「瑠衣は飛鳥と共通の遺伝子を持っている。俺の願いを瑠衣は理解して、受け容れてくれたんだ。俺が死んでも、飛鳥と俺の遺伝子を持つ子どもが残る。飛鳥に生きる希望を残したい。今の俺が飛鳥のためにできるのは、それだけなんだ」
僕の生きる、希望。
僕は細い腕に抱かれた愛らしい子に視線を向ける。
ルイを介して、サキは僕との遺伝子を残そうとした。
『……そうだね。人道的には赦されないことなんだろう。無責任な行為だと非難されても仕方ない。だけど、俺にはこうすることしか考えられなかったんだ。理解してもらえるとは思わない。ただ、兄さんには知っていてほしかった』
死の間際にも、サキは僕のことを考えてくれていた。
そして、ルイは全てを承知でサキの計画に加わった。
僕の姉は自分の意思に反して何かをするような性格ではない。サキの考えを聞いて、自分もそうしたいと願ったからこそ進んでサキに加担したはずだ。
その覚悟は、僕がサキの死を受け容れようとしたものよりもずっと強いものであっただろう。
そして死の間際に、サキはユウにこの秘密を打ち明ける。
『──だから、兄さん。飛鳥のことを、頼みたいんだ』
サキの声には、揺るぎない決意がこもっていた。僕の知らないサキが、隠されていた真実を淡々と語っていく。
『兄さん、俺は怖いんだ。どんどん自分が自分じゃなくなっていく中で、飛鳥が哀しむ姿を見続けることが怖い』
ああ、サキ。僕なら大丈夫だ。
いや、そうじゃない。大丈夫だと自分では思っていたんだ。どんな困難も、サキとなら乗り越えられるって。
病気が進行して指の一本をも動かすことができなくなるときが来れば、僕がサキの手となり足となる。サキが抱きしめられないなら、僕が抱きしめる。心も身体もいつも寄り添って、僕はサキと一対になる。
あの頃の僕は、サキの全てを背負いたいと願った。
けれど、サキはその時が訪れるのを心の底から怖れていた。
『飛鳥のことは、兄さんにしか頼めない。お願いだ』
サキはユウに僕のことを託した。僕のことだけではなく、ルイのことも。そして、生まれてくる新しい生命のことさえも。
託すしかなかったのだ。余命幾ばくもないとわかっていながら、少しずつ身体の機能が死んでいくのを実感しながら。
じわじわと生きる力を蝕まれ、やがて残酷な死を迎えることに、サキは耐えられなかった。
もしかするとサキが怖かったのは、僕が傍にいたことなのかもしれない。
確実に訪れるサキの死について、僕は考えまいとしていた。けれど、心のどこかで常に恐れていた。
物心ついた頃からいつも傍にいたサキがいなくなってしまった後、自分がどうやって生きていけばいいのかを、想像することもできなかった。
だからサキは、僕に希望を残した。
『兄さん。今までありがとう』
一瞬の間を空けてから、小さな溜息が聴こえた。サキの声は途絶え、そして──。
廻る螺旋はそこで解け落ちた。
僕たちを包む世界が、急速に時間を取り戻していく。
一筋の涼やかな風が辺りを駆け抜けた。
ルイが僕の前で、艶やかな唇を動かした。
「この子を産んだのは私。私の子よ」
小さな命は、母の胸に抱かれてじっと僕を見つめる。ただ、ひたむきに。
その澄み切った瞳は、紛れもなくサキと同じ色をしていた。
「だけど、この子は沙生とあんたの子でもある。言ったでしょう？ この子は沙生の希望。そして、それと同時に飛鳥の希望なの」
「……名前は、何て言うの」
僕の問いかけにルイは少しだけ目を瞬かせて、そして微笑んだ。薔薇の花が咲くように美しく。
「希望の希と、未来の未──希未(ノゾミ)」
希未。
頭の中に、その文字が明確に浮かぶ。
この子が、サキの残した希望。
改めてまじまじと母に抱かれる子を見つめる。
柔らかそうな栗毛が、風にふわりと揺れる。僕は恐る恐る歩み寄り、ルイの傍まで辿り着く。
ゆっくりと、本当にゆっくりと。手を伸ばしてその頬に触れた。
壊れてしまわないかと不安に思ったけれど、柔らかな弾力の肌は指先に優しく吸いついた。
「あー」
清らかな声をあげながら僕を見てその子は笑う。なぜかその声が僕の名を呼んでいるような気がした。
ぷっくりとした頬はほんのりと赤く、桜色に色づいた唇はきれいな形をしている。
長く伸びた睫毛の下で、サキと同じ色をした瞳が僕を見上げていた。
ああ、サキ。僕は今、確かにサキの希望を受け取ったよ。
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