「タクマさん」
穏やかな声が耳元で優しく響く。
軽く揺さぶられて重い瞼を開ければ、微笑みながら俺の顔を覗き込むハルカのきれいな顔が目に入った。眼差しの美しさに吸い込まれそうだ。
「おはよう。起きられる?」
そうか、今日は早起きしようとしていたんだ。いつものように惰眠を貪ろうとしていたことに、慌てて時計に目を走らせる。まだ早い時間に安堵しながら息をついた。
「おはよう、ハルカ」
身体を起こしながら小さな頭を片手で引き寄せて軽く口づける。甘く香しい匂いは、俺に素敵な目覚めを与えてくれる。何度か唇を啄めば、ハルカはくすぐったそうに目を細めて瞬きをした。 ああ、かわいいな。このままこうしていたいのに、今はそれが叶わないことが悔しい。
「ミチルは?」
3人で寝ていたはずなのに姿が見えないことに気づいてそう訊けば、ハルカはクスリと笑って俺の頬を撫でた。
「大丈夫。もう起きて、準備してるよ」
一番しっかりしないといけないはずの俺が出遅れているらしかった。後ろ髪を引かれる思いでハルカから離れて浴室に直行し、軽くシャワーを浴びる。
リビングに入ると、食卓ではハルカとミチルが楽しそうに会話を交わしていた。 愛おしいこの光景を、もう見ることはないのだろう。
「ミチル、荷造りはできてるか」
そう問いかければ、大きな目でこちらを見上げて頷く。
「うん、大丈夫。いつでも出られるよ」
ミチルの表情は、憑き物が落ちたようにすっきりとしていた。もう決意は固まっているんだろう。眼差しは清々しく、ちゃんと力が籠っている。 まるでゆっくりと羽化する蛹を見ているようだった。ミチルはきっと、これから少しずつ本来あるべき姿に戻っていくに違いない。
だから、俺も覚悟を決めたんだ。
3人で囲む最後の朝食は2人分しか用意されていない。朝は食べないんだと言ってハルカはそっと微笑んだ。 ふわふわのスクランブルエッグ、こんがりと焼いた厚切りのベーコン、優しい舌触りのコーンポタージュ、艶々としたグリーンのサラダ。ハルカの作ってくれた料理はおいしいはずなのに、なぜか味覚がきちんとついてこない。どこか砂を噛むように、ただ味気なく咀嚼していく。心の中をいろんなことが占めていて、俺には目の前のものを味わう余裕さえないのかもしれなかった。
食事を終えて、各々身支度を始める。久しぶりに袖を通した淡いブルーのワイシャツにはきちんとアイロンが掛かっている。ハルカが前もって用意してくれたに違いなかった。 グレーのスラックスを履いて、シンプルな濃紺のネクタイを手にすれば背後から近づいてきたハルカがするりとそれを抜き取った。掌の上をシルクが滑らかに流れていく。
ハルカは俺の首にネクタイを回して、慣れた手つきで結び出した。その仕草は流れるように美しくて、つい見惚れてしまう。
「うん。きちんとした格好もすごく素敵だ」
そう言って結び目をそっと締めながら、ハルカは軽く背伸びをする。ふわりとした優しい匂いが甘く鼻腔を擽って、屈み込むよりも早いタイミングで微笑みが近づいてきた。チュ、と音を立てて啄ばんだ唇は真綿のように柔らかい。 何これ、新婚みたい。最高。
「拓磨さん、ニヤけ過ぎ」
「うるさい」
呆れたようなミチルの声が聞こえてくるのもかまわずに、俺は細い腰を抱き寄せて深く口づけ直した。挿し込んで絡ませた舌は求めた分だけちゃんと応えてくれる。 ハルカに言わせれば今日は俺たちが一緒に過ごす最後の日なんだ。これぐらい堪能したって、罰はあたらない。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
玄関先で見送ってくれるハルカの笑顔は朝陽を浴びて一層美しく輝く。それでも特有の憂いを帯びていて、手を差し伸ばして頬に触れると煌めく眼差しが不安げに揺らめく。
「今日中に帰ってこれそう?」
控えめな言い方だけど、ハルカがそれを望んでることはわかる。もちろん日付を跨ぐほど遅くなるつもりはなかった。
「ああ、帰ってくるよ。留守番を頼むね」
そう言ってから、俺はずっと抱いていた懸念を恐る恐る口にする。
「だから、俺がいない間にこのままどこかへ行ってしまったら駄目だよ。わかった?」
「大丈夫だよ。約束する」
きっぱりと言い切る口調にひとまずは安堵するけど、ここを出て行くつもりであることには変わりないんだろう。 本当は片時も離れたくない。このままハルカを一緒に連れて行きたかった。でもさすがにそれは無理だということも、わかっていた。
小柄な身体にデイパックを背負ったミチルが、ハルカと向き合う。その顔は、ここへ来た3日前よりもしっかりとしているように見えた。希望の射した明るい表情だ。けれどゆらゆらと揺れる瞳は、今にも泣き出しそうに潤んでいる。
「ハルカ、ありがとう」
遠慮がちな声で礼を言うミチルを、ハルカは両手を差し伸ばして優しく抱きしめた。俺の目の前で出会った、互いに見知らぬ者同士だった2人が、今度は別れを迎えようとしている。この時間はなんて短くて濃密だったんだろう。
「お礼を言うのは僕の方だ。ありがとう」
ハルカの身体を抱き返す手はまだ少し小さいけれど、強く力が込められていた。1人ではどうにもできない時にその手を伸ばすことを、ミチルはもう忘れないだろう。
「どうして? 僕、何もしてないよ」
戸惑いながらそう問いかけるミチルに、ハルカはかぶりを振りながら言葉を紡いでいく。
「ミチルには大切なことをたくさん教えてもらったよ。今いるところから飛び出すのは、とても勇気がいることだ。ミチルは本当にすごいと思う」
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