空を背負って走れ
※最近の展開が未反映なので齟齬があります
※「賢い犬リリエンタール」とのクロスオーバー要素を含みます






「あれ、三人もう行っちゃったんですか?」
 コーヒーの薫る玉狛支部、少し遅めの朝のダイニング。また夜更かしでもしていたのか寝癖の残る頭で下りてきた宇佐美の欠伸混じりの質問に、一人ソファで朝刊を読んでいた木崎は紙面から顔を上げる。
「ああ、朝一でな。弁当持って出かけた」
「そっか、ずっと楽しみにしてましたもんね〜」
 冷蔵庫を開けて中のペットボトルからコップに水を注ぎながら、宇佐美は眼鏡を光らせてにっと笑った。
「――自転車旅行!」

∞∞∞

 澄んだ空へゆっくり昇っていく太陽がアスファルトに三人ぶんの影をやわらかく映していた。影には六個、各人二つの大きな車輪が付いていて、しゃりしゃり、からからという軽快な音とともに回る。春先の空気は暖かく、間を駆ける風が優しく肌を撫で、川辺の草を揺らした。
「おーい、空閑! 転ぶんじゃないぞ!」
「平気平気。相変わらず面倒見の鬼だなーオサムは」
 先頭を元気よく、だが若干危なっかしい手つきで自転車のハンドルを握りペダルを漕ぐのは遊真。その彼に、すぐ後ろで自転車を漕ぐ修が注意を促す。それに対して投げ返された言葉はたいそうのんびりとしたもので、それでは修は引っ込まないだろうと、修の後ろをやはり自転車で走る千佳は思った。千佳からは修の顔は見えないけれど、一人だけ大人用の自転車に乗っている修の顔には冷や汗が浮かび、はらはらした表情をしているにちがいない。
 ……それはおそらく、千佳自身もそうだろう。
 なにせ、コツを掴むことこそ早いものの、遊真ときたら自転車に乗るたび好奇心のままに無茶な運転をして転倒するか、どこかに突っ込んでいってしまうのだ。最近になってようやく一度も転ばずに走れるようになったから、今回の「旅行」に踏み切れたのである。
「おまえな、前科何犯だと思ってるんだ!」
「遊真くん……本当に気を付けてね」
 それはどうやら修も同意見だったようで、千佳も遊真の自転車の先生として一言もの申さずにはいられなかった。
「甘いなチカ、オサム。もうおれは昔のおれじゃない」
 遊真は後ろを振り返ってにやりと笑い、親指まで立てて見せる。が、間を置かず呆れたような修のお小言が飛んだ。
「そう思うならよそ見はやめろ。あと片手を離すな! ふらふらしてるぞ」
 と、言われたそばから遊真の自転車がぐらりと傾いだ。
「おっと」
「ほら見ろ……」

∞∞∞

 BGM代わりに点けていたテレビでは、気象予報士が笑顔で本日の晴天を告げていた。
 水で起き抜けの喉を潤した宇佐美がふと気付いたように首を傾げる。
「そういえばどこに行くんでしょう? 行き先聞いてないですけど」
「俺も詳しくは知らないが、確か川沿いに下ってくって言ってたな」
 宇佐美はええっと素っ頓狂な声を上げた。
「川沿いに下るって、蓮乃辺のほう!? アタシの家があるほうだ! うわー、聞いてたら案内したのに! オススメの温泉があるんですよ〜」
 やけに悔しげな宇佐美の言う「オススメの温泉」には、木崎も心当たりがあった。というよりも、この辺りで温泉と言えば一つしかない。
「八城温泉だろ、知ってる。だが結構距離あったんじゃないか? 自転車乗り始めたばかりの遊真じゃあそこまで行けないだろう」
「あー、そっか。修くんが無理させるとも思えないですもんね。そうだ、じゃあ今度支部のみんなで行きません? レイジさんの運転で!」
「別にそれは構わないが、一度に全員は乗せられないぞ。……いや、ワゴン借りて分乗すれば行けるか」
「よっしゃ!」
 ぐっと拳を握る宇佐美。それを横目に木崎は読んでいた新聞をテーブルに置き、飲みかけのコーヒーを手に取った。淹れてから大分時間が経っているため、真っ黒な水面に湯気はない。
「……あと宇佐美、あまりこっちに泊まり込んでないで、実家に顔出さないと親御さんが心配するぞ」
「スミマセン……新しいプログラムに手が離せなくって〜」
 てへへ、と頭を掻く宇佐美に嘆息し、木崎はカップの中身を飲み干した。
「やれやれ……。さっさと朝飯食え。ああ、その前に陽太郎を起こしてこい」
「あいあいさ〜」
 トースターに食パンを放り込んだ宇佐美が陽太郎を呼びにまた上階へ上がっていく。木崎は冷めてしまった朝食を温めてやろうと空になったカップを持って立ち上がった。

∞∞∞

 ジテンシャでどっか行ってみたい。そう言い出したのは遊真である。
 そもそも遊真は道行く人々が自転車に乗って移動するのを見かけ、その移動スピードと効率の良さにいたく感動して購入を決めたらしい。しかしその彼が自転車に乗れるようになるまでには本人が思っていた以上の期間を要した。
 まず、彼の師匠である小南との訓練や、千佳本人の訓練の時間との兼ね合いを考えてもなかなか十分な練習時間が取れなかった。余裕を見ては修や、玉狛の面々も練習に付き合っていたらしい。それでも大規模侵攻が終戦してまもなくメンバー全員がB級に昇格し、晴れてチームを組んでランク戦に参加するようになると、戦術を考えたり反省会をしたりでどうしてもそちらに気を取られがちになってしまうのだった。
 「A級に昇格し、近界へ遠征に行く」というのは隊共通の大きな目標だ。それは変わらない。それでも、自転車で出かけるというのもやはり遊真の中のひとつの目標としてあったのだと思う。
 どっか行ってみたい、という遊真の言葉に反応したのはそのとき一緒に練習をしていた迅なのだそうだ。
 ――なら、メガネくんたち誘って遠出してくればいいじゃん。
 という彼の発言により遊真が二人を誘ってきたことが今回の直接のきっかけだ。
 修も千佳も賛成し、とりあえず全員が非番の日に自転車による小旅行を敢行することがすぐさま決まった。とはいえ、やはりまだ遊真の運転技術には不安が残る。だから、玉狛支部をスタート地点として川沿いの平坦な道を走っていき、隣町の方まで行ってみよう、あとは適当に川辺とかで遊ぼう、という非常に大味な計画を立てた。その過程で計画を偶然聞いていたレイジがお弁当を作ってやると言ってくれ、なんと重箱でお弁当を持たせてくれた。中身はまだ確認してはいないけれど、レイジのことだ。きっとどれもこれも美味しいものに決まっている。遊真も修も、もちろん千佳も、レイジには完全に胃袋を掴まれてしまっていた。
 そのお楽しみの重箱は風呂敷に包まれて現在、一番大きい修の自転車の籠に収まっている。だからなのか、修の運転は遊真のそれとは対照的にかなり慎重だった。
 道が川に沿ってゆるやかなカーブを描き始め、千佳たちもそれに合わせてハンドルをきる。依然修は遊真の言を借りるなら「面倒見の鬼」っぷりを発揮してちょくちょく遊真にお小言を言っていたが、ちらりと見えた修の横顔は台詞に反してとても穏やかなもので、千佳もつられて微笑んだ。
「もうお昼だ。ここらで休憩しよう」
 太陽が空のてっぺんに登り切るころには、ずっと自転車を漕ぎ続けていた千佳の息は少しだけ上がってしまっていた。遊真はもともと体力が桁違いなのでまだまだ元気そうではあったが、修の言葉に素直に従ってブレーキをかけた。
「おお〜、けっこう遠くまで来たな!」
 ぴょんと自転車を降りた遊真が走ってきた方向を向いて歓声を上げる。つられて千佳も振り返ると、そこには思わず声を上げたくなる光景が広がっていた。
 川と、土手と、家々と、青い青い空。走ってきた道がその中を貫くように延びている。どんなに目を凝らしても、スタート地点である玉狛支部を見ることは出来なかった。
「ここから川辺に行けるみたいだ」
 小脇に重箱を抱えた修が足下を指さした。示された場所には川辺へ下りられる階段がある。
 並んで階段を下りて行くと、そこには先客がいた。長めの黒髪の男性だ。
 川辺に腰を下ろして川に釣り糸を垂れていたその人は三人の気配に気がついてこちらにちらりと視線をやってくる。三人を一瞥したその目は意外そうに見開かれた。
「きみたちは……」
「あ……東さん。こんにちは」
 そしてその姿は、千佳にも見覚えのある人のものでもあった。
 名前は、東という。B級部隊の隊長で、聞いた話によればボーダーで最初に狙撃手となった人なのだそうだ。だから千佳にとっては大先輩も大先輩。本部での訓練では何度か指導してもらったこともある。
 思い出すたび申し訳なくなる記憶だが、初めての訓練で大型狙撃銃により本部の壁に大穴を空けてしまったときも、取りなしてくれたのはこの人だった。
 慌ててお辞儀をする千佳に、こそりと遊真が耳打ちしてくる。
「なんだ、チカ。知り合いか?」
「うん。東さんっていって、合同訓練で先生だった人なの」
「ふむ、ボーダーの先輩か」
 「ぶち抜き事件」のとき遊真もその場に来ていたはずだけれど、取り立てて会話もしていないため特に彼の記憶には残っていないらしい。だが、修にとっては違ったようだ。
「B級6位東隊隊長の東さん……ですよね。初めまして、玉狛支部の三雲です。千佳……こいつがお世話になったそうで」
 すっと千佳、遊真から一歩前に出てそう挨拶をする修の表情には、少しだけ緊張が滲んでいる。その顔はいつもの修ではなく、「隊長」としての修のものだった。それに相対する東はしかし気さくに笑った。
「はは、そんな畏まらなくていいよ。ましてや今はオフだ。それに、雨取さんのことだけじゃなくて、きみたちのことはよく知ってる。いつランクを奪われるかってこっちもひやひやしてるんだ」
「いや、その……」
 困ったように言葉を濁す修。その肩のあたりから向こう側へ遊真がひょいと顔を覗かせる。
「えーっと、アズマさん、だっけ? ここで何してんの?」
「俺は見ての通り、釣りだよ。ここは結構良いポイントなんだ」
「ほう、釣り」
「見てみるか? ちょうどいいタイミングだよ」
 そう言うと、東は手にしていた竿の、手元のあたりについているリールを巻き始める。まもなく水面から飛び出してきたのは、手のひらほどの大きさの銀色の魚だった。千佳は魚には詳しくないから、魚の名前は分からない。
「おお〜サカナだ。これ、食うの?」
「いや、これは放すやつだ。漁協の決まりがあるからな」
 東は糸の先から魚を取り、それをそのまま川へと放った。水の中に戻っていく魚を見送って、遊真は東の話に感心したように頷いている。
「ほう、サカナ釣りにもルールがあるのか」
「そうだよ。食うのはこっちのクーラーボックスの中だ。えーと、きみらは見た感じ自転車でどこか行くとこか?」
 こっち、と指したのは東が腰掛けにしていた箱である。
 修達が下りてきた階段の先、路肩に並べた自転車を見て東は問う。応えたのは修だ。
「はい。川沿いをまっすぐ行って、蓮乃辺の方まで行ってみようと思って。今は時間がちょうどいいので昼ご飯にしようと下りてきたところなんです」
「ああ、もうそんな時間か……俺もメシにするかな」
「アズマさんもよかったら一緒に弁当食う?」
「ん?」
 修と短く顔を見合わせたのちの遊真の言葉に東は訝しげな顔をする。
「えっと、玉狛支部のレ……木崎さんがお弁当を作ってくれたんです。たくさんあるので……」
 千佳が付け足すと、東はなぜか面白いことを聞いた、という顔で小さく吹き出した。
「あー、レイジか。……あいつ、すっかり所帯じみてきてるな」
「え……?」
「いや、こっちの話だ。そう言ってくれるなら、ありがたくお相伴に預からせてもらうよ」
 重箱を包んでいたふろしきを解く。重箱は三段構成になっていた。
 ふたを開けると、一番上の段にはからあげ、エビフライ、ウインナー、アスパラのベーコン巻きがトマトやレタスで彩りを添えられている。真ん中の段には鮭の塩焼き、ひじきの煮物、梅の和え物に卵焼き。下の段には俵型の三色おにぎり。デザートにいちごまであった。
 これらすべてを三人が支部に訪れる前に作ったのかと思うと、レイジに対して感嘆の念しか湧いてこない。
 念のためか、紙皿も割り箸も余分に入っていたのでそれを東に渡す。
 いただきますもそこそこに、三人、そして東は重箱の中に箸を伸ばした。
 しばし無言で箸と口を動かし、三十分も経たないうちに重箱は空になった。三色おにぎりは色合いもさることながらごはんと混ぜ物のさじ加減が絶妙だったし、おかずもよくおにぎりに合った。
 全員の皿も空になったところで、揃って手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさん。あいつ、昔から手先は器用だったが、ここまでとは思わなかったな」
「……東さんはレイジさんと知り合いなんですか? いや、同じボーダーだから知り合いっていうのは分かるんですけど……」
 修がおずおずと疑問をぶつける。それは千佳も思っていた。東の口ぶりは、長い付き合いがある者のそれだ。東は軽く頷いた。
 その後に落とされたのは爆弾だった。少なくとも千佳にとっては。
「あいつは俺の弟子なんだよ」
「「ええっ!」」
「……どうしたオサム、チカ?」
 声を上げたのは千佳だけではなく、修も同時だった。不審がる遊真のつぶやきも耳に入ってはこなかった。
「レイジさんは私の先生なんです……」
「烏丸先輩は、レイジさんの弟子だって言ってたような……じゃあ」
「二人は俺の孫弟子、ひ孫弟子ってことになるな。面白い偶然があったもんだ」
 くつくつ愉快そうに笑う東は、「こうなると無性に顔見たくなってきたな」と呟いた。
「久しぶりに顔を見るついでにレイジに何か作ってもらうってのもアリだな。今日あいつは支部にいるのか?」
「今日は一日休みだってさ」
「そうか、ありがとう。じゃあ今から電話してみるかな。ちょっと失礼」
 そう言うと東は三人から少し離れてポケットから携帯電話を取りだし、電話をかけ始めた。二言三言短く会話すると、「じゃあ頼むな」と言い残して通話を切る。見守る三人の目に気付いた東は指で丸を作った。
「アズマさん、玉狛に来るの?」
「ああ、邪魔させてもらう。もうしばらくはこっちにいるけどな。きみたちはこれから蓮乃辺の方に向かうんだったか」
「はい」
「帰りはどうするんだ? 他の道で帰るのか」
「いえ。空閑がまだ平坦な道しか走れないので、折り返してくるつもりです」
「へえ……じゃあ、夕方くらいになったらここに戻ってくるといい」
「え?」
 東の提案に千佳たちは一様に頭に疑問符を浮かべる。
 三人は朝支部を出発し、昼にここについた。帰りも同じくらいの時間がかかるはず。そう考えると、あまり遅くならないうちに支部に戻ろうと思えば、夕方より前にはこちらを発っていないと間に合わない計算になる。
「今日は車で来てるんだ。きみらの自転車も乗る大きさだし、きみらさえよければ弁当の礼に支部まで乗せて行くよ」
 三人は顔を見合わせる。
「……どうする? せっかくならお願いしようか」
 修の言葉に千佳は頷いた。自転車に乗る時間は少し減ってしまうけれど、その分遊ぶ時間は増えるし、せっかくの申し出を断ってしまうのも申し訳ない気もした。ジテンシャはこれからもまだまだ乗れるしな、と遊真も特に異を唱えるつもりはないようだ。
 修が代表して東に同意してみせた。
「じゃあ、お願いします」
「了解。そういや、蓮乃辺には何か用事でも?」
「サイクリングです。どこかで川遊びでもしようかって話にはなってるんですけど」
「……少なくともここじゃないとこの方がいいな。サカナがびっくりして釣れなくなる」
 不意に口を挟んだ遊真に東がかすかに目を瞠る。
「空閑くん……だったか。もしかしてきみも釣りをしたことが?」
「うん、まあ。昔ちょっと」
 玉狛支部に初めて訪れた日、陽太郎と一緒に夕飯の確保に乗りだした結果、見事トリオン兵を釣り上げて帰ってきたことは記憶に新しい。
 東はうん、とひとつ頷く。
「そうか、確かにそうしてもらえるとありがたいな。川遊びなら、しばらく下って行った先に砂利が敷いてあってそんなに深くない、良い場所があったはずだ。よかったら行ってみるといい」
「そうなんですか。ありがとうございます」
「ただ、まだ気温はそんなに高くないし、うっかり足を取られることもあるからくれぐれも気を付けろよ」
「分かりました、気を付けます。よし、そろそろ行こうか。じゃあ東さん、また後で」
 階段を上がり、再び自転車にまたがった千佳たちに、東が小さく手を振っていた。
 会釈を返し、三人は再び青空を背にして走り出した。
 
 自転車でまたしばらく走って行ったところに、岸辺に砂利が敷き詰められた区域が見えた。どうやら子供たちが遊べるように、という目的で作られた場所のようだ。「川で遊ぶときの約束事」と書かれた看板が、岸に下りる階段の横に立てられている。
「ここがアズマさんが言ってたとこかな?」
「たぶん……下りてみようか」
 川遊びに適した季節ではないから、他に人影は見えなかった。岸辺に立つと、遊真はさっそく靴を脱ぎ、ズボンの裾をたくし上げて砂利の上を流れる水に足を浸している。
「水が気持ちいいな。二人も来いよ」
「足を滑らせないようにしないとな――ぅわ、つめたっ!」
 その後に続いた修は水に足を浸けるなりのけぞった。どうやら予想していた以上に水温は低かったらしい。修は恨めしげに遊真を睨んでいるのに遊真は涼しい顔だ。チカも来いよ、という目で遊真がこちらを見たが、修の様子を見て今回は遠慮させてもらうことにした。
 しばらく二人を眺めていた千佳の視界の隅に、「あるもの」が映る。ふっと昔のことを思い出して、千佳はそこへ歩み寄った。
 修は意地のようなものがあったのか、顔をひきつらせながらそのまま粘っていた。
 と、不意に足下から石を拾い上げ、ためつすがめつし始める。やがて丸っこい石をひとつ選ぶと、それを水面に向かって構えて投げた。
 ぱしゃん、ぱしゃん、と石は水面を跳ね、やがて波紋を残して水中に沈んだ。 そこらを歩き回っていた遊真が感心したような声を上げた。
「おお、オサムなかなかやるな」
「小さい頃よくやったんだよ」
 修の答えに納得したように頷き、消えていく波紋を眺めながら、遊真は何気ない調子で、
「そういえば、昔親父もやってた気がするな」
「……そうか」
 新しく石を探していた手を止め、修は凪いだ瞳で遊真を見た。返す声は静かなものだった。
 ちょうどそのとき、千佳が作っていた「あるもの」が完成した。久しぶりに作ったわりにはそこそこうまくできたような気がした。そっと水に浮かべると、それは水の流れにそって滑り出す。意図したわけではなかったけれど、それは遊真と修のすぐそばまで流れていった。
「……お、これは?」
「草船っていうの」
 気付いた遊真が「それ」を拾い上げる。鮮やかな緑色をした「それ」は、川辺に群生していた草で作った小舟だ。修も舟をのぞき込み、息を漏らした。
「懐かしいな。競争とかするだろ」
「うん」
 それを最後にやったのはどれほど前のことだったか。もう遠い昔のことに感じる。十四の誕生日を迎えたばかりの千佳の「昔」など、数字の上では大した年数ではないけれど。
 競争、という言葉に遊真が反応する。
「ほう……やってみたいですな。どうやって作るんだ?」
「ええと、生えてる草をね……」
 遊真に簡単に作り方をレクチャーし、しばらく経つと三つの小舟が出来上がる。最初に作ったものを見ながらもう一度新しく作った千佳の舟。頼りない記憶を手繰りながら作った修の舟。そして見よう見まねで作った、少し不格好な遊真の舟。
 せーの、というかけ声と一緒に作った草船を水面に浮かべる。やはり形が一番綺麗で安定しているのは千佳のものなのでトップに躍り出るかと思われたが、意外と遊真の舟も負けてはいない。修の舟はその後にやや遅れるようにして付いていっている。やがて押し合いへし合いしているのか、あるいは支え合っているのか、三つ一緒にくっついて川下へと消えていった。
 それらを見送って、見合わせる千佳たちの顔には何とも言えない苦笑が広がった。
 その中に照れが混じっていることには気付いていた。
 なにか、今の自分たちに似ているような気もしたから。

「あれ?」
 ひとしきり遊んで満足し、近くのコンビニで軽く補給。さあこれからもう一走りして戻ろうとなったところで、怪訝な顔をしたのは遊真だ。その視線は彼の愛車へと注がれている。
「どうした空閑?」
「ジテンシャがなんか変な気がする」
「自転車が……? ちょっと見せてもらってもいいか」
 修は遊真の自転車を何度か前後に転がしてから、横でかがみ込む。そして何度かタイヤに触れ、ようやく顔を上げた修の顔は翳っていた。
「……これ、パンクしてるな」
「ぱんく?」
 修の台詞をおうむ返しに唱える遊真に千佳は説明する。
「自転車のタイヤ……この輪っかに、穴が空いちゃうことだよ。どこかでガラスとか踏んじゃったのかな」
「ふむ……その場合は、どうすりゃいいの?」
「普通は、自転車屋に持って行って直してもらうんだ。でもこの近くにあるかな……千佳、検索してもらってもいいか?」
「うん、分かった」
 修に言われて千佳は提げていたポシェットからスマートフォンを取り出す。だんだん空気が抜けていくタイヤに比例して徐々に萎んでいく遊真の表情を見るのが辛くて、千佳は急いでスマートフォンの画面に指を滑らせた。このままだとせっかくの一日が哀しい終わり方をしてしまう気がした。
 だが、救いの手は思わぬところから現われた。
「どうしたの? きみたち。そんなところで」
 路肩に立ち尽くす三人にかかる声があった。優しげな男性の声だった。
 顔を向けると、いかにも人の好さそうな顔をしたつなぎ姿の青年が、気遣わしげな表情を浮かべてこちらを見ていた。
「……もしかして、自転車がパンクしちゃったのかい?」

∞∞∞

 日がほとんど沈みかけている空を仰いで東はうーんと首をひねった。具体的な時間を約束したわけではないが、昼間会った三人組の戻ってくる時間は「夕方」のはずだ。だがもうそろそろ「夜」と呼ぶに相応しい時間である。
 東の心を占めているのは心配だ。遊びに夢中で時間を忘れてしまっただけならいい。だが、中学生とはいえ子供だけで遠出した先で何かトラブルにでも巻き込まれたのではなかろうかとそれが気がかりだった。
 もう少しだけ待って、戻ってこないようなら支部にいるはずのレイジに電話をしてみようと独り決めをする。東はあの三人組の個人的な連絡先を聞いていないが、レイジならば知っているだろう。あるいは、車を出しに行って様子を見に行くか。中古で買った東の愛車は今は近場の駐車場にあった。
 ちょうど空に居残りしていた最後の日差しが山の向こうに隠れたとき、遠くから東を呼ぶ声がした。
 見ると、昼間見た三人組が自転車で駆けてくるところだった。
「東さん、お待たせしてすみません……!」
「それは別にいいが……大丈夫か? なにかあったのか?」
 東の前までくると、息を荒げ、額に汗を浮かべた三雲が頭を下げた。その顔を見て、なんとなく遊びに熱中していた感じではないなと判断する。
「もうしわけない、おれのジテンシャがパンクしてしまいまして」
「パンク?」
 言われて空閑の自転車を見るも、特にパンクしていたような痕跡は見当たらない。
「その割には直ってるようだが……取り替えてきたのか? 向こうで修理屋を探すのは大変だったろう」
「それが……すごい男の人に助けてもらったんです」
「あれはカミワザだった。おれの目でも全然なにやってたのか見えなかった」
「……話がよく分からないんだが」
 興奮気味に話す雨取と空閑。だが話の流れがいまいち読めず、眉をひそめる東に解を与えたのは三雲である。
「通りすがりの人だったんですけど……パンクして困ってるって言ったら、その場で応急処置してくれたんです。……一瞬で」
「一瞬で? 冗談だろう」
「いえ……本当です」
 つい真顔になってしまう東だが、対する三雲もまた真顔だった。
「ついでに他の調子悪かったとこも全部直してくれた。一瞬で。そのあと、ジテンシャ屋に案内してくれたけど、ジテンシャ屋のおっちゃん、直すとこないって言ってた」
 だから、空気だけ入れてきたのだと空閑は言う。どうやら冗談ではなさそうだった。
「はあ……世の中にはすごい人がいるもんだな」
 思わず唸る東をよそに本人たちもテンションが上がっているのか頬を紅潮させて新しい出会いについて盛り上がっている。
 ……どうやら、いい出会いが出来たようだった。それも旅の醍醐味であろう。思わぬ出会いは人をときに成長させる。
 保護者がいたらきっとそうはならなかった。たまには庇護を外れ、自分たちの考えで行動してみるのもよい。もしそれで何か問題が起きてどうしようもなくなったら、そのときは大人がフォローすればいいのだ。
 東は自らの隊に所属する高校生二人を脳裏に描きながらそう思う。
 三雲があっと小さく呟いた。
「……そうだ、名前聞き損なったな」
「しまった。ちゃんとお礼したかったのに。カミワザの人」
 空は夜の闇に支配され始めている。冬ももう終わりとはいっても、日暮れは早い。あまり遅いと待っているであろう弟子に迷惑をかけてしまうと、東は三人に声をかけた。
「よし、じゃあそろそろ君らのホームに向かうか。車を出してくるからちょっと待っててくれ」
 荷台に三人分の自転車を乗せ、発信させてしばらく。東は赤信号でブレーキを踏んだ。
 いつの間にか静まり返っていた背後が気になって車内ミラーを覗いてみる。果たして東の予想通り、少年たちは静かに寝息を立てていた。
 とは言っても、全員ではなかった。まるで兄妹のように頭を寄せあって眠る三雲と雨取の横で、ただひとり、空閑だけはぼんやりと窓から外の景色を眺めていた。その空閑は鏡越しの東の視線に気が付いたのか、顔をこちらに向け、しぃ、とひそやかに口元に指を立ててみせる。表情は少しだけ申し訳なさそうだ。東は破顔し、無言のまま首肯した。
 信号が青に変わった。車をなるべく静かに発進させる。
 遠くに玉狛支部の灯りが見えてきた。
 ――終着点まで、もう間もなくだ。


(おわり)

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ぴくしぶより再録
ランク戦関係の云々や東さん関係全般は妄想ふんわり仕様なので原作の内容如何によって修正するなりしていくと思います(まだ出来ていません。すみません)
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