一袋四十円の友情







 ――ボーダー本部所属、A級第1位太刀川隊の銃手、唯我尊――つまりボク、は今まさに人生の危機に直面していた。
 今、ボクはとある任務を遂行中の身だ。
 それは、ボクの所属する太刀川隊の隊長から、自分に直々に下された任務である。
 太刀川隊の他の隊員たちも、ボクが任務を達成し、帰投するのを今か今かと待ちわびているに違いない。
 しかし。
 しかしである。
 その任務というのが、そう、非常に、とてつもなく厳しいものだった。
 例えるなら、壁。困難という壁が目の前にそそり立っているのが見えるようだ。
 もしこの任務に失敗したら。……考えるだに恐ろしい。空気は冷え切っているのに、背中がじっとりと汗ばんでいる気がするのは錯覚だろうか。
 任務失敗。なんとしても、それだけは、避けなくてはならない。
 そう。向き合わなければならないのである。対峙すべき相手に。
 そうして、自分を奮い立て、ボクは「対峙すべき相手」と向き合った。

 ――もやし、28円。
 ――緑豆もやし、38円。
 ――高級もやし、38円。

 そう。ボクが今赴いている戦地は、ボーダー本部から一番近いスーパーだ。
 そして、ボクが目下達成すべき任務とは、買い出し、お使い。
 ……要は、パシリである。

(そもそも、このボクがどうしてこんな目に……)
 自分の境遇のあまりの哀れさに、じわりと涙が滲む。
 そもそも、こんなことはボクの仕事ではない。厳密には、なかった、はずである。
 父がスポンサーを務めている組織のトップチームに入隊したボクの目の前には、輝かしい道が広がっているはずだった。
 なのに。
 確かにトップチームだけあって、隊長の太刀川さんも、出水先輩も、オペレーターの国近先輩だって、とても優秀な人だ。
 その人たちに比べれば、いくらこのボクでもまだまだ力が及ばない。それくらいは自覚している。
 でも、それにしたって、この扱いはあんまりだっ!
 そう思うのである。
 今日だって、作戦室を訪れて早々、太刀川さんから一枚のメモを渡されたのだ。
 ――これ、近くのスーパーに行って買ってきてくれ。ヨロシク〜。
 それだけ言って、太刀川さんはさっさと国近先輩とのゲーム対戦に戻ってしまった。
 そのままほったらかしにされたボクは、仕方なくスーパーに出発したのだ。
 机の上にどこから調達したのかカセットコンロと鍋があったので、多分鍋でもするのだろう。
 ……もしかすると、帰っても自分の分はないのかもしれない。
 いや、だめだ。
 悲観的になるな、唯我尊。
 さすがにあの人たちも、そこまでひどいことはしないに違いない。……たぶん。
 なんにせよ、ボクの任務がなくなるわけじゃない。
 壁……冷蔵ショーケースに積まれたもやしの山からふたつみっつ、もやしの袋を手に取った。
 ふつうのもやしでいいのか。それとも高級もやしにすべきか。
 普段のボクだったら間違いなく高級を選ぶところだけれど、どちらかというと隊の人たちは安いものを好む。
 はたまた、緑豆もやしがいいのか。緑豆があるのとないのとでは何が違うというのか。違いが分からない。
 助けを求めて、太刀川さんが書いたと思われるメモを見ても、雑な字で「もやし」と書き殴ってあるのみである。せめてどのもやしなのか、具体的に書いてほしかった。
 かといって、全部買っていったら「そんなに要らない」と言われるに違いない。
 救援要請のために電話しようにも、携帯電話は鞄ごと作戦室に置いてきてしまった。今手元にあるのは財布のみである。
 ああ、と思わず独りごちる。
 人を統べる立場にあるはずの自分がこうしてこき使われていると知ったら、父は何と言うだろうか――。
 自分の身に降りかかった悲劇に涙しつつ、それを拭おうにも両手は「もやし」で塞がっている。
 他にも買うものは残っているというのに、こんな調子ではいつまでかかるか。
「……あの……何、してるんですか?」
 もやしを見比べていたボクに、誰かが声を掛けてきた。
 救いを求めて、ボクは勢いよく振り返る。そこにいたのは。
「キミは……」


 それから約30分後。
 静かな夜の街に、唯我の高笑いが響き渡っていた。
「助かったよ、三雲くん。なにしろ、ボクはこんな庶民的な店には縁がないものでね」
「はあ……」
 スーパーを出てすぐの駐車場。
 音量自体は控えめであったが、それでも目立つことには変わりない。ちらほら帰る客の、奇妙なものを見る目がこちらに突き刺さる。
 そんな唯我と相対していた少年――ボーダー玉狛支部の三雲修は、その居心地の悪さに冷や汗をかいた。相手は曲がりなりにもお世話になっている先輩なので、止めてくれとも言いづらい。
 唯我の足下には大きなビニール袋が三つほど。対する修の手にぶら下がっているビニール袋は一つで、中身は牛乳一パックきりである。
 このスーパーに立ち寄ったのは偶然で、母親から「買い忘れたから帰りがけに買ってきて」とメールが来ていたからだ。そうしたら、向かいの野菜売り場で百面相している唯我がおり、見かねて声をかけたのである。
 唯我に対し曖昧に相づちを打ちながらも、修の脳内には一つの疑問が浮かんだ。
 先ほど、唯我はこう口にした。
 ――庶民的な店には縁がない。
(……なのに、なんでスーパーにいたんだろう……)
 唯我の父親は、ボーダーの一番大きなスポンサーをしている会社の社長であるらしい。そのことを、修は自身の師匠である烏丸から聞いて知っている。
 修はまさに唯我の言うとおりの「庶民」なのでその辺りのことはよく分からないが、大企業の社長の息子となるとスーパーに買い物には行かないのかもしれない。他はどうあれ、少なくとも唯我がスーパーの勝手を分かっていなかったことは確かだ。
 しかしだとすると、なぜ今唯我はここにいるのだろうか。
 その修の疑問は、直後に聞こえてきた声によって氷解した。
「オイ、唯我!」
 低めの通る声。その声は修にとっても唯我にとっても、知っている人物のそれであった。
 声のした方を顧みると、街灯の下、明るい茶髪の青年が半目でこちらを睨んでいた。
 年は修より二つ上で、唯我の一つ上。服装は戦闘服の黒いロングコート――では当然なく、普通の私服。上着のポケットに手を突っ込み、鼻の頭をいかにも寒そうに赤くしている。
 その姿を視界に捉え、大げさに肩を跳ねさせる唯我の横で、修は彼の名を呼んだ。
「出水先輩。こんばんは」
「よう。メガネくんじゃねーか」
 会釈する修に青年――出水は気さくに応える。
 出水との初対面は、一月ほど前の、大規模侵攻最中のことだ。それから、あれこれと世話になっている。唯我と知り合ったのも、出水を経由してだ。
「い、出水先輩、なんでこちらに?」
「なんでじゃねーよ」
 ようやっとおずおずと掛けられた唯我の問いは、見事に一刀両断された。彼らの部隊の隊長さながらである。
「おまえ、いつまで経っても帰ってこねーし、ケータイ掛けても出ねーし。心配して見に来てやったの」
「……心配してくれるなら最初からついてきてくれればいいのに……」
「間違ったもん買ってったら柚宇さんの機嫌が悪くなるからな」
「心配ってそっちですか!?」
 非道い! とべそをかく唯我を放置して、出水は唯我の足下のビニール袋を覗き込む。そして、少し意外そうに目を見開いた。
「ん、でもちゃんと買えてんのか。ふうん」
「ふふん、そうでしょうそうでしょう」
「調子に乗るな」
 肘で唯我の脇腹を小突きつつ、そこで出水は修が一緒にいた意味に気がついたようだった。無言のまま得心したように二三頷く。
「――ああ、なるほど。もしかしてメガネくん、手伝ってくれた? わりーな」
 修は再び曖昧に笑った。唯我が苦戦したのはもやしだけではない。手伝ったのは否定できないが、かといって修の性格上それを誇るのも気が引けたのである。
「いえ……。これから太刀川隊で鍋ですか?」
「ああ、ウチの隊室でな。メガネくんも来る?」
 修は首を横に振った。自宅に帰れば母が待っている。予定より遅くなったので、もしかしたら心配しているかもしれない。
 鍋と判断したのは唯我が所持していたメモのラインナップからの推測だ。どうやら正解だったらしい。
「いや……遠慮しておきます。母が夕飯を用意してくれているので」
「そ? じゃあまた今度な」
 気にした様子もなく軽く頷くと、出水は唯我をせっついた。
「おら行くぞ唯我、そっち寄越せ」
「は、はい」
「じゃ、またな。メガネくん」
「はい。おつかれさまです」
 出水は唯我の足元のビニール袋のうち、一番重たそうなものが入った一つを持ち上げると、修に別れを告げる。
 修は会釈してそれに応え、背を向けて去っていく二人の背中を見送った。
「あの、出水先輩……ボクの分もありますよね? お鍋……」
「は? ふつーにあんだろ」
「そ、そうですよね」
「なんだよ、要らねーのか」
「い、いや! そんなことは!」
(意外と、って言ったら失礼だけど、仲良いのか……?)
 唯我と出水の会話が夜の静寂のなかに徐々に消えていくのを聞きながら、修はなんとなしにそんなことを考えた。
 そして、自身も家路に就きながら、もうひとつ、気になったことについて考えを巡らせる。
(それにしても……)
(作戦室で鍋って……アリなのか?)
 ボーダーにおいて、B級以上の隊には必ず本部に作戦室が与えられている。
 しかし、玉狛支部所属の修にとって、作戦室とはランク戦前に作戦を確認するための場所であった。
 ……というより、それが本来正しい作戦室の使用用途である。
 加えて、修は今まで何度か他の隊の作戦室を訪れたことがあるが、嵐山隊の作戦室は非常に整った仕事部屋という様子であったし、太刀川隊の作戦室を訪れもしたが、少なくとも修が見た範囲ではそういったものは見られなかったように思う。思えば、何故かゲームが完備されていたような気もするが。
 玉狛支部でチームを組んだ修は知らなかったのだ。
 本部所属の隊の中には、部屋に漫画や雀卓、あるいは映画のディスクなど私物を持ち込む隊が複数存在すること。
 中でも太刀川隊作戦室は本来、月に一度本部職員が清掃に入るような、カオス極まる部屋であること。
 ――知らないほうがよいことというのも存在するのである。
 夜空を背景に吐き出される息は、鍋の湯気のようでもあった。


(おわり)



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アニメOP(差し替え)の唯我くんに腹筋をやられました。
あんまりコメディちっくな話は普段書かないので、精進したいです。

スーパーでバイトしてたとりまるが助けるverも考えていたのですが、二人の関係性がよく分からないので保留にしました。
原作で判明したらそっちのバージョンも書くかもしれません。
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