偶発crispi ※原作一年後くらいの時間軸(設定はふわっとしてます) |
二月中旬。十四日。大型スーパーのその一角は、赤や茶色やピンク、そしてたくさんのハートマークで飾り立てられていた。そして、片隅にちょこんと置いてある看板には、 ――大切な人に愛・感謝を伝えよう。バレンタインデーチョコレート特集! そこは特設コーナーになっているようで、ワゴンには安価な板チョコレートが山積みだ。手作り用だろうか、チョコスプレー、可愛らしい包装紙などがその隣で販売されている。また、ちょっぴり高級志向の人のために、有名メーカーのチョコレートがガラスケースに鎮座ましまし、その一方、「義理」、と大きくパッケージに印刷された商品や、お徳用一袋50個入り、といったお手軽な商品もずらずらと並べられている。 チョコレートを物色しているのは、当然ほとんど全てが女性客だ。今年のバレンタインデーは休日と被ったというのもあってか、この週末で用意し、週明けに渡そうという肚の女性がバレンタイン当日ながら相当数。中には、真剣そのものの表情でチョコレートを選んでいる女性もおり、それはさながら戦場に向かわんとする戦士のようでもあり。そして、店内放送はそんな彼女たちを煽るように商品の特売を告げていた。 通りすがりの少年――三雲修は、そんな常とは異なる様子をただ遠巻きに眺めていた。 そもそも、修がそこを通りかかったのは偶然である。 ……いや、ある意味偶然ではなかったかもしれない。なぜなら、修がここを訪れたのはその「バレンタインデー」がきっかけであったから。 とはいえ、バレンタイン特設コーナーが目当てというわけではもちろん、ない。修の目的は上の階にある本屋である。実際、修が提げていた濃い色のビニル袋の中には、買ったばかりの参考書が二冊ほど収められていた。 経緯はこうだ。 いつも通り玉狛支部を訪れた修は昼食後、にっこり笑顔の女性陣によりダイニングキッチンから閉め出された。なにも修だけではない。閉め出された(つまみ出されたと言ってもいい)のは修のチームメイトであり、相棒である空閑遊真も同様であった。どうやら午後のキッチンは男子禁制であるらしい。 それで大体、予想はついた。今朝方母親からチョコレートをもらったばかりであったし、昨年も似たようなことがあった(ただし、昨年は修が自身の修行でそれどころではなかったのだが)。「あんたたち、楽しみにしてなさいよ」、出がけに小南がそう言っていた、それはつまり、おそらく、そういうことである。 どちらかといえば修はそういった行事に関心が薄いほうである。遊真はなおさらだ。昨年は突如やってきた転校生、不良を黙らせ、ボーダーに入隊した「ただ者ではない少年」として知名度を誇り、その懐っこい性格も相俟って周囲が驚く数のチョコレートを渡されていた遊真だが、バレンタインという習慣をよく理解していないこともあり、単にチョコレートをもらえたということのみにおいて喜んでいたという印象があった。 修自身は義理でも貰えればもちろん嬉しいし、その気持ちをありがたいなと思う程度である。 締め出されたあと、修と遊真の二人はなんとなしに外へ出た。他愛のない話をいくらかしたのち、誰かと個人ランク戦の約束をしているという遊真は、自転車に跨がり、颯爽と本部へ走って行った。 この一年で随分上達し、うっかり川へ落ちることもなくなった遊真は、最近好んでそれで本部に通う。修は自転車で来ていなかったので、それを追う気にはならなかった。 かといってきびすを返して支部に戻るのもなんとなく気が引けて、そのときに必要な参考書のことを思い出した。そして幅広い種類の本を扱っている大型スーパーの本屋に向かい、現在に至る。 (うわ……なんというか、すごいな) 特設コーナーに対し修が抱いた感想はそれであった。というより、それしか言いようがなかったといえる。自分の母親と同年代か、それ以上に見える年代の女性から、自分より年下と思しき少女たちまで、幅広い年代の女性がそのコーナーを行き来している。それだけ、広く根付いた習慣なのだといえよう。 (ん……?) 気付いたのは、またしても偶然であった。大したことではない。立ち去ろうとした修の視界に、一人の「男性」の姿が飛び込んできた。 知り合いではない。その男性は、特設コーナーの、さらにその一角にまっすぐ向かうと、商品を選び始めた。その区画は、特設コーナーの中ではあまり客が多くない。そこに立っている看板にはこうあった。 ――逆チョコ特集。 逆チョコという言葉は、修も知っていた。一般的にバレンタインデーは女性が男性にチョコレートを渡すものだが、逆チョコはその逆。つまり、男性から女性にチョコレートを渡すということだ。バレンタインデーのお返し、ホワイトデーとはまた一線を画した性質を持っている。 時間が余っていたということもあり、なんとなく修はそのコーナーに近寄った。きっかけになった男性は早くも買う物を決めたらしく、一つの箱を手にそそくさと立ち去っていく。修はなんとなしにワゴンに並んでいる商品を眺めた。女性が見ている商品に比べ、どちらかというと地味なデザインのものが多い。男性でも手に取りやすい、というコンセプトであるようだった。 そうしてそこで、またしても偶然が起きた。 そう、偶然だ。高校生くらいの女子二人組が、修の背後を通り過ぎざま、 「ねえねえ、ボーダーのイベントどうだった?」 「人やばかったよ。年々増えてく気がする」 「まじかぁ。やばいね」 じゅんじゅんに手渡ししたかったのになあ、チョコ。そんなことを口にしながら、二人組は修から遠ざかっていく。聞き慣れた名前に思わず振り返るが、二人組は喋るのに夢中でそんな修の様子に気付いた様子はない。 ――ボーダー、イベント、じゅんじゅん。 「ボーダー」は修が所属している組織、正式名称「界境防衛機関」――の通称で相違ない。ということは、「じゅんじゅん」という言葉が指し示すのは、修の知り合いでもあるボーダー隊員、嵐山准のことだろう。確か、中学時代クラスの女子がそのように彼を呼んでいるのを耳にしたことがある。 そして、イベント。これについては、去年のことを思い出した。ボーダーでは広報イベントとしてバレンタインにチョコレートを配るらしい。それを配るのは、広報部隊でもある嵐山隊。それは、先ほど出てきた「じゅんじゅん」の意味とも一致する。つまり、今日は嵐山隊が広報イベントを行っている日なのだ。 そのとき、修の中にある言葉の羅列、点と点が線で結びついた。 ――バレンタイン。逆チョコ。感謝。 修はある決意をし、冷やかしのつもりで眺めていた商品を、もう少ししっかり見ていくことにした。 木虎藍はそのとき、とても疲れていた。 広報部隊という性質を持つ嵐山隊はいつも過密スケジュールの中で動いている。そのため、多少の忙しさには慣れているのだが、今日は輪にかけて忙しい日であったのだ。 バレンタインという浮ついたイベントが何故ボーダー公式イベントとなっているかというと、若者に対する波及力が高いからだとされている。会場に集まった人々のトリオン量を計測し、めぼしい人間には声をかけ、スカウトを行う。ボーダーに進んで入りたいとまで思っていなくとも、スカウトされればその気になる人間は一定数存在する。バレンタインは、そういった若者層をターゲットとしたイベントでもあるのだ。もちろん、基本は市民に親近感を持ってもらうためのイベントである。 だから、ボーダーへの説明、トリオン量計測、声かけ、等々、なさねばならないことが多いのだ。しかもバレンタインという性質上、いつも以上に愛想良くせねばならない。木虎はそういったことは決して苦手ではないけれど、終わった瞬間どっと疲れが襲ってくるのは紛れもない事実であった。 今、木虎は一人で作戦室へ向かっている。他のメンバーは各々別の仕事が残っておりそれを片付けている。手伝いを申し出たが大丈夫だと言われたため、休憩のために下がることにしたのだ。 部屋に戻れば、無人の部屋に大量のダンボール箱が待っていることだろう。それは、嵐山や時枝ら、主に男性隊員に渡されたチョコレートの数々である。結構な数なので、全員で消費することになっている。それは、木虎にとっては少し憂鬱なことでもあった。 角を曲がると、作戦室の前の扉に人影があった。その人影は扉の横に背筋を伸ばして立っていたが、木虎に気付くとぱっと顔をこちらに向けた。 「あ、木虎!」 「……三雲くん。何か用?」 人影の正体は知り合いのボーダー隊員、三雲修であった。だからというわけではなく、単純に疲労から自然と声が低くなる。それに気圧されたのか、修はどこか居心地悪そうにしていた。しかし、決心したという顔で「よかったら」という言葉とともに紙袋を木虎に差し出してくる。可愛らしいハート柄がプリントされた紙袋には「Valentine's Day」と大きく書かれている。 「……なに? これ」さらに低い声が出た。いや、わざわざ言われなくともそれが何なのかは分かる。そういうことではなかった。 「いや、その。木虎には色々と世話になったし、お礼をと思って……」 「殊勝な心がけね。でも、私はものでは釣られないわよ」 「そういうつもりじゃ……」 修ははっきりと気分を害した表情になる。それを見て、木虎は少し申し訳ない気持ちになった。表情を翳らせた修は、俯いたまま少しの間沈黙すると、 「……悪かったよ。それじゃあ」 深刻な顔で袋を握りしめて立ち去ろうとする修を、木虎は少し慌てて呼び止めた。そんな顔をさせたかったわけではない。やはり、それは声や表情としては出てくれなかったが。 「待ちなさい。……受け取らないとは言ってないわ。せっかく持ってきてくれたんだから、頂くわよ」 「そうか? 口に合うか分からないけど……」 意外にも、修はあっさりと紙袋を手渡してくる。そういえば、彼はそういう性格なのだった。彼の相棒であれば喧嘩の一つも売ってきたのかもしれないが、そのあっさりさには少々拍子抜けしてしまう。 「ふうん……?」 紙袋の中を覗いて、木虎はそんな声を上げた。紙袋の中には、紙袋の柄に反し、渋い柄。旨辛せんべい、とあった。 せんべい。旨辛。 今日は、バレンタインである。袋にもそう書いてある。なぜこのチョイスなのか。「口に合うか分からない」という言葉からして、時節に合っていないというのは自覚があるらしい。だとすれば、なぜ。 だが、少し安心したのも事実だった。 「……ちょうど辛いものが食べたいと思っていたの。ありがとう。なぜこの日にこのチョイスなのかは理解しかねるけれど」 「う……。とにかく、嵐山隊の人……特に木虎には世話になったし、ちゃんと礼をしておきたかったんだ」 ちゃんとした形で、かつ複数人で食べられるものがこれしかなくて、と口の中でもごもご言っている修。木虎は一つ溜息をついた。 そもそも、修は「礼を」と言うが、嵐山や時枝はともかく、木虎はさほど彼の世話をした覚えがない。トリガーを教えたこともあるが、それはもう一年近く前のことだ。それはつまり、修がそのときのことをずっと心に留めているということを示していた。……頭を下げさせたのだから当然なのかもしれないが。しかし、そうやって引きずられるのは木虎の本意ではなかった。 「その心がけは大事だけど、そう何度も言わなくていいわよ。あとは結果が伴えばそれで十分だわ」 「ああ……ありがとう。頑張るよ」 忙しいところ悪い、と口にして、修はその場を足早に立ち去ろうとする。木虎はその背に声を掛けた。 「待って、三雲くん」 振り返った修に間髪入れず、木虎自身が手にしていた紙袋から小分けの袋を一つ取り出し、修に押しつけた。 「これ、あなたにあげるわ。貰ってばかりじゃ落ち着かないから」 「え……?」 目を白黒させる修。すかさず木虎は畳みかける。 「イベントで配ったものの余りよ。気にせず受け取りなさい」 「あ、ああ……ありがとう」 「それじゃあ」 そうして修はもう一度木虎に背を向けると、今度こそ本当にその場を去った。 かくして、偶然にもバレンタインのチョコレート(一方はせんべい)交換が行われたのであった。 「木虎、お疲れ」 扉が開き、時枝が戻ってくる。木虎は会釈した。 「お疲れ様です、時枝先輩。今、お茶を……」 「ああ、いいよ。自分でやるから」 立ち上がりかけた木虎を手で制すると、時枝は給湯室へ向かう。間もなく、湯飲み片手に戻って来たが、木虎が机に広げていたせんべいの箱を見て不思議そうな顔をした。 「それ、今日のイベントでもらったやつだっけ?」 「いえ。さっきそこで、三雲くんから」 「へえ……」 時枝はうっすらと意外そうな表情を浮かべた。もともと表情の変化が分かりにくい人であるのでそれはほんのわずかな変化であったが。 「時枝先輩もよろしければ。たくさんあるので」 「じゃあ、頂くよ」 「どうぞ」 せんべいに手を伸ばそうとしたそのとき、時枝は机の横に置いていた紙袋の存在に気がついたようだった。 「あ、逆チョコのつもりなんだ。律儀だね」 「チョコレートじゃありませんけどね」 つんとして返す木虎を時枝はまあまあといなし。 「でも、良かったじゃないか、木虎」 時枝がびりりと個包装の袋の端を破ると、中からうっすら赤いせんべいが現われる。同じものを木虎は既に手にしていた。 「辛いもの、好きだろ?」 たまたまです。返した言葉はせんべいとともに口内へ消えた。さくり、と軽い音がした。甘さの欠片もなかったが、それは木虎の趣味に合っていた。 全てはおそらく、偶然であったのだ。 修がスーパーを訪れ、せんべいを買うに至ったのも。 たまたまそれが、「辛い物が好き」という木虎の嗜好と一致していたのも。 さらに、木虎がどちらかというと甘いものが得意でなく、チョコレート漬けを憂鬱に思っていたことも。 これ、うまいね。 時枝の声が、静かな作戦室内にぽつりと垂らされた。 (おわり) - - - - - - - - - - 大 遅 刻 。というかもはやホワイトデー。すみません。 タイトルは誤字ではなくcrispy+spicyの合体です |