見合いならどこまでも逃げ切ってやるつもりでいた私の爪牙は、突然仄めかされた「許嫁」の前に為す術なく抜かれてしまった。生まれる前からの許嫁がいたなんて、初耳だった。窮鼠の抵抗とばかりに父母を追及すると、「お前の気性なら一も二もなく破談に向けて動いただろうから」と事も無げに返され、畳み掛けるつもりだった嫌事を失した。そこまで理解しながらなぜ取り下げようと思い至らなかったのか。

「リユさん?」

 青い髪の隙間からのぞく凛とした目でこちらの表情を窺うハヤトさんこそが、私の許嫁だという。
 彼がキキョウシティのジムリーダーであることくらい既知であるが、ポケモントレーナーでない私にしてみれば地方で三選する首長みたいな、塀に貼られたポスターでお顔だけは拝見したことがあります、みたいな、なんだかそういう相手だった。とてもじゃないが彼と連れ合いになる想像ができない。「これが私の許嫁なんだなあ」なんてそんな心持ちで眺めたことなんてなかったのだから。

 居心地の悪さを互いに隠せないままに、私たちは初めて顔を合わせていた。あれこれ口出しする大人たちは傍にいないが、その干渉を端々からびしばしと感じるので辟易してしまう。待ち合わせ場所が太鼓橋だなんて、あまりにも渋すぎる選択にはちらちらと大人たちの思惑が過ぎるようだ。

「あちこち歩いたから疲れたか?」
「…ああ、そうなのかも。ちょっとだけ、足が痛むような…」

 二時間ほど言葉少なに歩いて入った喫茶店で掛けられた言葉を、助け舟かとぼんやり思って応じたが、そこまで返事してはっとした。太鼓橋はともかく、善意でキキョウシティを案内してくれた彼に対して、配慮に欠ける物言いではないか。早くお開きになればと思っただけで、私の健脚には痛みなどないのに。

「あ、でも、まだ大丈夫。平気」

 口早にそう告げたものの、ハヤトさんは難しい顔をして黙り込んでしまった。私は失策を悟り、俯き、投げてしまったボールの処理を待つためにカップに唇を寄せた。
 ハヤトさんは腕を組んで、顔をそのままにあちらこちらに視線をやる。この人はバトルのときもこんなふうに真面目な顔をするのだろうか。

「…よし。なら散策はここまでにして、きみをコガネシティまで送ろう」

 言うが早いか、喫茶店を出るとあれよあれよという間に彼のピジョットの背に二人して乗り込むことになった。高いところは怖くないかと訊かれ、頷くと、ハヤトさんはびっくりするくらい溌剌と笑った。彼が声をかける。ピジョットは力強く、澄んだ大空を舞う。
 輝きに満ちた景色は夢のようだった。

「……とりポケモンってこんなに」
「すごいだろう!」
「うん…とっても…!」

 見たことがない世界に瞬きさえ躊躇う。高揚を感じずにはいられない。遮るもののない無限の青に胸がいっぱいになる。ハヤトさんの横顔はどこか誇らしげだった。同い年とは思えないほど大人びていたさっきまでの彼よりもずっと、目が離せない。

「コガネシティまでって、いいの?」
「おれのピジョットは速い。リユさんが気にすることはないよ」
「……ありがとう。こんなにきれいな景色、初めて見た」
「やっと笑ったな」
「え?」
「周りをひどく気にしていたようだったから、二人きりになればべつの顔を見せてくれるかと。成功したな!」

 「ああほら、あそこ」「あっちも綺麗だ」と晴れやかな顔で次々誘導されて、乗り気でない態度を気づかれていたことを恥じる暇もない。

「ハヤトさんは嫌じゃないの? こんな、勝手に交わされてた結婚の約束なんて」
「…思うところがなかったわけじゃないが、今は感謝してる。とうさんは間違ってなかった。リユさんは? おれが許嫁じゃ嫌か?」
「私は、……あ、コガネ百貨店」

 ビル群の中に馴染み深いかたちを見つけて、いつの間にかコガネシティにたどり着いていることを思い知った。今朝、あれほど億劫だった道のりがこんなにも惜しい。ああ、私の父母も間違っていなかったのかもしれない。

「…ハヤトさん。もし、まだ時間があったら、……もうすこし、あなたと一緒にいたい」

 たくましいピジョットの羽ばたきにかき消されないように、体を寄せて訊ねてみれば、ハヤトさんはちょっと驚いたような顔をして、「許嫁殿の気が済むまで、喜んで付き合うよ」と笑った。「しっかり掴まってくれ」。利口なピジョットはぐるりと進路を変えて、高く鳴いた。



∴糸、真緋に染まりて




201113
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