中世界


こぽこぽこぽ
こぽこぽごぽり

水の中から見る空は今まで見た何よりも美しかった。苦しいとも、痛いとも、何も感じない。ひんやりと心地好い感覚。動かない体、しかし全身を緩く支えられる。ゆらゆら揺れる視界。不規則に反射する光。曖昧な濃淡がふわふわと空色を纏っていた。キラキラ輝く水面はとても表現できる様なものではなく、この世の物にすら思えなかった。淡い空色に閉じ込められた勘右衛門は思考を放棄する。何も考えずただただ五感だけでこの世界を感じていたかった。どれだけそうしていたのだろうか。光溢れる閉じられた世界は一瞬とも永遠とも感じられた。
しかし空色と水色、光色で構成された世界は無残にも壊される。細長く薄い暖色が優しく揺れる天井を砕いたのだ。勘右衛門の柔らかな世界に降ってきたものは腕に巻き付いて、勘右衛門を世界から連れ去ってしまった。
川岸に引き上げられた勘右衛門は、途端に自分が呼吸を忘れていた事に気付かされた。思い切り空気を吸い込んでみたが噎せてしまう。水中では呼吸など必要無いものだったのに陸上ではこんなにも大切な事だったなんて。酸素が欲しくて息を吸うが咳が止まらず満足に呼吸ができない。胸や喉元を掻きむしり涙を流していると、濡れて冷たい背中を摩る温度を感じた。耳元で何か言っているのはわかるのだがどうも理解できそうもない。勘右衛門はただひたすら酸素を取り入れる事に重点を置いた。声の主は勘右衛門の呼吸が落ち着くまで背を摩り続けた。

「落ち着いたか?」

声の主、鉢屋三郎はぐったりと横たわる勘右衛門の頬を撫でた。三郎の手はぐっしょりと濡れていた。勘右衛門は辛うじて重い腕を上げると三郎の手を握る。その手には少し熱が戻っていて三郎は安堵の息を吐いた。

「馬鹿が。底抜けの馬鹿だなお前は。まったくどうしようもない馬鹿だ。全国の馬鹿な皆さんに謝れ馬鹿」
「っ、あー、ぐるじい、酸素、ばんざい…」
「黙れ息を吸え、そして吐け」

勘右衛門は言われた通りに酸素を取り込み二酸化炭素を吐き出す事に専念した。その間も三郎の話は止まらない。

「そもそもお前何で橋から落ちた。あれは確実に故意に落ちたろ。慌てて川を見ても浮いてこないし。泳げるくせに何で溺れたんだよ」
「だって、水、気持ち良さそう、だったから」

三郎が勘右衛門の頭を軽く叩いくとペチッと良い音がした。先程の事を思い出すと今でも血の気が引いていくのがよくわかる。
事の始まりはお使いの帰り道だった。例の如くさっさとお使いを終わらせた二人は、町外れにある甘味処で買った団子を、すぐ近くにある橋の手摺りに腰掛けて食べていた。いかにして火薬委員の目を盗んで花火を作るかという算段を練っていると、勘右衛門が一点を見詰めて何も言わなくなった。三郎は急に黙り込んだ勘右衛門を怪訝な顔で伺う。名を呼んで見ると、勘右衛門の視線が真上に向いた。三郎もその視線を追う。視界の隅で何かが落下していくのが見えた。手摺りに座っていた勘右衛門が上体を後ろに倒したのだ。重力に任せて落ちていく勘右衛門。咄嗟に差し出した三郎の手はただただ空を切るだけだった。そして勘右衛門は激しい水飛沫を上げて川に沈んでいった。この川は深い事で知られていて、近所の子供は近寄らないように親から言い付けられている。大人でも川底に足が着かないような深さだ。当然の事だろう。そんな所に勘右衛門は落ちたのだ。三郎は慌てて川岸に下りて勘右衛門を探した。程なくして沈みかけた勘右衛門は見付かった。丸でもがいた様子もなく、ただ水中を漂っていたのだ。自分が濡れるのも構わずに川に飛び込むと、急いで勘右衛門の腕を
掴んで川岸まで引き上げた。苦しそうにむせ返る背中を摩りながら、落ち着け、ゆっくり息をしろ、と呼吸が落ち着くまで話し掛け続けた。

「あー、死ぬかと思った」
「むしろ一度くらい死ねよ」
「鉢屋を置いて死ぬ訳にはいかないよ」

勘右衛門は軽口を叩く余裕が出てきたらしい。いくら暖かい季節になったと言えど、全身びしょ濡れのままでは二人とも風邪を引きかねない。野次馬もちらほらと現れ始めていた。忍を志す者として目立つのはあまりよろしくない。三郎は勘右衛門に肩を貸しそそくさとその場を後にした。

それから学園に着いてからが大変だった。まず事務員と言う名の門番小松田秀作がびしょ濡れの二人を見て、大変だ大変だ、と騒ぎ立て、保健委員長の善法寺伊作に見付かり、あれよあれよと言う間に身ぐるみを剥がされ風呂に放り込まれた。体が温まり風呂から上がれば保健室で正座を強要され健康管理について委員長直々の説教を受ける。ある程度の経緯を説明すれはさらに火に油を注いだだけだった。三郎はともかく勘右衛門は縮こまって、はい、すいません、わかってますはいごめんなさい、とひたすら謝ってやり過ごすしかなかった。

「疲れた…。いくら説教されなれてると言えど正座は堪えるね」
「巻き添えくらった私はもっと疲れてるがな」

二人が解放されたのは、一連の騒動を聞き付けた雷蔵、八左ヱ門、兵助が保健室に飛び込んで来てからだった。勘右衛門が川に落ちて三郎も川に飛び込んだと聞いていた三人はさぞかし心配したのだろう。額には汗が滲んでいた。しかし保健室に飛び込んでみれば本人達は正座で並んで説教をされているではないか。安堵と同時に色々なものが込められたため息がその場を支配した。こうして三郎と勘右衛門は同級生に引き取られて保健室を後にしたのだった。

「まったくもう、心配したんだからね。二人とも少しは反省しなよ」
「まったくだ。勘ちゃん、い組のくせに川で溺れるなんて、なんて事してくれたんだ」
「まあまあ、無事だったんだしいいじゃん」

三者三様のセリフで迎えられた三郎と勘右衛門は何だか申し訳無さでいっぱいだった。 保健室を出る際に保健委員長に、今日は大事を取って夕飯食べたら暖かくしてすぐ寝る事!と固く言い付けられた二人は珍しく指示に従い、自主練すら投げ出して眠りについた。
その成果か、翌日になっても熱は上がらず平熱のまま快適に過ごす事ができた。
放課後になって委員会の時間が訪れた。彦四郎と庄左ヱ門は委員会用のお茶請けを買いに町まで出てしまっていた。三郎と勘右衛門は見ない振りで散々溜め込んでいた書類を片付けている。明るい午後の陽気が三郎の集中力を奪う。黙々と書類に筆を走らせていた三郎は話を切り出した。

「なあ、お前さ、何で落ちたの?」
「え?何が?」
「昨日の話」

お互い筆を止めずに話は続く。

「ああ、昨日さ、いい天気だったでしょ?ひなたぼっこしながら鉢屋とお話してお団子食べてって、最高じゃん。でさ、ふと水の中から見たらどうなのかなって思ったんだよね。お日様とか鉢屋とか、もっとキラキラして見えるかなって思って、落ちてみた」
「何だよそれ。わかんねーよ」
「うーん、でもなんか違ったかな。いや、すっごく心地好くて綺麗で、目が沁みるとか息が苦しいとか一切無くて、もうずっと居たいくらいだったんだけどね。肝心の鉢屋が見えなかったよ」

当たり前だよねあははー、と笑う勘右衛門。三郎は手を止めて勘右衛門の方に体を向けた。何か言おうとするが言葉が出て来なかった。

「水の中はね、ひとり用の宝石箱なんだよ。でもほら、ひとり用の世界じゃダメじゃん?鉢屋がいなきゃ成立しないのに」
「へえ」
「陸に上がった時、水中にいた時なんかよりも何倍も苦しくなったんだ。俺だけの世界から引きずり出されて、呼吸ができなくて、それでも鉢屋が背中摩ってくれてるのがすごく安心した。あ、これだって思った。やっぱり鉢屋がいないとダメみたい」
「ええ、全然わかんないし伝わんないんだけど…」
「とにかく鉢屋好きって、鉢屋大事って再確認しました」

ここまで言うと勘右衛門も筆を置き、三郎の方に体を向けた。

「あ、そう…。でもな、お前いきなり隣にいるやつが川に落ちたら焦るだろ。そんな確認のために毎度身を投げられたらこっちの身が持たない。だからもうあれは止めろ」
「鉢屋が言うなら止めてもいいかなあ。鉢屋が泣いたら俺も悲しいしね!」
「いや泣かないけどな。いいから止めろよ」
「わかったよ。次は鉢屋も一緒ね!」
「やらないよ!?」
「えー」

重くなりかけた話が反れていくのを二人は故意で修正しなかった。勘右衛門のよくわからない行動は今に始まった事ではないのでもう慣れっこになりつつある。三郎は大きくわざとらしい溜息をついて再び筆を取り机に直った。勘右衛門も作業に戻り、学級委員長委員会室には再び静寂が訪れた。帰ってきた彦四郎と庄左ヱ門に、全然進んでない!と怒られる四半刻前の事だった。

END





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