雨傘のリア


休日の三郎の一日は冷蔵庫を開けるところから始まる。そして何を作り何を買ってくるかを考える。三郎は買いに行く物をメモ帳に書き込み、朝食のフレンチトースト制作に入った。
フライパンから甘い匂いが漂ってくる頃、コーヒーの香りも部屋に充満しだす。テレビからは天気予報を伝える声。どうやら夕方から雨が降るらしい。午前中は晴れるので洗濯は早めに、とのことだ。朝食の準備を終えた三郎はテーブルにつき、出来立てのフレンチトーストにナイフとフォークを突き立てた。口に含むと、想像以上の風味ととろける触感が成功を告げる。三郎は完璧なフレンチトーストをサッと胃に流し込んだ。そして食器を片付けた後、夜のうちに洗い終わっている洗濯物をベランダに乾して買い物に出掛けた。目指すは最近近所にできたスーパーである。うまくすれば95円の卵が手に入るかもしれない。三郎は意気揚々と歩みを進めた。踏み出した空は薄水色に綿が散っていた。
30分後、三郎は会計を済ませサッカー台で袋積めをしていた。無事、目的の卵は手に入り、あまつさえ厚切りの国産和牛を半額で手に入れる事ができた。必然的に夕食のメニューが決まる。これは焼くしかない。三郎は、ともすれば跳びはねるのではないかという位舞い上がっていた。それも店の自動ドアを踏み越えたところで一気に叩き落とされる。
外は土砂降りの大雨だった。予報では雨は夕方からだったはずだ。もちろんそのつもりだったので傘など持って来てはいない。いや、何より腹立たしいのは、恐らく全滅であろう洗濯物だった。この横殴りの雨だ。無事で済む訳がなかった。一刻も速くマンションに帰りたい三郎だが、傘を持っていない。しかし徒歩10分の距離のために傘を買うのは馬鹿げている。少しどうするべきか思案した三郎だったが、結局濡れて帰る事を選んだ。
叩き付ける雨の中三郎はずぶ濡れになって帰路に立っていた。買い物袋は口を折って抱えている。幸い濡れて困る様な物は購入していなかったのでなんとかなるだろう。三郎と同様に天気予報を信用し、傘を持って来なかったであろう同志もちらほら見られる。哀れな濡れネズミは一匹ではなかった。三郎は見たこともない他人に謎の親近感を持ち、ビニール袋を抱え直した。そこで非常に残念な事に、赤信号に捕まってしまう。こんな豪雨の中、傘も差さず佇むなんて、いくら濡れネズミが一匹ではないにしろ可哀相にも程がある。これではまるで悲劇のヒロインだ。せめてご近所さんにバレないように俯いた。赤信号はこんなにも長いものだったのか、まったく変わる気配を見せてくれない。焦れた三郎が唇を噛んだ。すると不思議な事が起こった。雨は降り続いているのに、三郎を濡らしていた雨が当たらなくなった。勢い良く顔を上げ振り返ると、見知らぬ男が三郎に傘を差し掛けていた。

「風邪引いちゃいますよ、おにーさん」

愛想良く笑う男は、ずぶ濡れで目を丸くする三郎にタオル地のハンカチを差し出した。男は固まった三郎の手を取りハンカチを握らせ、青になった信号を指指し、渡ろう、と促す。三郎はハンカチを反射で受け取り、素直に歩きだした。
ぽつりぽつりと初対面らしい会話をしながらひとつの赤いビニール傘に守られて過ごす。こんな経験中々無いだろう。傘の持ち主とは不思議に話も途切れずお互い笑みが浮かんだ。

「それにしてもおにーさん、雨降るって言ってたのに何で傘持ってなかったの?パクられた?」
「いや、何と言うか、夕方からと聞いていたから、まさか降ってくると思わなかった」

私の家このすぐ近くだから。付け足した三郎に男は残念そうに眉尻を下げた。

「そっか。じゃあもうすぐバイバイか」
「寄って行くか?礼に夕飯くらいご馳走するぞ」
「そうしたいんだけど、俺この後予定あるんだよ」
「そうか、それは、残念だ…」
「本当に、ね。寂しいね。せっかくお友達になれたのに」

少しの間、ひとつの傘に沈黙が訪れた。それはつかの間の友人との別れを惜しむものだった。しかしそれもすぐに破られる。時間が無いならもったいないと考えた傘の持ち主が口を開き、再び話に花が咲いた。
往々にして楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうものである。程なくして三郎のマンションに到着してしまった。マンションまで送ると言った男に三郎は申し訳ないと断ったのだが、まだ話していたい、そう言われてしまえば三郎に断る理由は無かった。

「じゃあ、私の家、ここだから。今日は悪かった。感謝してる」
「ううん、全然。俺もおにーさんと話せて楽しかったし」
「じゃあ、また」
「うん、またね、おにーさん」

二人の男を覆っていた赤いビニール傘は来た道を戻って行った。男を見送る三郎の目には、赤い傘が焼き付いた。
部屋に戻った三郎は廊下が濡れるのも厭わずに風呂場に直行した。冷えた体を温めて赤い傘の男を思い出す。そういえば名前を聞かなかった。メアドも聞いていない。三郎は己の失態を心から悔いた。今日の礼はどうしよう、借りたハンカチはどうしよう。色々と悔やむところはあるのだが、何よりも三郎は赤い傘の男にもう一度会いたかったのだ。何処の誰だか知らないが、三郎はあの一見遊んでそうな男が嫌いでは無かった。雨でずぶ濡れになった男を自分の傘に入れる様なお人よしはそういない。三郎は再び会える日を願って、雨を吸い切った洗濯物を洗濯機に放り込むのだった。
次の日も、その次の日も、三郎は件のスーパーに出向いた。空の機嫌も頗る良く、カラッとした風が続いていた。三郎の鞄には男のハンカチが鎮座しており、三郎の目は常に彼を探していた。三日経っても、一週間経っても彼と再び出会う事はなかった。
流石に心が折れかけた10日目の事だった。三郎は家の窓から荒れる空模様を眺めていた。叩き付ける雨があの日を思わせる。もしかしたら、そんな気持ちが三郎の胸に渦巻き三郎を家から引きずり出した。今度はちゃんと、三郎愛用の晴天の柄の傘を忘れはしなかった。
どんな天気でもスーパーの場所が変わる事はない。しかし雨が降っているだけでこんなにも遠く感じるとは。三郎は首を鳴らしてスーパーを目指す。ただでさえ人の少なくない道である。皆が皆傘を差してしまえば道が混雑するのは当たり前だ。必然的に歩くスピードも落ちてしまう。三郎はどちらかと言えばさっさと歩きたい派なのでじれったくて仕方がない。イライラと視線を横に移すとこの一週間ちょっと探しに探した赤い傘が水を弾いていた。慌てて傘の波を掻き分けて彼の元に駆け寄る。彼がこちらに気付く様子はない。しかし名前を知らない以上何と呼び掛けて良いか判らず、三郎は一瞬の迷いの後彼の服の背中を掴んだ。彼は驚いた様に背筋を伸ばし三郎に向き直った。彼の目が皿の様になると同時におにーさん!と大声を発した。どちらの傘にも通行人の傘が派手にぶつかる。道のど真ん中で邪魔になっていると自覚した二人は並んで歩き出した。話の始まりは自己紹介だった。男は尾浜勘右衛門と名乗り、恥ずかしそうに視線をずらした。そして吹っ切る様に話を変えた。

「もう、びっくりしたよ。俺おにーさんの事すごく探してたんだから」

勘右衛門はヘラリと笑って頬を掻いた。

「あれから別れてちょっとして、メアドどころか名前も知らなかったんだからめっちゃ後悔した。マンションに行ってみたりしたんだけど部屋判らないし、待っててもおにーさん来ないし。この辺探し回ってたところだったんだ」

どうやらお互いに同じ様な事をしていたらしい。三郎は少し嬉しくなった。

「私も君を探していたんだ。ハンカチを借りっ放しだったし、まだ礼をしていない」
「え、別にいいのに」

勘右衛門は本当に気にもしていなかった。むしろあの日、三郎を傘に入れた自分を褒めてやりたい位だった。あの日からずっと三郎にもう一度会いたい一心で街を探し回っていたのだ。

「そうはいかないだろう」

食い下がる三郎に勘右衛門は困った様に唸った。

「うーん、俺はおにーさんとまた会えただけで嬉しいから、うん。俺はおにーさんに会いたかった。だからおにーさんが俺を探してくれた事だけでもう胸がいっぱいです」
「またそんな…」
「あ!じゃあわかった!これからご飯食べに行こう!あ、割り勘だからね。で、おにーさんのメアド教えて!…それでまた、俺と会って、鉢屋」

ヘラヘラと笑い続けていた勘右衛門が、急に真面目腐った顔で三郎を見つめた。勘右衛門は傘の柄を強く握った。クルクル回っていた傘は回転を止めた。

「そんなんで良ければ、全然」

三郎は柔らかく笑って、赤い傘に晴天の傘をぶつけた。その際に弾けた水滴が舞い上がり辺りに散った。未だ降り続ける雨が傘を叩き、傘は畳めそうもない。勘右衛門は、雨音が心音を、叩き付ける雨が震える傘をごまかしてくれている事を強く願った。赤い頬が三郎からバッチリ見えているのは知らない方が幸せだろう。降りしきる雨も、三郎の頭上だけは晴れ上がっていた。


END
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