ワンコールを三回。回りくどいそれが、この世で一番愛おしい合図だった。じりじりと、入念に焦らされた私は「今から出てこれませんか」の言葉に喜んで用事を切り捨てた。
 なんだ、男か?
 のっぽの同期が投げかけてきた無粋の塊は予想の範疇だった。だから私、給湯室で、体の中のどろどろ、ぎとぎとを全部煮出したみたいなどす黒い不味そうなコーヒーを淹れて、くれてやったのだ。散らばっていた私物を回収する傍ら、頭は全力疾走ですでに待ち合わせ場所に辿り着いたみたいな心地でいる。ああ、浮かれている。浮足立っている。会議室を出るときに「苦ェ」と低いクレームが飛んだ。私はもう取り合ったりせずに、ヒールを鳴らしてオフィス街を疾駆する。



 早く到着すれば早く会える、というわけでもない。私がそこに辿り着いたのは待ち合わせの時刻の二十分前で、そのうち相手から「十五分遅れる」と謝罪と共に宣告された。明日も平日とはいえ待ち合わせのメッカはそこそこ混み合っていて、春一番の吹きすさぶビルの谷間は寒い。気概のない私は連絡橋を通ってビルに逃げ込む。南北にある二つのエスカレーターのそれぞれの脇に休憩用のソファがあることを、知っていた。

 ランスに会える。あまり歳の違わない、私の大切な弟。どこでなにをしているか判然としない、教えてもくれない、それでも家族の中で私にだけ連絡を寄越してくれる、弟。

 私は大変愚かなので、今日連絡を寄越された理由が金であってもいいようにまとまった額をおろしてきていた。ほんの触りだ。もしもっと必要ならもっと用意できる。してみせる。ハイブランドのショップが並ぶ五階で、決して少なくはない金員をしまったバッグを抱えながら、ただひたすらに弟のことを考えているのは滑稽なことに思えた。けれどやはり、私が求めているものはここにはない。
 腕時計をちらりと見ると、まだ五分しか経っていなかった。あと三十分。三十分したらランスに会える。ラグジュアリーなライティングがなされたショップを横目に、子供の頃の発表会の直前みたいな気持ちを思い出している。心臓よりももっと皮膚から浅いところにあるなにかがずっと満たされないまま、居心地が悪いとしきりに嘆願されているような気分になる。発表会から逃げ出せたことなんてなかったでしょう? 落ち着きのない自身を封殺して、私は聡明そうな美しいドアマンの所作をぼうっと眺めることに専心した。

 私は大変愚かなので、今日連絡を寄越された理由が金であればいいのにと切望すらしている。
 理由が金であったならば、私はにっこり笑って、私が用意できるのはいくらまでだからねと伝えて、バッグをひっくり返して大切な弟に返されるとも期待しない恩を着せてやるのだ。ランスが私に連絡を寄越してくれるのは金の無心のため。ランスが自分のことを話そうとしないのは、話すに値しない相手だと思われているから。…そんなふうにでも、ランスがなにを考えているかがはっきりするなら、私は歓迎なのだ。一緒に過ごした時間は淘汰され続けるのに、こんなふうに、私がかつて愛したままのランスだと善がったさもしい幻想を手放せないのは、あまりにも惨めでむなしいのだ。もしかしたら、本当に愛したままのランスなのかもしれないなんて、都合の良い反論が夢を見るのも浅ましさに拍車をかける。



 約束の七分前にその場を後にした。なんとなく、ドアマンとは会釈を交わして別れた。トレンチコートのポケットに両手を突っ込んで適当な階までエスカレーターで降りる。ガラスのドアを抜けると花の匂いのする強い風が前髪を乱していった。連絡橋を渡って待ち合わせの広場へ。半端な時刻だからか、先程よりも人は少なく見えた。

「リユ」

 私が弟を見つけるより、弟が私を見つける方が早かった。こんなはずじゃなかった。

「久しぶりぃランス。元気にしてた?」
「遅れてすみません」
「いいのいいの、気にしないで」

 こんな使い古しの第一声になるはずじゃなかった、のに。逸った感情は虚を突かれて、路傍の石のような普遍にずるずる、ズドンと滑落する。他人の顔なんて無関心にぼやける都会の雑踏の中で、ランスだけが特別に光を当てられているみたいだった。ランス。ランス。

 早く切り出してくれたらいいのに。「姉さん、頼みがあるのです」って。「姉さんしか頼れないのです」って、バレバレの嘘を吐いて、私を安心させて。



 「リユはこういうのが好きだったでしょう」とカフェに誘われ、「リユはなににしますか」と片手に財布を潜ませたランスが顔を覗き込んでくる。ねえランス、あなたいつから私のこと姉さんって呼ばなくなったっけ。前に会ったときもそうだったっけ。私、前もほかのことばっかり考えてたから覚えてないの。そんなことで頭がいっぱいになっていたら、バイトっぽい店員に「そっちの彼女は」と急かされた。曖昧な輪郭に逆撫でられた、私はこの子の姉です、という気持ちが注文の名詞に化ける。ランスは昔からそうだったみたいに、一人前の男の人の振る舞いをしてみせた。

 拭いきれない一抹の怪しさを仕込んだランスは、どこまでも私に親切だった。近況を訊ねて、相変わらず美人で誇らしいなどと同じ顔で口先の世辞を言い、リユはホストに嵌まる素質があるから気をつけるようにとよくわからない釘を刺してきた。
 意を決して、私はラテを飲んだ。その一拍が必要であると感じたからだ。弟がご馳走してくれたラテは熱く、火傷した舌はいたわられるよりも先に酷使される。

「ホストなんて、そんなまた。あっ、もしかしてランス、ホストクラブで働いてるの?」
「…わたしがどういう人間かはリユが一番理解しているでしょうに」
「本当? …誰にも言わないよ?」
「リユは想像できますか。シャンパンコールをかけるわたし。客が喜ぶようにサービスするわたし」
「全くないとは思わないんだよね…」
「…はあ」
「それじゃあランス、近頃はなにしてるの」

 ついに、訊いてしまった。
 シャドーが実体に当たった手応えを感じて、私は俯いた。呆れたみたいに微笑んでいたランスはすこし困ったように停止していた。この空気はあれに似ている。降って湧いた別れ話に翻弄された晩夏の深夜。ふふ、ふ。別れ話って。

「…知りたい?」
「ランスは、言いたくない?」

 両手でぎゅっと陶器を握り込む。

「わたしは、リユに嘘をつきたくありません。だから言えない」

 ぎょっとするような真剣な声音が私の胸を貫いた。「納得できませんか?」ととどめばりのように放たれた声は私のよく知るランスで、でも私のことを姉さんと呼ばないランスは知らない、と支離滅裂になったぐちゃぐちゃの景色の中に立ち尽くす他なかった。これもまた、都合の良い反論が夢を見ているのだろうか。私に嘘をつきたくないと、あの言葉は私が愛したままのランスが差し出してくれた真実だ、と。



 結局「ランスが言いたくないなら言わなくていい」とあっさり引き下がってしまったことと、また連絡すると告げられた言葉に「いつでも待ってる」と躊躇なく返したことについて、そういうところがホストに嵌まる素質なのだとひどく心配された。私は、顔と口が上等なおにいさんに貢ぐより…。言いかけた冗談は深く胸底に葬った。ランスは最後まで「姉さんしか頼れないのです」とは言ってくれず、バッグに詰め込んだものは再び愛も情もない通帳の数字に戻っていった。

 翌朝になれば、昨日の再会なんて遠い昔と同じ場所に漂着してしまっていた。舌をひりひりと痛めつける火傷がすっかり癒えたら、これから淘汰され続けるだけの時間になる。
 「火傷しないようにね」。昨日の詫びも兼ねてのっぽの同期にコーヒーを淹れて、くれてやった。今ではのっぽの同期に成り果てた、かつて晩夏を共有した男は相変わらず無粋で、今度は薄すぎると文句をつけられた。



∴不正解でもいい




210311
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