無条件幸福
白い光が差し込む窓から吹き込む風の冷たさに目が覚めた。
まだ随分早い時間なのだろう。
外は明るくなってきてはいるものの室内はひんやりとしており、未だ夜の空気を纏っているかのようだ。
横を向けば、寒さによって起こされたナナシとは全く無縁のように眠るクロコダイルの姿があった。
抱き締めるように腹の上に掛かっていたクロコダイルの右手からなんとか逃れ、ゆっくりと身体を起こし、窓を閉めるためにベッドから立ち上がろうとした。
すると寝ていたはずのクロコダイルが、眠たげに顔を歪めうっすらと目を開いた。
「おい…どこへ行くつもりだ…」
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
ベッドの端に座り立ち上がろうとしていたナナシをクロコダイルの腕が引き止めた。
「そばにいろ」
まだ寝ぼけているのか、普段あまり聞くことのないような、彼らしくない言葉。
「寒いから窓閉めるだけだよ」
そう答えるのとほぼ同時に、胴に回されていたクロコダイルの腕がグイとナナシを引き寄せたため、立ち上がることは出来ずに、そのまま背中から倒れ込んだ。
胸の上に寄りかかる形で倒れたらしく、左を向けばクロコダイルの顔が間近に見えた。
「いいから離れるな…」
クロコダイルは目を閉じたまま眠たげに呟いた。
深い意味などないのかもしれないが、その言葉がなんだか嬉しくて頬が緩むのを感じながらも、
「じゃあ、ちゃんとベッドに入れてよ。寒いんだもん」
非難するように応えれば、えらく散漫な動作で懐に抱き寄せられた。
再び眠る体勢を作りクロコダイルにぴったりと寄り添うように抱き付く。
このまま、もう一眠りしようかとも思ったが、数十センチと近付いたクロコダイルの顔を見ていたら、なんだか眠ってしまうのが勿体ないような気がした。
閉じられた瞼はぴくりともせず、眉間の皺はいつもより幾分なだらかだ。
普段は綺麗にセットされている髪の毛が、まるで見慣れないくらい今はとっても自然体で、思わず手を伸ばし彼らしくするべく額にはらはらとかかる髪の毛を、後頭部に向かって撫でつけた。
何か言われるかとも思ったが、特になんの反応もないものだから、引き続きクロコダイルの顔面を走る傷跡に指を伸ばす。
ぽこぽこと不自然に盛り上がる、顔面を遮断するライン。
指でなぞれば、さすがに不快感を示すようになだらかだった眉間に盛大な皺がよった。
「てめェ…さっきから何してやがる」
クロコダイルの瞳がナナシを捉え、顔に触れていた指先が掴まれた。
「大人しくしてろ」
眠そうだった先程とは違いクロコダイルの瞳は見開かれ、完全に覚醒してしまった様に思えた。
「だって触ってみたかったんだもん」
そう答えればクロコダイルはチッと舌打ちをし、ナナシをジロリと睨み付けた。
いつだってこの鋭い視線には、何度だってドキリとさせられてしまう。
「あ、えと…ごめん、なさい」
思わず口にした謝罪の言葉にクロコダイルは、やれやれと言うようにため息を吐いてから二回目の舌打ちをした。
「てめェは、とりあえず謝れば済むと思ってるだろう」
「別に、そういう訳じゃないけど…」
「けど、一体なんだ?」
クロコダイルの視線は強烈で、ほんの短い沈黙の間にも心拍数が上がってしまう。
「ナナシ…」
耳元を掠めた低い声。
クロコダイルが名前を呼ぶのは、ただ何かを伝えるための呼び掛けではなく、その先の言葉を促す為の催促なのだと重々承知している。
「いや、寝てる邪魔しちゃったのは悪かったと思ってるよ」
ナナシは居心地の悪い沈黙をかき消そうと、言葉の続きを懸命に探す。
「けど、目の前にいるクロコダイルを見てたら…触れたくなっちゃって―――じゃれあってみたく…なっちゃったの」
言葉をなんとか言い終わる頃には、掴まれた指先から伝わる熱とクロコダイルに見つめられているという緊張感が、じわじわと全身に広がりきってしまっていた。
「そうか…それなら存分に」
近づくクロコダイルの顔にナナシが半ば反射的に目を閉じる。
「じゃれればいいじゃねェか」
予想通りに唇が触れ合った。
「爪を立てようが、噛みつこうが一向に構わねェぜ」
ナナシをベッドに押し付けるようにしてクロコダイルがその上に覆い被さった。
「てめェが猫みてェに鳴いてる姿が見てェもんだ」
「なんか、それ…やらしい」
「そういう風に思う、てめェだって…厭らしい女ってことにならねェか」
唇が触れるか触れないかの距離で誘うかのように呟かれた言葉。
それに応えるように、今度はナナシ自らクロコダイルにキスをした。
「そう思われても…まあ、いいか」
ナナシがクスクスと笑えば、クロコダイルも満更でもなさそうにくつくつと笑った。
「ねぇ、子猫を撫でるみたいに…優しくしてくれる?」
クロコダイルは満足げな笑顔を浮かべ、ナナシの髪を撫でた。
「クハハ…可愛く鳴けば鳴くだけな」
ナナシは照れ笑いを隠すようにクロコダイルの肩を抱き寄せて顔をうずめた。
「煽ったのは、てめェだからな」
「図らずも…そうなるの、かな」
「フン、こうなりたくなかったなら大人しく寝てりゃあ良かったんだ」
クロコダイルの肩越しに先程より明るくなってきた窓の外が見えた。
相変わらず風が白いカーテンを揺らしていた。
「ナナシ…」
名前を呼ばれ視線をクロコダイルに戻せば、金色の瞳に写り込む自分の姿が見えた。
「余所見なんかしてねェで、おれだけ見てろ」
クロコダイルの顔が近付いてくるのを合図に、再びゆっくりと目を閉じれば優しいキスが降ってきた。
「クロコダイルしか見てないよ…見えないよ」
触れるだけのキスを数回繰り返した後、こつりと額を突き合わせ見つめ合う。
「クク…そのようだな。それでいい」
ナナシと名前を呼ばれ、クロコダイルと名前を呼び返せば、ふっと口元を緩めて笑ったクロコダイルの姿に、自惚れてしまいそうになる自分がいた。
2012.2.13
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