遊具の後片付けをしていた。
 まったく、ちゃんと片付けていけよなぁと独り言を言うが、その顔は一人でいるにしてはあまりにもにこやかで、まるで誰かへと向けられているようだった。
 あと数日。なまえの出産予定日が近づいていた。いつ産まれてもいいよう、先月から酒は断っている。飲み会などに誘われても平謝りで断りまっすぐ家へと帰った。
「まだ、かなぁ」
 地面を覆う桜色に、一年前の記憶が蘇る。

 ――毎年お花見しようね

 笑って言ってくれた。あの時のなまえの顔を、写真のように正確に思い出せる。恐ろしく綺麗だったあの自分の恋人は今、母になろうとしている。
 その隣に立つ自分自身を、一度も迷うことなく想像してきた。
「来年は三人かな」
 ふふ、と声が漏れた。
 毎日なまえの家へと通っては話をした。始めのうちは暗かったなまえが、イルカの前向きさに感化されて段々と自分の希望を口にするようになった。
 男の子がいいな、小さいイルカみたいで可愛いかもしれない、なんていうとてつもなく可愛らしいなまえの希望は叶えられることとなった。
 なまえの部屋に少しずつ物が増えていった。小さな服、靴下、肌当たりの良いガーゼタオル、布おむつ。それに、小さな水色のイルカのおもちゃ。プピと音が鳴るの、売っている前を通り過ぎられなかった……と照れて言うなまえに、イルカは悶え殺されそうになる思いをした。
 幸せすぎて頭が溶けそうな毎日だ。今日はイルカがプレゼントを持って帰ろう、と地面に落ちていた桜の小枝を拾い上げた。
 ――その時。
「イルカ先生! 病院から電話がきてますよ!」
 事務方の見知った女性がイルカを大声で呼んでいた。
 イルカはしまおうとしていたはずの遊具を放り投げると、一瞬でその場から走り去った。


 夕刻の病院は晩飯の匂いで溢れていた。腹が減る時間だったが、今のイルカには食欲の文字など浮かぶ余地もない。
 慌てすぎて土足のまま病院に上がり込もうとして看護師に注意を受ける。取り出そうとしたスリッパを棚から落とす始末で、笑えてきた。
 階段を上がった先が新生児室ですと案内を受け、一段一段駆け上がる。中折れの階段の先にナースステーションが見えた。
「あの、川辺なまえの子が……産まれたって……」
「えぇ、あちらですよ」
 にこやかに受け応える看護師の指の先、大きなガラスが見えた。
 心臓が今までにない音を立てる。ドッドッドッという振動で体が震えてしまいそうだった。
 いくつかの泣き声が聞こえたが、それは通り過ぎてきた個室の中から聞こえてきたものだった。
 やっとガラスの前にたどり着くと、イルカははやる気持ちで中を覗いた。

「遅かったですね」
 後ろから聞こえた声に、イルカの反応は無かった。声の主はイルカの隣に歩いてくると、床に落ちていた桜の小枝を拾い上げた。
「これ、なまえにですか」
 綺麗な桜色だった。イルカの事だ、枝を折ったりなんかしないだろう。だからきっとこれは咲き誇る桜の樹から離れ落ちてしまったものなんだろうとカカシは思った。それなのに、とても綺麗に咲いている。もう桜の樹へと戻ることは無いのに。
 イルカはガラスの向こうから視線を一切逸らせずにいた。
 見間違う事なんて有り得なかった。新生児室に居るのは、たった一人の男児だけだったから。
 すやすやと眠っている。時折手が開いたり閉じたりしていた。まだ人というよりは猿に近い、産まれたての赤ん坊だった。
「なまえに、会っていきますか」
 やはり返答は無かった。カカシはイルカの視線の先を追った。

 この世に産まれてまだ数時間も経っていないのに、新しく芽生えた大切なその命は、僅かばかりのとても綺麗な銀髪を有していた。
 ふと、弱々しい小さな泣き声が上がる。薄くしか開けられない目が、じっとイルカを見ている。
 産まれたてでまだ視線が合うはずなんてないのに。今、この子はイルカの事を見たのではないかと思った。けれどその目はすぐに閉じられてしまった。
 ――イルカの目から涙が零れた。こつんと音を立ててガラスに額当てがぶつかる。
 カカシはそれを見ないよう目を伏せた。少し後ろへ下がると、手に持った桜の小枝を指先で転がした。
 揺れる花弁を眺めて、カカシは目を閉じた。
 カカシが寄り掛かった扉の後ろに、人の気配を感じた。さっきまでずっと寝ていたのに、もう起き上がっても大丈夫なのだろうかと、その身を案じた。

 泣き声が静かに響き渡る。
 カカシの心に、それはとても小さな種を落としていった。

(20170831)

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