ゆりかごの牢獄
※過去ねつ造






 千佳の兄、麟児はどちらかといえば感情の起伏が激しくないひとだった。千佳の記憶の中の兄は、いつでも冷静で、でも冷たさは感じさせない、面倒見のよいひと。そして、七つ年下の妹の千佳にもとてもやさしいひとだった。
 近界民、などと呼ばれて社会に存在を知られる前から「人ならざる気配」――当時の千佳の感覚からすると「おばけ」、に狙われているのを感じていた千佳は、周囲からは一種の問題児として腫れ物のように扱われていた。「おばけに狙われている」と訴えたところでほとんどの人はおかしな子どもの妄想としか捉えなかったし、逃避癖のある困った子どもとしか扱いようもなかったのだろう。
 学校で唯一千佳を信じてくれた友達は、まもなく「おばけ」にさらわれた。「おばけ」の居場所がわかるから、千佳は今まで逃げおおせてきたのだと、そしてそれはほかの人にできないことなのだと、だから誰にも信じてもらえないのだと、そのとき悟った。
 兄はいつでも、ひとりぼっちの千佳の味方をしてくれた。七つも離れているから学校では一緒にいることは出来なかったけれど、友達がさらわれたころは中学校を早退けしてわざわざ迎えにきてくれたし、どことも知れぬ場所まで千佳を探しにきてくれるのはいつでも兄だった。兄は目撃情報を頼りに千佳を捜し当て、「おばけ」の気配に怯える千佳に、少し呆れながらも、静かに手を差し伸べてくれた。
 逃走後、疲れ切っていた千佳を、兄はたびたび負ぶって帰ってくれた。そこまでがっしりした人ではなかったけれどその背は力強く、安心した千佳はよく兄の背中で眠った。
 穏やかで、静かで、優しい。
 そんな兄が、千佳は大好きだった。

「いたっ……」
 強かに打ち付けた膝が焼け付くように痛んだ。その拍子に手から滑り落ちた傘が坂道を転がり落ち、張り出した木の枝に引っかかる。しとしとと降り続ける雨が、容赦なく千佳へと降り注いだ。
 いつもの神社へと続く山道はある程度舗装されているとはいえ雨でぬかるんでいる。千佳が足を滑らせる原因となったのも、雨と泥で濡れた大きな葉っぱだった。
 足首がずきんと熱を持つ。転んだ際に捻ってしまったらしい。じわじわとやってくる痛みと雨の冷たさに涙が滲みそうになったが、泣いているわけにはいかなかった。
(――あと少し……)
 この道の先には、千佳がもっぱら隠れ家として使わせてもらっている神社がある。人も近界民の気配もなく、近界民がここまで追ってきたことは一度もない。雨風も防げ、静かで落ち着ける。休みの日はそこで一日過ごすこともあるお気に入りの場所だった。
(あと少し、がんばろう)
 近くの木に縋って立ち上がる。また転んでしまいそうなので、傘の回収は諦めた。帰るときに拾って帰ろう、そう心の中で決めて、千佳は上着のフードを自分の頭に被せた。
 慣れた山道は、怪我をした足で歩くには厳しかった。いつもだったら五分もかからない道を、たっぷり十分もかけて登って、ようやく目的の場所にたどり着いたころには千佳の上着はずいぶん水を吸って重たくなっていた。
 境内へと上がり、ようやく人心地つく。濡れてしまった上着を脱いで脇に畳んで荷物と一緒に置き、ついでに履いていた靴も脱いでしまう。長靴だったから中に水が染み込むことはなかったけれども、捻ったほうの足は少し赤くなって腫れてしまっていた。
 幸いなことに、千佳がここに到着してすぐ、千佳を狙う「気配」は消えた。おそらく、ボーダーの人が退治してくれたのだろう。そういう意味では千佳がここにいる理由ももうすでにない。しかし、足の痛みが引くまでここから動くことはためらわれた。
(足の痛みが良くなったら、帰ろう……)
 こてん、と柱に頭を預ける。屋根の軒から、雨粒がぽたぽたと垂れ、石にぶつかった。落ちるところはいつも同じなのか、石は少しへこんでしまっている。
 近くの木の根本では小さな緑色の蛙が雨宿りをしていた。生きているのか分からなくなるほどじいっと身動きをせずにいる。瞑想でもしているかのように目を閉じたその姿が少しおかしかった。
 軒端から見える空は相変わらずどんよりとしている。けれど、屋根の下にいるからなのか、濡れた上着を脱いでしまったからなのか、あたりは少し暖かく感じられた。土と木の湿ったにおいがする。ふつうならば多くの人が不快だ、と言いそうな空気が千佳にはなぜか心地よかった。
 負傷した足でここまで歩いてきた疲労と、近界民の危機が去ったという安心感とに包まれて、千佳はいつしか泥のように眠りに落ちていた。

 「おばけ」に狙われるようになってだいぶ経ったころ。千佳は「自分をからっぽにする」ことを覚え、少しだけ「おばけ」に狙われる回数が減った。
 また、数年もすると「おばけ」に「近界民」という名前がつき、それに対抗する組織ができた。兄と、事情をようやく理解した両親は千佳の体質について組織、ボーダーに相談するよう勧めてくれたが、千佳は頑として首を縦に振らなかった。自分のせいで関係のない誰かが巻き込まれるのは、もう見たくなかったのだ。
 でも、「おばけ」はもう正体の分からない「おばけ」ではない。「近界民」という、異世界の怪物。それが分かっただけでも、千佳の恐怖は少しだけ薄れた。
 「自分をからっぽにする」ことが出来るようになり、加えてボーダーが基地を作ってからは、千佳が「おばけ」――もとい、近界民に狙われることは以前よりもずっと少なくなった。それでも、その数はゼロにはならなかった。自分は食べて美味しそうな見た目をしているわけでもないというのに、なぜ狙われるのか。それはずっと、今も、分からないままだ。
 そんなある日、兄に一人の男の子を紹介された。その男の子は千佳と同じ学校に通っていて、学年は千佳よりひとつ上。そして、兄の家庭教師先の子なのだと言った。決して変わった見た目はしていないのに、どこか人と違う空気を纏った男の子だった。
 男の子は、「三雲修」と名乗った。

 ゆらゆらと揺れる自分の体に目が覚めた。一瞬今まで何をしていたのか思い出せなくなったが、周囲に揺れる木々に神社に逃げて来ていた記憶が蘇る。たぶん、あのまま眠ってしまったのだろう。
 けれども妙だ。周囲の風景は前から後ろへと流れているし、なぜだかさっきよりもずっと暖かい。
「……千佳、起きたのか?」
「……えっ!?」
 不意にかけられた声に千佳は思わず飛び上がった。飛び上がろうとして、失敗した。足が「何か」に引っかかり、その「何か」ごと千佳の体は大きく揺れた。肩からずり落ちかけて慌てて掴んだのは、自分のものではないけれど、見覚えのあるような気のする上着だった。
「こら、暴れるな! 落ちたらどうするんだ」
 よいしょ、というかけ声と共に千佳の体が跳ね、ずり落ちそうになっていたのが安定する。
 声は千佳の前から聞こえる。その声も、そのしゃべり方も、千佳にとって耳に馴染んだものだった。千佳は寝起きの少し乾いた喉でその声の持ち主の名を呼んだ。
「修くん……なんでここにいるの?」
「おまえを探しに来たんだ」
 何でもないことのようにそう言い切ったのは、兄の家庭教師先の子――今はもう、それに「元」がついてしまうけれど――の、三雲修だった。
 修は変わった男の子だった。とにかく面倒見がよい。ひょっとすると兄を超えるかもしれないくらい。家庭教師の兄がどう千佳のことを話したのかは分からないが、兄に紹介されてから、学校で見かけるとさりげなく声をかけてくれる。先輩だったこともあって、試験のコツを教えてくれることもあった。さらに、千佳が近界民から逃げていることを知ると、兄と同様に千佳のことを探しにきてくれるようになった。……もっとも、もう千佳はあてどもなく逃げるということはしていないのだけれども。
 修は千佳を負ぶって山道をゆっくりと下っていた。片手で千佳の体を支え、もう片手で千佳の靴やら上着やらをまとめて抱えている。千佳が途中で落とした傘も、修自身が差してきたのであろう傘と一緒に腕にかけられていた。そういえば、いつの間にか雨は止んでいた。千佳が山に向かったのは昼過ぎくらいだったが、どれくらいの時間が経ったのだろう。
「修くん、わたし自分で歩くよ」
「だめだ。千佳おまえ、足怪我してるだろ。なんで連絡してこないんだ」
「……ごめん」
「おばさんがもうすぐ車で下まで来てくれるから、そこまで行くぞ」
 有無は言わせない、とばかりの口調で言いつつも、修の足取りは少しふらついている。しかし、下りると言っても修は聞かないだろう。それは修のプライドとかそういったものではなく、純粋に千佳の怪我を心配してのことだ。きっと、ものすごく心配をかけてしまったに違いない。
 それが分かっているからこそ、千佳にはそれ以上食い下がることは出来なかった。
「ごめんね、修くん。面倒かけて」
「おまえの気にすることじゃない。ぼくの意思でやってることだ」
 いつもの問答。ふと、視界の端に何か輝くものが映った。
 緑色の雨蛙。千佳と一緒に雨宿りしていた、あの蛙だろうか。雨で濡れた背が差し込み始めた夕日できらきらと光っている。蛙は、わざわざ道路の真ん中で、草むらへ向かって飛んでいく。小さくとも、自らの力で。
 千佳の下で修が呟いた。
「暗くなってきたな……急がないと」
 修は優しい。きっと修がいなければ、千佳は潰れてしまっていただろう。
 でも、本当ならば、修にも迷惑をかけたくはないのだ。
 千佳を助けてくれた人は、みんないなくなってしまう。
 大好きだった兄も、友達も、いなくなってしまった。
 もしかしたら修も同じ目に遭うかもしれない。それだけは嫌だ。
 上着を千佳に貸している修の肩は、記憶の中にある兄のものよりも細い。それでもほっとする温かみがある。頭を預けると、汗と混じって修のにおいがした。それに安心してしまいそうになる自分に泣きたくなった。
 千佳を安心させるゆりかごは、一人を選ぼうとする千佳にとっての優しい牢獄でもあった。


(おわり)


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