みいろのせかい



その日の朝はいつもより音もなく静かだった。
普段だったらまだ暗いはずの窓の外が妙に明るく感じられた。

ベッドから起き上がり薄暗い部屋の中を見回す。
まだナミとロビンは眠っているようだ。

パジャマの上にガウンを羽織り窓に近付く。
結露して白く曇る窓ガラスを指で拭い外の様子を伺えば、ちらちらと白いものが舞っていた。



素足のまま靴を履き外に出る。
うっすらとだが雪が積もっていた。

吐く息は白く、ツンと鼻が冷たくなる感じがした。
差し出した手のひらに落ちた雪は、すぐに溶けて消えた。

吹き付ける冷たい風に、ぶるりと背筋が震えた。今の自分の姿は雪を楽しむにはいささか無防備すぎる。
一度船室に戻り暖かい格好に着替えてこようと踵を返した。

その時ちらりと視界の端に見えた白の中に黒。

船首に人影が見えたような気がした。
もしも見間違いでなければ、あれは―――。




滑らぬ様に気をつけながら階段を下り、濡れた芝生を踏みしめ、船首に上がる階段を出来るだけ急いで駆け登る。

手にも足にも全身に冷たい空気が纏わりつき、雪が頬に当たっては溶けた。

階段を登りきれば、やはりそこに居た。
見間違いなんかではない見慣れた後ろ姿に呼び掛ける。





「クロコダイルさん…!」

ほんの一瞬、こちらを見た気がした。




誰かが近付いてくる気配がした。
なんとなく、あいつだろうと思った。
まさか、こんな時間にこんな場所で鉢合わせるとは思いも寄らなかったが、おれの名を呼ぶ声で予感は確信に変わる。

わざわざ確認するまでもなく、あの女の声だ。


「何してるんですか?」


その声の主は、おれが返事をしようがしまいが関係なく、お構いなしに(いや、返事などないのが当たり前のように)続けて話し掛けてきた。



「考え事ですか?」


人のテリトリーにずかずかと踏み入ってきやがるのが得意らしい。


「あァ?なんでそうなンだ」

「なんか物思いに耽ってる様に見えたから」

「別に何でもねェよ」


本当に何か特別なことを考えていたわけではない。
普段より早くに目が覚めたら、たまたま雪が降っていた。ただそれだけのことだ。
しかし、わざわざこんな時に改めて何をしてるかなんて聞くのは野暮じゃねェか。


「そうですか」


ナナシはそれだけ言うと、さして何を気にするでもなく、クロコダイルの隣に並び海に落ちては消える雪を見つめた。





雪には言葉を奪う能力でもあるのだろうか。
初めに会話をしたきり今に至るまで、随分と長いこと二人して無言のまま雪を眺めていた様な気がした。


ふと隣の女を見やれば、驚くほど薄着姿なことに気がついた。

寒いとでも言い出せば、懐に抱き寄せることも容易かったのかもしれねェが、こういう時に限ってナナシは甘える素振りも見せやしねェ。



「クロコダイルさん、頭に雪が付いてますよ」

ナナシがおれの頭上を指差し笑った。

「てめェもな」


例外なくおれの上にも雪は降り、黒いコートに正反対の色で、点々とマダラ模様をつけてゆく。

髪を撫でつけるようにすれば、触れた雪が溶け、手のひらを濡らした。
ついでにナナシの髪に付いた雪も払い落としてやれば、それだけのことで、こいつはやけに嬉しそうに笑った。




「雪って見てて飽きないですね」

「まア、な」

雪も雨も好みはしねェが、美しさという点では、雨のそれより遥かにいい。


「私、偉大なる航路に入るまで雪なんて見たことなかったから、今朝降ってるのに気付いた時、嬉しくなっちゃいました」

「全くお気楽な野郎だな」

「だって仕方ないじゃないですか」

本当に嬉しそうな顔をして、えへへと笑う。


「あー…でも、さすがにもう限界です」

小さく呻いた後、ナナシはその場で数回足を踏み鳴らし、初めて寒いと呟いた。


「温かいコーヒーが飲みたいです」

「勝手に飲めばいいだろう」

「クロコダイルさんも一緒に戻りましょうよ」


クロコダイルの右手を掴むと、促すかのように引っ張った。

触れたナナシの手は冷たく、指先は赤くなっていた。

ゆるゆると手を引くナナシに対して、クロコダイルは短く舌打ちをし、掴まれていた右手を逆に強く引き返した。突然のことにナナシは小さく悲鳴を上げて、前につんのめるようにして倒れた。





コートに包まれた
というよりも抱き締められたという方が正しいのかもしれない。

顔面から倒れ込むようにクロコダイルの腹部に飛び込んだ。




「寒いなら、しばらくこうしてろ」


抱き締めたナナシの身体は服の上からでも冷たくなってるのが分かるほどだった。
コートの隙間からナナシの頭部だけが、かろうじて見える。

余程寒かったのか普段だったらひとしきり慌てたりジタバタするくせに、今日のナナシはやけに大人しく腕の中に収まっていた。




「ク、ロコダイルさんッ!?」


押し込められるように抱き締められた。

身動きすらままならない程の密着感に、顔を上げることも出来ない。
先程まで寒くて仕方がなかった筈なのに、今ではこの状況に心臓は大きく音を立て、顔面に熱が集まってくるようだった。
正直すぎる自分の身体に恥ずかしさすら覚えたが、有無を言わさぬクロコダイルの腕の強さに、甘んじてこの状況を受け入れていいのだと思えた。





「こいつはしばらくやみそうにねェな」


呟くように発せられた声は白く漂い曇天の空に消え、コートにすっぽりとくるまったナナシの耳には届かなかったようだ。

腕の力を弱めれば懐でナナシがもぞもぞと動いた。


「?…クロコダイルさん?」

「…なんでもねェよ」


なんとか首を伸ばしコートの隙間からおれを見上げた顔は、寒さのせいでかいつもより白く見え、赤く染まった頬がやけに映えた。


「戻るか」


おれが腕の力を緩めればナナシは逆に、おれの背中に腕を回し力を強めた。


「どうした?」

「あ!…あの!」


ガウンから覗く剥き出しの足首がぴりぴりと痛い。
クロコダイルさんが怪訝そうな顔で私を見た。

だけど、


「もう少し」


二人でいたかった。


「…もう少しだけ、このままで」




冷たい風が吹き付けコートを揺らした。

その追い風を合図に、寒さか恥ずかしさからか分からねェが赤く染まった頬を撫でれば、ナナシはゆるやかに微笑み再びおれに身体を寄せた。




雪の朝、ただそれだけだった。
それだけのことを変えるのは、いつもこいつだ。



「風邪ひいても知らねェからな」



ナナシは勢いよく顔を上げ、大丈夫と答えた。
なんて頼りねェ、信用し難い返事だろうか。

おれの脳裏には風邪ひいて赤い顔で寝込むこいつの姿が鮮明に想像できた。





人の気も知らねェでナナシは相変わらずの笑顔でおれを見ている。

何にせよ、いつだって世界に色をつけんのはこの女らしい。


おれは、あからさまにため息をついてから、もう一度ナナシをコートの中で抱き締めた。





2012.2.13


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