リユの髪は濡れていた。つい先程までオーダイルに特訓をつけていたのをミクリは知っている。いつもは整えられた前髪がいくつかの毛束になって分かれていた。頬にはりついた髪が気になるが払って直してやる気にはなれず、濡れそぼった前髪の奥から光線のように覗く彼女の双眸を真っ向から見返す。
 ジムトレーナーとしての働きは申し分なく、なにをさせても期待以上の成果を出し、なにより華のあるバトルをコーディネートする才のあったリユは、信頼する部下の一人であった。人として好ましく思っていることまでもを歪めるつもりはない。

「ジムを恋愛の舞台にするのは、わたしは好かない」

 リユの髪の先からぽたぽたと水が滴る。
 何回目かのアタックだったが、はぐらかす余地も残さずに追い詰めてくるような告白は初めてだった。だからミクリも、はっきりと拒絶を伝えた。だが、さて、これで退かなければなんと言おう。後腐れのない展開を模索していた五秒。主導権はけろりとした声に唐突に奪われた。

「了解です」

 若葉のような人好きのする瞳をぱちぱちと瞬かせてからはきはきと答えたリユは、一週間後にはポケモンリーグの某プロジェクトに挙手して、ルネジムに籍を残したまま世界中を飛び回るようになった。…いや、どうしてそうなる。



「どうしてそうなる」

 本人に直接そう言ってやれたのは四ヵ月経とうかという頃だった。
 その間にもリユはジムに顔を出していたというが、ミクリがそのことを聞くのはいつも彼女が去ってからだった。元気そうでしたよと再会の余韻のまま伝えてくれるジムトレーナーたちに、ひそかに結託説を唱え始めていた頃。

 四ヶ月ぶりのリユは事務所にいた。備え付けのプロジェクターでバトルビデオを鑑賞していたのだ。
 突然かけられた言葉にリユはすこし伸びた髪を揺らしてあの瞳をミクリに向けた。心当たりを探すように、暢気な顔がしかめっ面をつくる。やがて懐かしい調子で口を開いた。

「引き継ぎミスってた…?」
「そういう報告は上がってきていないが」
「はあ。あ、ミクリくんもお土産食べて。どうぞ」

 いっそう変な顔をしたリユに促されてテーブルにつく。「ほんとはイワパレスケーキを持ってきたかったんだけど…」とイシズマイクッキーを手渡された。整えられた爪のかたちに美しい脚線の交わり方、ソファへの腰掛け方を目にして、不覚にも安堵を感じながら包装紙をぺりりと破る。

「…プロジェクト参加の件、あまりにも急だっただろう」
「ああ、それ…。でもミクリくんも承認してくれたじゃない」
「わたしを飛び越えた先まで根回しを済ませて外堀を埋めていたのによく言うね」
「そのことについては申し訳なく…。締切が迫っていたから焦っちゃって。今日の一針明日の十針、善は急げ、案ずるより産むが易し、思い立ったが吉日ってオンパレードで奔走したらちょっと手違いが。湿度高めの意地悪とかじゃなかったの。信じて」
「おかげで送別会のひとつも開いてあげられなかった。悪かったね」
「気にしてない…ううん送別会は開かなくて良かった。せめて壮行会にして。私これからもずっとルネジムの人間のつもりなのに」

「…戻ってくる気があるのか」

 収穫した小さな気づきが吐息にのって漏れ出た。リユはわざとかと責めたくなるほど無垢な目をする。「当然」。跳ねるように答えながら伸びた前髪をかきあげる。
 そうしてふと、ミクリの言葉の出発点に気づいて不服そうに眉を顰めて、それからあきれたようにふにゃりと笑った。

「戻ってこないと思ってた?」
「そういうこともあるかと思案していたよ。きみの優秀さはわたしも知るところだし、きみはどこでもやっていける」
「…ああいうやり取りの直後だったし? もしかして、戻ってこない方がいい?」

 ミクリはぎょっとしてリユを見た。違う、と強く言いかけて口を噤む。瞳にひらめく光を見ればそれが冗談だとすぐ分かった。しかし強ばった体がなかなか戻らない。

 困る、と。
 耳から入ってミクリの全身を貫いたただそれだけの感情を、認めないわけにはいかなかった。リユが戻ってこないのは困る。戻ってこなければいいなどと一度も思い至らなかったことを考えていると、勘違いされたら困る。

 憮然とした表情で硬直してしまった想い人に、リユはくすくすと―半ば信じられない気持ちで―笑いかけた。

「残念、私絶対ルネジムに戻るので。ミクリくんがだめって言ってもリーグ公認ジム諸規則を盾にして帰巣するから」
「…ああ」
「それでそれで、どう? 気は変わった? 久しぶりの私、嬉しくない? 分別つけてとかは勉強しますよ」

 茶目っ気たっぷりに言い連ねたリユに、「なぜ販売員風なんだ…」とミクリは苦笑を返した。とはいえ、後腐れのない決着を探す気はもう起きない。

「その話はまた今度にしよう。あとひと月もすればわたしの元に帰ってくるんだろう?」

 端末を動かしてバトルビデオを巻き戻そうとしていたリユの手がぴたりと止まった。

「リユ?」
「…もしかして、まだミクリくんの方にお話いってない?」
「…なんのことかな」
「イッシュ地方の海底神殿の調査班から声がかかりまして、今のプロジェクトが終わったらサザナミタウン行きです」
「……」
「優秀でごめんなさい…」



∴潮待つ晶




220124
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