the 3rd day[8/12]

真っ直ぐに前を向いて泳ぐ魚の群れを見るアスカは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

青い光を仄かに反射するその姿は、繋ぎとめておかなければ今にも水に溶け込み泡になって消えてしまいそうだった。

「いいよ、ほら」

そう返事をして、手を差し出す。どうせ周りは知らない奴ばかりだ。どう思われようと知ったことじゃない。

アスカの手を取って指を絡めてやると、繋いだ手をしっかりと握りしめてきた。

指の長い、華奢な手だ。

少しひんやりとしたその感覚を心地よく感じながら、俺は気づく。

アスカとは身体を重ねてはいるが、手を繋いだのはこれが初めてだということに。

「カズミさん、ありがとう……」

呟くように言うアスカは、潤んだ瞳で目の前の水槽をただじっと見つめていた。





この水族館の目玉だというイルカショーの上演中も、アスカは心ここに在らずという感じで、まるで上の空だった。

全く楽しんでいる様子はない。

イルカが弧を描いて宙を舞う度に、跳ね上がる水飛沫を残影を追うように眺めている。

ぼんやりと虚空を見つめるアスカの手を引きながら、館内を周遊していく。

それまで無表情だったのに、ぴょこぴょこと歩くオウサマペンギンを見たときだけ、アスカはほんのりと笑みを浮かべた。

「子どもって、ペンギンが大好きだよね」

何かを懐かしんでいるような微笑みだ。

その様子に、俺はようやく気づく。

ここはアスカにとっての大切な想い出の場所なのだと。

俺は何もわからないまま、アスカの過去に付き合わされているのだろう。

深い青の中を優雅に泳ぐ極彩色の深海魚を、アスカの隣で眺める。

冷たく暗い海の底で生きるこの魚は、自分がどれだけ鮮やかな色をしているのかを知らない。





館内を一周して辿り着いた最後のコーナーには、美しくライトアップされたクラゲの水槽が並んでいた。

暗闇の中で色とりどりの光を纏って発光するクラゲは、傘を広げては窄め、長い足を縺れさせながら自由気ままに水中を揺蕩(たゆた)う。

水に溶け込みそうな儚げな姿は、狭い空間の中で伸びやかに揺れ動く。

とりわけ目を奪うネオンブルーに染まった水槽の前で、アスカは立ち止まった。

光り輝く青い生物がゆったりと泳ぐ様を、目で追っていく。

キラキラと宝石のように煌めくその姿は、ひときわ美しい。

『ギヤマンクラゲ』

水槽に掲げられたプレートの文字を読んで、その名を確認する。

「ギヤマンって、ガラスのことなんだな。確かにきれいだ」

何気なくそう呟いた途端繋いだ手を強く握りしめられて、思わず振り向けば静かに涙を流しているアスカの横顔が見えた。

この世界の全ての哀しみを背負うかのような、悲愴で美しい泣き顔だった。

「おい、アスカ」

狼狽えた俺の呼び掛けにアスカは俯いて、その拍子に幾つもの大粒の涙がはらはらと落ちていった。

「ごめんなさい」

華奢な肩が、小さく震える。

「ごめん……」

俺に言っているわけではないのはわかっていた。

じゃあ、誰に謝ってるのだろう。

問い掛けたいのを堪えながら、俺は繋いでいた手を解いて、アスカの腰に腕を回して抱き寄せる。

本当なら恥ずかしくて仕方のない状況のはずなのに、人目もはばからずに涙を流すその姿はあまりにも痛々しくて。

「いいよ、アスカ」

赦しの言葉を掛けずにはいられない。

息を殺しながら涙を零し続けるアスカの細い腰を引き寄せながら、幻想的な青に浮かぶガラス細工のような生き物を見つめ続けた。





夕暮れが近づいている。

帰りの車の中で、アスカは少しずつ落ち着きを取り戻しているように見えた。

「……全部忘れられると、思ったんだ」

フロントガラス一面に拡がる青とオレンジのグラデーションを眺めながら、アスカはぽつりと呟いた。

「でも、どうしても……」

美しいカーブを描く頬に落ちる睫毛の影は、小刻みに揺れている。

アスカの抱えるものが何なのか、俺は知らない。

けれど、背負う荷はその細い肩には重過ぎるような気がした。

何の慰みにもならないことはわかっていながら片手でステアリングを握りしめ、空いた手を伸ばし繊細な作りをした手を取って繋いだ。

それに応えるように絡めた指にゆっくりと力が込められて、少し冷えた掌の感触が伝わってきた。

「僕、カズミさんのことが好きだ」

唐突にアスカがそんな告白をしてきた。

「何となく感じるんだ。カズミさんは、過去を生きている人だって。だからこそ余計に僕はカズミさんに惹かれてるのかもしれない。契約したこの4日間は、あなたに全てを捧げたい。本当にそう思ってる」

過去を生きている。

それは、肉体はここに存在するのに魂が記憶の中を彷徨っているということだ。

車を高速道路の路肩にとめる。身体を助手席側に向けてから、右手をアスカの頭に回してこちらへと引き寄せた。

穏やかで優しい口づけを交わす。

柔らかな弾力の唇を割って舌を挿し込めば、甘い吐息が流れ込んできた。

「ん……」

身を乗り出しながら抱きついてくる身体をしっかりと支えてやる。

アスカ。お前も、記憶に引き摺られて生きているんだな。

俺と同じように。

「カズミ、さん……」

唇を離せばアスカは恍惚とした顔をしていて、熱っぽく名前を呼んでくる。

それほど深いキスではなかったのに、その瞳にはもう溢れんばかりの情欲が浮かんでいた。



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