あいまいにふれるかれをすべて
煌びやかに着飾った女達がクロコダイルを取り囲むように纏わりついている。
女の視線が色を含んでいるのは遠目から見ても分かるほど明らかだ。
そんな女達にクロコダイルは、ビジネスライクな笑顔を向け、短く言葉を交わしその場を後にする。
クロコダイルが歩みを進めればパーティー会場内には黄色い悲鳴や感嘆のざわめきが至る所で起き、言葉を交わそうとクロコダイルを取り囲む人混みは絶えなかった。
王下七武海であり、今やアラバスタの英雄と呼ばれるクロコダイルの影響力は絶大なものだ。
そのクロコダイルの経営するカジノ、レインディナーズもレインベースに一攫千金を夢見て集まる民衆、そして富裕層には娯楽として根付き人気が高い。
今夜はそのレインディナーズのカジノを利用しているウルトラVIPを招待しディナーパーティーが催されている。
普段クロコダイルがカジノの店内に顔を出すことは滅多にないが、さすがにこのパーティーには経営者として顔を出す。
今夜集まっているのは、カジノに莫大な金を落とす大事な顧客であるから、その顧客達に少しの優越感を与えてやるには、経営者のクロコダイル本人がこうして顔を見せるのが一番なのだとか。
クロコダイルは私がこういう場に顔を出すことをよしとはしていない、むしろ許してはいない。
だけど、私はクロコダイルの表向きの経営者としての顔を見てみたかったし、パーティーにも少なからず興味があった。
だからこそ、ロビンに頼み込んで適当なドレスを見繕ってもらい会場に忍び込み、物陰から隠れるようにパーティーの様子とクロコダイルの姿を見ていたのだ。
媚びるように挨拶をする親父や女達に、こうして顔を見せて歩くのはあくまでもビジネスの一環なのだ。
好んでこういうことをしている訳ではない、そう分かっていてもロビンに頼んで、この場に連れてきて貰った事を私は後悔した。
「ナナシ、どう?パーティーは?」
「…ロビン」
「浮かない顔してるわ」
顔に出てるとは思っていたけど、改めて言われるのはなんだか凄く気まずい。
応えない私をよそにロビンは話を続けた。
「サー、頑張っているでしょう」
ロビンはクスクスと笑った。
「とっても不本意って感じだからパーティー終わって部屋に戻ってきたら機嫌は最悪になってるかもしれないわね」
ナナシ気を付けてね
そう言うとロビンはパーティ会場の中心へ。
残された私は、居場所のなさもあいまり、どうしようもない気分を抱え込まされただけで、早々とその場を後にした。
そもそも自信なんてないのだ。
私がここに居ることすら、彼の眼差しが私に向いていることさえも嘘じゃないかと不安になる。
バロックワークスの上での最高のパートナーは、どう見てもロビンだし、その下にだって選りすぐりのオフィサーエージェント達が控えている。
レインディナーズ経営の為の社員だって優秀な人材が沢山いる。
私は何なんだろう。
クロコダイルの恋人なのかさえ怪しく思える。
私の知りうる限りではクロコダイルに女性の影は見えない。しかし、あくまでもそれは私の知りうる限りのことだ。
言い寄ってくる女性(美人でスタイルだって抜群な)なんて掃いて捨てる程いる筈だ。
今夜のパーティーですら数え切れない程居ただろう。
そんなことを考え出せば、益々自分の存在意義など分からなくなり、居場所なんてない気がしてくる。
正直私の入り込む隙なんて、どこにも一分だって有りはしない。
ナナシは着たままだったドレスを脱ぎ捨てる。
足元に落とされたそれは、急激に華やかさも鮮やかさも失ったように見え、あまりにも惨めで不憫だった。
投げ遣りな気持ちでいっぱいになったが、ドレスをこのままにしておくわけにもいかず、仕方がなく拾い上げ、適当なクローゼットの中に押し込んだ。
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こつこつと廊下を歩く足音が聞こえる。その足音はおそらくクロコダイルのものだろう。
一人で悶々としているうちに随分と時間が過ぎていたことに気づく。
足音がこの部屋の前で止まり、ガチャリとドアノブを回す音が静かな室内に響いた。
開かれた扉の向こう側に、廊下の明かりで逆光になったクロコダイルの姿が現れた。
「…なんだ、居たのか」
日が暮れた薄暗い部屋の中。
ソファに座る私を見下ろす。
「明かりくらい点ければいいだろう」
そう言いながら、室内の燭台に火を灯して歩くクロコダイルの纏うコートからは、いつもの葉巻の香りだけじゃなく、ああいった集まり特有の、外の匂いがした。
いつもの私なら、お帰りなさいと言って飛びつくところなのだが、今日はそんな気分にはなれず座ったままでいた。
一通り燭台に火を灯し終えると、クロコダイルは私の前に立ち止まり大きく影を落とす。
「どうした、やけに大人しいな」
答えない私をさして気にするでもなく、今度は執務用机の上に山積みになっている書類を一瞥した。
「下らねェ時間を過ごしたモンだぜ」
きっとパーティのことを言ったのだろう。
気怠そうにため息をつくと、空いていた私の左隣に腰を下ろした。
ロビンが言っていた程ではないにせよ、確かにクロコダイルの機嫌は良いとは言えないようだ。
「クロコダイル?」
こんな時に得策ではないとわかってはいても、聞かずにはいられなかった。
「私ってクロコダイルにとって必要?」
丁度葉巻に火を付けている最中だったクロコダイルは、怪訝そうな顔でこちらを見た。
「下らねェこと聞くな」
「下らなくなんてないよ」
まるで口に含んだ煙を吐き出すついでの様に答えられたのが、少し嫌だった。
「おれは必要じゃねェ奴に構うほど暇な時間を持ち合わしちゃいねェ。…そもそも、てめェがいらねェ存在なら、今ここに存在してる訳がねェだろう」
「それは…そうかもしれないけど」
居場所がない、と零したらクロコダイルはくわえていた葉巻を灰皿の上に置き、私の手を引き自らの膝の上に向き合うように抱え上げた。
「居場所?てめェ程に居場所を与えてやってる奴は、他にはいねェつもりだが」
二人の間にあった距離は一気に縮み、もはや殆どそれはゼロになる。
「おれの上にも乗せてやってるし、下にもさせてやってるじゃねェか」
クロコダイルは口の端を上げて、ニヤリと笑った。
「そ、そういうことじゃなくて!…私ってクロコダイルのなんなのかな?分からないよ」
「クハハハ!じゃあ聞くが、お前にとってのおれは一体なんだ?おれという存在をどう認識してんだ?」
「どうって…」
クロコダイルは、世間的には王下七武海の一人、レインディナーズの経営者。そして秘密犯罪組織バロックワークスの社長。
私はそれ以外には何も知らない気がした。
クロコダイル自身が好きなのに、呼び名や地位、そんなものしか知らない。
漠然とした不安に目頭が熱くなる。
「おいおい、なんで泣くんだ」
「だって、私…クロコダイルのこと、思ってた以上に知ら、ない」
情緒不安定だ。
こんなんじゃクロコダイルに嫌がられる。
そう分かってはいても、一度溢れ出した涙は簡単に止めることはできない。
今の自分は、面倒でうざったい最低の女だ。
「ご、ごめんなさ…い」
ため息をつかれるのも、何か言われるのも怖くて思わず謝れば、クロコダイルは盛大に眉間に皺を寄せた。
「なんで謝んだ」
「クロコダイルが好きだから、こんな風にして嫌われたく、ない…のに、涙止まらない」
真正面と少し上にあるクロコダイルの顔を見上げれば、その視線は真っ直ぐに私を見ていた。
「おれは、そんなこと聞いてねェだろうが」
手のひらで必死に涙を拭うが、それでも止めることは出来ず思わず顔を下げようとすれば、クロコダイルは私の顎を掴み上を向かせた。
「質問に答えろ」
金色の瞳は薄明かりの中で冷たく光って見えた。
私はなんだか怖くなって、目を逸らした。
「くろ、クロコダイルは…王下七武海で、きっと権力もお金もあって、バロックワークスの社長で…私なんかとは全然違う世界の人で」
鼻が詰まった、はっきりしない声しか出ない。
「だから、だからこそ、それが怖い」
「てめェにとっておれは、七武海の一人で、バロックワークスの社長という存在か?」
「ちがっ」
思わね問い掛けにナナシは驚いて首を振る。
「ほ、んとは…そんな世間での立場なんてどうでもいい…クロコダイルは、私の」
恋人といえたらいいのに、
「私の大好きな人…居てくれなきゃ困る」
今ひとつ確信が持てなくて言えなかった。
「どんなクロコダイルも好きなの、クロコダイルならなんでもいいの」
クロコダイルが一体どんな思いで私の言葉を聞いているのか考えるのも怖い。
真正面で触れあうほど近くに居るのに、それが嘘みたいにクロコダイルが遠い存在に思えてならなかった。
長い沈黙の後クロコダイルの指が私の顎から外される。
すがるような気持ちで視線を上げれば、金色の瞳が変わらず私を見つめていた。
長い間、感じ続けていた劣等感を見透かすかのような、その瞳に、もう何も言葉に出来なかった。
「てめェが、おれの側から居なくならねェ限り…その言葉を信じてやってもいい」
思いもよらない返事に自分の耳を疑う。
「へ?い…いま、なん、て?」
聞き返せばクロコダイルは苦虫を噛み潰したように顔を歪め、忌々しげに舌打ちをした。
「同じことは二度も言わねェ」
フンと鼻をならし、視線を逸らされてしまった。
「あ、違うの!ちゃ、ちゃんと、聞いてた…よ」
焦って弁解すれば、クロコダイルは逸らした視線をゆっくりと私に向けなおしてくれた。
「側に居て、いいの?私で…いいの?」
絞りだすように発した声は、少し震えてしまった。
「当たり前だろう…なにもかも今更すぎるぜ」
腰に回されていたクロコダイルの腕が私を強く引き寄せる。
私の心臓は驚くほどに大きく鳴っていた。
「てめェはおれの秘密そのものだ。そんなもんは側に置いておくに限るだろ」
それってどういう意味――
そう言い掛けた言葉は、クロコダイルによって遮られた。
「もう喋るな」
唇と唇が触れ合う。
それだけのキスを幾度も繰り返す。
慰めでも、ましてや誤魔化しの為でもない、純粋な愛情表現の手段のように思えた。
私の耳の後ろから頬に掛けて触れられたクロコダイルの指先は、先程まで抱いていた不安など簡単に覆す程に温かで、確かなものに思えた。
「ナナシ」
耳元に響いた低音が、私の鼓膜から全身を震わす。
鼻と鼻が擦れ合う距離で視線が絡まり合う。
「あ、」
思わず顔を離そうとするも、クロコダイルの右手がそうはさせてくれなかった。
両手をクロコダイルの胸に当て、控えめに押し返すが、勿論びくとも動かない。
今更ながらに自分のおかれている体勢がとんでもなく恥ずかしい状態だと気付いく。
「も、はなし…て」
極至近距離で今にも唇がくっつきそうだ。
意識すればするほど、それに比例して顔面に熱が集まる。
クロコダイルは勿論離してなどくれる訳もなく、顔を少しだけ傾けて再び私に口づけた。
スローモーションの様だ。
それとも本当に長い口づけだったのか。
ようやくお互いの表情がわかる程度まで顔が離れた。
クロコダイルは片方の口元を上げて小さく笑う。
「――そういやァ、あの似合わねェドレスはなんだったんだ?」
急に振られた話題に思考がついてゆけずクロコダイルを見つめ返す。
「…今日のドレスだ。せめてもう少しまともなのはなかったのか」
そこまで言われ、ようやく昼間のパーティーの時に着ていたドレスの事だと理解した。
「な、んで知ってる…の?」
「気付いてねェとでも思ってたのか」
「陰から少し覗いてみただけだし、第一クロコダイルと目も合わなかったし…」
クロコダイルが、やれやれと頭を振る。
「お前にはスパイ活動は無理だな、非常に目を引いていたぜ…お嬢さん?」
「え、嘘…でしょ?」
「クク…ハハハ!どうだかな」
「なっ、そんなに笑わなくても!どうせ私にはドレスなんか似合わないし、パーティに居た女の人達みたいに綺麗でもないもん」
「なんだ、妬いたのか?」
「や、妬いてなんか…」
ない、なんて言えない。
図星を指され、正直すぎるナナシは首から上を赤くし黙り込んだ。
「ククク…てめェは本当に愉快だな」
そう言いながら、クロコダイルはナナシの頭を何度も撫で、髪を掬っては落とした。
「ナナシ」
まだ顔の赤いナナシは下を向いたまま視線だけをクロコダイルに向けた。
「明日ドレスを仕立てにいくぞ」
予想だにしていなかった提案に、思わず顔を上げる。
「ド、レス?」
「ああ、そうだ」
「別にパーティに出る役目もないんだから、ドレスなんて着る機会ない」
可愛げがないと自分でも思うが、素直に首を縦には振れなかった。
「やけに拘るが、てめェはパーティに出てェのか?」
「そうじゃないけど、別に必要ないじゃん」
「お前の為に仕立てさせるから、おれの為だけに着ろ」
そう言ってクロコダイルは再び頭を撫でた。
「それだけで充分意味があるだろ」
そんな真面目な顔で、こんな台詞を言うなんて、本当にズルい。
ようやくひいてきた頬の熱さが、また蘇る。
「返事はどうした?」
私は、うんと小さく頷いて、そのままクロコダイルの肩に頭を預けた。
その広い背中に腕を回せば、すっぽりとクロコダイルの胸に私の身体は収まる。
「あ」
そして当然のように私の身体を抱き締めてくれる腕がある。
「どうした」
「…私の、私の居場所ってクロコダイルそのものだ」
これ以上ないほどに、しっくりくる。
「あァ?おれを椅子代わりにして、そんな発言するとは生意気な野郎だな」
「違うよ、そういう物理的なことじゃなくて…、ていうか膝の上に乗せたのクロコダイルじゃん」
「てめェが愚図るからだろうが」
まるで小さいこどもをあやすような言いぐさだ。
こども扱いされてるとしか思えなくもないが、それを指摘すれば、また話をややこしくするだけだろうから、やめておく。
いや、この際こども扱いだろうが構わない。
「――なんにせよ、てめェは贅沢な野郎だ」
「そう、かな?」
「そうだろ」
「…それは、きっとクロコダイルのせいだよ」
私に触れる指、力強い腕、厚い胸、その声、クロコダイルという存在が私を確かなものにしてゆく。
「クロコダイルを知っちゃったからクロコダイルなしじゃダメになっちゃったんだよ」
自分で言って恥ずかしくなりクロコダイルの胸に額を押し付けた。
「フ、…クハハハ!そりゃあ仕方のねェことだ」
オーダーメイドであろうスーツの生地は柔らかくすべらかだ。
クロコダイルが言葉を発するごとに、そのスーツの下の胸が小刻みに振動する。
明日は、このスーツを仕立てたテイラーのお店に行くのだろうか。それとも違う行き着けの店なのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていれば、クロコダイルによって熱烈な口付けをお見舞いされ、私は望むべく現実に引き戻されるのだった。
2012.3.17
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