Navigatoria
※大規模侵攻の直前
※本誌116話のネタバレを含みます






 ふわり、と意識が浮上して、瞼を持ち上げるとそこは一面塗り込めたような暗闇だった。
(……今、何時だ)
 枕元に置いてあるはずのスマートフォンを手探りで引き寄せて、側面にある電源ボタンを押す。眩く光り出す液晶を目をすがめてのぞき込むと、そこには「3:07」と数字が映し出されていた。そうしてようやく、迅は自分があまりに早くに目覚めてしまったことを悟った。
 汗を吸い込んだシャツが肌に貼り付く感覚がある。その上にはいつものジャージ。内側には不快な熱気と湿気が籠もっている。
 思えば、昨晩はかなり遅くまで本部で会議があって、支部に帰るなりそのままベッドに飛び込んでしまったのだった。元々迅の生活は不規則になりがちなところがあるが、最近はそれが特に顕著だ。
 そう、「実力派エリート」は方々で引っ張りだこなのである。……「近界からの大規模侵攻を目前に控える」今の情勢を考えればそれも致し方ないことであろう。「未来を視る」などという風変わりなサイドエフェクトを持って生まれてしまったものの宿命だ。
 寝直そうかとも思ったが、既に意識は完全に覚醒しかかっている。こうなると、いっそこのまま起きていた方が具合が良い。そう考えて、迅はとりあえずとばかりに上着を脱ぎ捨てた。薄手のシャツ一枚という格好は真冬という季節に相応しくはなかろうが、今はひんやりと心地よさをもたらした。
 ついでに身繕いを済ませてしまおうとベッドを下り、ダンボールの山の脇をすり抜け、暗闇の中で適当に服を見繕う。時間が時間だから風呂の栓は抜かれてしまっているだろうが、シャワーならば使えるだろう。昨日の掃除当番は確か自身が「メガネくん」と呼んでいる少年だったはずだから、サイドエフェクトで視たわけではないけれど、きっちり始末がつけてあるに違いない。それに対する申し訳なさと、――意識にのぼった「メガネくん」という言葉に、ツキンと頭の片隅が痛むのを感じながら、迅は衣類を抱えて部屋を出た。
 案の定、風呂場は綺麗に片付けられていて、迅はそそくさと湯で体を流すと、からすも青くなりそうな早さで風呂場を後にした。それでも汗を流したことと、服を着替えたこともあって、気分は幾分かすっきりしている。小南のようにドライヤーで髪を乾かすなんて習慣は迅にはないから、頭は肩にかけたタオルで拭ったきり。いつもは後ろにやっている前髪も今は重力に従って前に垂れていた。
 風呂上がりの水分補給にキッチンに行くと、そこには先客がいた。それに気付いたのは冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターで喉の渇きを癒したあとだった。ダイニングの隅に蹲るそのシルエットはふかふかと丸っこい。
「よう、雷神丸」
 返事などというものはもとより期待していなかったが、たまに人の言葉を解しているような行動を見せることがある玉狛支部のマスコットは、迅の言葉にふてぶてしく鼻息なぞ漏らしてみせた。
 当然のこと、相棒であるおこさまは背中にいない。時刻は深夜、草木も眠る丑三つ時だ。今ごろは布団でお休み中のはずである。「意味もなく部屋に侵入して叩き起こす」という奇天烈なアクションを迅が起こさない限りは、その安眠は「未来視」に保証されていた。
「あれ」
 雷神丸を視界に捉えたのと同時、脳裏に浮かんだ映像にほんのわずかだけ体が緊張する。それは、未来を視たときに起こるいつもの兆候だった。まじまじ雷神丸を見詰めると、そのイメージの輪郭が徐々にはっきりとしてくる。
 そして、その意味を完璧に理解した迅は、うっすら笑みが口許に浮かんでくるのを感じながら食器棚からマグをふたつ取り出してシンクに並べ始めた。
 ――どうやら、この支部にはもう一人、起きている人物がいるようだ。



「お、迅さん」
「よう。……寒くないのか? 遊真」
 もう一人の起きている人物――空閑遊真は、扉の開く音にくるりと振り向いて、そうして迅の姿を捉えると気安い笑みを浮かべた。場所は支部の屋上。彼がしばしばそこで夜を過ごすことを、迅は知っていた。
 空の少し高いところには「遊真のお目付役」を名乗る黒いトリオン兵がぷかぷかと浮いている。
 一月の屋外、少し風も出ていた。しかし、遊真の格好はといえば支部で支給されるジャージの上下、足に至っては裸足だ。間違っても真冬に外に出る格好ではない。
「ヘーキだよ。迅さんは寝なくていいの?」
「目が覚めちゃったからな〜。ほい、遊真」
「どうもどうも」
 両手に一つずつ持っていた湯気の立つマグの一つを遊真に示すと、小さな両手が礼の言葉と共にそれを取った。湯気と共に甘い香りがふわりと漂う。迅のものも遊真のものも、マグの中身はどちらも同じくミルクたっぷりのココアだ。ただし遊真のものはともかく、迅は自分の分のココアの粉をホットミルクに適当に突っ込んだので、量に少々自信がない。少なくとも、ときどきレイジが陽太郎に作ってやっているような鍋から作るココアと同じ出来を期待してはいけない――が、それは自分の胸の内だけに秘めておくことにした。
「今日も「復習」か?」
「いや」
 遊真はトリオン体の身体になってから、眠ることができなくなった。だから彼の夜はとても長い。そんな夜にはレプリカと一緒に戦闘のおさらいをしている、という以前聞いた話を前提にした問いかけだったが、マグに口をつけている遊真は小さくかぶりを振った。
「今日はこっちの世界の「星」についてレプリカに教わってた」
「へえ、さすがレプリカ先生。こっちの世界のことにも詳しいのか」
『それほどでもない。私にあるのはユーゴから与えられた限定的な知識だけだ』
 己が話題にのぼったことに気づいたレプリカの声が少し高いところから降ってくる。
 空を見上げてみるとなるほど、なかなかの星空であった。そこから二人の間で「星」という話題になったのは想像に難くない。
「こっちだと色んな「セイザ」? っていうのがあるんだな」
 あれが何座で、あっちが何座。遊真が指さし、口にする名前は聞き覚えがあるものもあったが、耳馴染みがないものも多かった、ので、迅は曖昧に頷いた。
「あーうん。生まれた時期に対応した星座があって、それで占いをしたりもする」
「ふむ、そうなのか。迅さんのセイザはどれ?」
「おれの星座は春のだから、きっと見つからないよ。……あっても多分分かんないけど」
 迅の誕生日は四月九日、星座ははやぶさ座。……とそこまでは自分のことなので当然知っているが、それがどんな形をしているもので、何時、何処で見られるものなのかは把握していなかった。いくら「未来予知」の能力を持っているとはいえ、知識そのものは迅に依存する。
 厳密に言えば予知によってこの会話の流れは視えてはいたが、わざわざ調べておく必要性は特に感じなかったということだ。
 一方遊真は迅が予想した通り唇をとがらせ、合点がゆかない、という顔をした。
「む、自分のセイザなのに?」
「今あんまり星とか気にしないからなあ」
「星を気にしないのに、いっぱいセイザがあるのか。不思議だな……」
『おそらく、時代と共にこちらの人間の星との関わり方が変わってきたのだろう』
「そうそう、レプリカ先生の言うとおり。昔は方角調べるのに使ったって話もあるけど、今はもっと便利なものが色々あるから」
 方角を調べる、という言葉を聞いた遊真の赤い瞳の向こうに好奇心の光がちらついたのを迅は見た。
「へえ、方角を見るために星を使ったのか」
「うん。北極星がそうだな」
「ホッキョクセイ?」
「レプリカ先生、知ってる?」
 遊真の疑問をレプリカにそのまま投げかけると、返ってきたのは「ああ」と短くも頼もしい返事だった。
『「北極星」、地球の北極の近くにある星の名前だな。詳しい説明は省くが、多くの星が空を移動するのに対し、この星は北の空からほとんど動かない。その性質からこちらの世界では海の上を船で渡るとき、方角の目印に用いられたようだ』
「ふーん。おもしろいな」
 迅も知っている範囲で口を挟みつつ、その後もレプリカによる「向こうの世界」の星の話も交えた星講義は続いた。
 そうして穏やかな夜はゆっくりと過ぎていった。



 気がつけば空は白み始め、長い夜は終わりを告げようとしていた。
 迅はうん、と伸びを一つする。マグはすっかり冷たくなっていた。
「結構話し込んだな〜」
「色々ベンキョウになりました」
「それはなにより……うお、急に寒くなってきた」
 笑みを交わした直後、びゅう、と強い風が吹き付けて、迅は寒さに首を引っ込めた。いつの間にかすっかり湯冷めしてしまっている。よく考えればシャワーを浴びる時点ではこの時間を想定しておらず、迅の服装も遊真のそれと大して変わらない上下スウェットだった。違いは靴下を履いていることくらいのもので、到底人のことを言えた立場ではない。
 おそらく髪が濡れたままだったことも寒さを助長している。手を伸ばして触れた己の髪は未だ湿り気を残しており、外気に冷やされてひんやりとしている。
 そんな様子を見て遊真は茶化すように笑んだ。
「迅さん、オサムに怒られるな」
「うん?」
「「髪濡れたままで外に出るな! 風邪引くだろ!」ってさ」
 当人の口調まで真似てみせる遊真に、いかにも「彼」が言いそうなことだと迅は笑う。というより、実際に言われた経験があるのだろう。その証拠に遊真の髪には風呂上がりに放置された形跡がなく、さらさらとしている。きっとしっかりタオルで乾かしたか、ドライヤーをかけるかしたに違いない。
「ははは、メガネくんならそう言うだろうね」
「カゼなんてひかないのにな、おれ」
 そう呟く遊真の声から感情は読み取れない。しかし結局言われた通りにしていることから悪いように受け取っていないことは明らかだ。そもそも、遊真が風邪を引く体質であろうがなかろうが、「彼」は注意をしたに違いない。トリオンで構成された身体がウイルスに侵されることなどあり得ないと知っていても、濡れた髪のまま外を出歩く遊真をそのままにしておける性格ではないのだ。「彼」は。
 頭の片隅がざわりとする。それを気取られぬよう言葉を選び、結局思ったままを口に出す。
「……メガネくんも、多分それは分かってたと思うよ」
「だろうな。あいつはいっつも余計なことまで抱え込む」
 遊真のことを余計なんて、メガネくんは絶対に思ってないよ――という言葉を、迅はすんでで飲み込んだ。それこそ、わざわざ口にせずとも、遊真本人が一番分かっていることだろう。
 遊真の感情は、表情からはやはり読み取れない。けれど迅は知っていた。出会ってまだ間もない二人ではあるが、その間には確かな信頼が存在することを。
(……いや。それだけじゃない)
 以前ここで遊真と話したとき、遊真は無気力にも感じる声音で「あちらの世界に帰る」と迅に告げた。だが、現に遊真は未だこちらの世界に留まっている。その理由は分かりきっていた。
 「彼」が遊真に目標を与えたからだ。
(――「北極星」)
 先ほどまで話していた「星」の話と「彼」の姿が結びつく。まるで「北極星」のようではないか。自分が正しいと思ったことを曲げず、立場を変えることもなく、放浪する者を導く。
 そこまで考えて、再び思考がざわめき始めるのを感じた。
「なあ迅さん、敵がいつ攻めてくるかはまだ視えてないの?」
「…………う〜ん。まだ何とも言えないな」
「そっか」
 出し抜けに訊いてきた遊真になんとか答えを返すと、遊真は軽く頷いて、じっと空を見上げた。空は次第に明るくなってゆく。
 嘘は言っていない。実際迅も敵がいつ攻めてくるか、正確な時間は分かっていない。
 ただ、遊真に対し、告げていないことがいくつかあった。
 そう、それこそが迅の頭をざわつかせる原因――大規模侵攻の中で起こりうる事態のことだった。
 既にレイジや京介には教えているが、近い未来に発生する近界からの大規模侵攻において、「彼」と後輩の少女はピンチになる。
 だが、遊真に今、それを告げるわけにはいかない。そんなことをすれば、遊真は絶対に二人のそばを離れなくなる。そして、なるべく二人を危険から遠ざけようとするだろう。
 二人の安全を優先するのであれば、無論そうしても良い。……だが、そうすると別の問題が発生するのも事実だった。
 大規模侵攻において、被害をゼロに抑え込むことは、ほぼ無理と断じてよい。それだけの勢力を敵が注ぎ込んでくるのは視えている。その犠牲のいくらかを迅は既に予知していた。
 見知った顔もいくつかそこに混じっている。浮かぶのは顔見知りの隊員の顔、職員の顔――顔、顔、顔。最悪の場合、そこに二人も顔を連ねる。もちろん迅が知っている者だけが犠牲者の候補ではない。区域外にトリオン兵が溢れ出れば、一般人の犠牲者も多数出る。そうなれば、組織としての立場も危うくなる。それを「知」ってしまっている以上、迅はなるべく被害が小さくなるよう努めなければならない。
 ……「未来を視る」などという風変わりなサイドエフェクトを持って生まれてしまったものの宿命だ。
 今、遊真に二人の危機を知らせないのも、迅が考えた対策の一つだ。
 敵の目的は「トリオン能力が高い者の確保」、それは既に分かっている。ならば、敵は目の色を変えて後輩の少女を狙うことだろう。それを逆手に取り、あえて少女を「狙わせる」ことで、敵の目をこちらに向けさせる。
 要は、多くを守るため、迅はかわいい後輩たちを囮にするつもりなのだ。
 もちろん、その場合は少女が確実に危険に晒されることになる。そうなれば、少女を守るためにボーダーに入った「彼」も間違いなく巻き込まれる。ことがあれば、「彼」は我が身をかえりみず危険に突っ込んでいくはずだ。
 「最悪」のことにならないよう、出来うる限りの手は打った。レイジには敵の足止めを頼んだし、巻き添えにならないよう小南と京介を逃がすようにも言った。秀次が敵の攻撃に晒されないよう、上からの指示を聞きたくなくなるような発言を敢えてした。当真には本部に留まって敵を迎撃するように頼んだ。戦いになれば、迅も自分の役割をきっちりこなすつもりだ。……それでも、「最悪の未来」は消えることはない。
 「北極星」を失った船はどうなるか――。考えたくもないし、迅とてかわいい後輩を失いたくはない。
 「玉狛に閉じ込めておけ」という秀次の言葉はもっともだ。出来ることならそうしたかった。それでも、他の犠牲を捨て置いて彼らを戦場から遠ざけることは迅には出来ないのだ。
 すっかり冷めてしまったココアを一気に呷ると、混ざりきっていなかったのかマグの底には黒い塊がどろりとこびりついていた。
 ふわふわと風に揺れる白い頭の横で、迅は昇ってくる朝日を見つめた。それがこれから起きるはずの戦いの始まりの合図なのかどうか。未来を視る彼の眼は、その答えを未だ映そうとはしない。
 星の瞬きを薄れさせ始める空のもと。戦士たちの葛藤や思惑などまるで知らない顔をする世界に、今、新しい一日が訪れようとしていた。

「カゼひかないといいね、迅さん」
「遊真おまえ、ちょっと面白がってない……?」

(おわり)

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Navigatoria=北極星
大規模侵攻前、迅さんにはいろんな葛藤があっただろうなあとか。
ちなみに迅さんがキッチンで見たのは屋上から下りてきた遊真が雷神丸を撫でている映像でした。
20150927
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