縋るような口調だった。囁きに近い小さな声が、その響きを灼き付けるように耳を刺す。
『それで、全部……忘れるから』
昔から幸也が俺を慕っていることは、わかっていた。けれど、まさかそんな想いを抱かれているとは思ってもみなかった。
頭の中を子どもの頃からの記憶が走馬灯のように駆け巡り、幸也の言動のひとつひとつに俺への恋情が絡んでいたのだと理解した途端、ストンと全てが腑に落ちる。
今、目の前の幸也は、出逢った頃と同じように困惑を浮かべたあどけない顔で、それでも視線を逸らすことなく真っ直ぐに俺を見つめていた。
これでも俺は幸也のことを、家族のように思っていた。だから、それとは全く別の感情をぶつけられても戸惑いしか感じられない。
けれど、こうして幸也と逢えるのはもうあと僅かだ。だからこそ、片時でもその気持ちに応えてやらなければいけないような気がしていた。
今まで俺は、空と過ごしたプラチナの夜の記憶に縋って生きてきた。
それと同じように、俺との想い出で幸也がこれからもちゃんとこの世界を生きていけるのなら。
『わかった』
俺の返事に、長い睫毛が大きく震える。
『お前の望みどおりに抱いてやるよ』
受け入れられるとは、思ってなかったのだろうか。
呆然と俺を見つめるその瞳が、みるみる潤んでいく。
『……ありがとう』
幼かったあの頃、俺が抱きしめたときと同じ輝きをしたきれいな涙が、ゆっくりとその頬を伝い落ちた。
シャワーを浴びた後の火照る身体を持て余しながら、1人所在なくベッドに腰掛ける。
部屋の灯りを全て消して、しばらくぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた。
遠くに煌めくイルミネーションを頼りにじっと窓の外を眺めていると、次第に目が慣れてくる。
視界に入るソファの輪郭を無意味に視線でなぞっていく。
自分の鼓動がやけに速くなっていることに気づいていた。妙に心が浮ついた感じがする。
このまま帰った方がいい気がするのは、恐らく幸也と寝ることを嫌悪しているからじゃない。
胸につかえたわだかまりの正体を確かめようと、そっと目を閉じる。頭の中に靄のようにじんわりと拡がっていくこれは、きっと───罪悪感だ。
過度に緊張していることを自覚して、ゆっくりと息を吐いた。
どうかしてる。この状況も、そこに身を置く俺自身も。
壁の向こう側でバスルームの扉が開く音がして、しばらくすると細身のシルエットが静かに部屋に入ってきた。
暗がりの中で、白い上質のバスタオルを腰に巻いたまま、幸也は迷うことなく真っ直ぐにこちらへと歩み寄ってくる。
瞳に覚悟を宿しながら俺の目の前に立ち尽くすその姿は、不思議なくらいに艶やかな色気を纏っていた。
『てっきり、もう帰ってると思ってた』
冗談のように軽い口調でそう言って笑う。けれど表情は硬く、幸也もまた緊張しているのだとわかった。
何度もそうしようと思ったよ。口にしようとして、闇に慣れた目に飛び込んできた異質なものに俺は息を飲む。
『幸也、それ……』
『……ああ』
諦めたような、悲しげな表情。その肩先には何かの模様が見えた。
『まだ完成してなくて、途中なんだ』
そう言って、幸也はバスタオルを翻しながら後ろを向いた。何も身につけていない後ろ姿に、俺の目は釘付けになる。
ホームに来たばかりの頃、幸也の背中に拡がっていた、夥(おびただ)しい打撲痕。
それはもう、とうに消えていて。代わりに背中一面と肩から両肘までを覆うのは───。
大輪の牡丹と、それに群がる何匹もの蝶。
灯りを点ければきっと、そこには目を奪うように鮮やかな花の色がはっきりと見えるのだろう。
『一海。僕はもう、戻れないんだ』
落ち着いた静かな声だった。
感染性の病のようなその彫りは、少しずつ拡がりながら幸也を蝕んでいく。
『怖くなった?』
振り返った幸也は、無理に笑顔を作ろうと唇の端を上げる。
俺はその背中に手を伸ばす。牡丹の花にそっと触れると、幸也はビクリと身体を強張らせた。
指先でゆっくりと花の輪郭を辿っていくうちに、不思議な昂揚感が湧き起こってくる。
まるで自分がこの蝶の1匹になったかのような錯覚がした。
『こんなことがお前の男にバレたら、俺は殺されるんだろうな』
『大丈夫だ。だって、僕たちは続かないから』
ゆっくりと跪きながら、幸也は俺の首に両腕を回す。
『今日が最初で最後だ、一海』
凛とした眼差しに迷いは見えない。
恐る恐る細い背中に腕を回して、柔らかな花を抱えるようにそっと抱き寄せる。
その身体は何かに怯えるように小刻みに震えていた。
自分を囲う男に知れるのを怖れているわけではないのだと、わかった。
─── 大丈夫。俺がいるだろ。
幼かったあの頃、生きることに対して臆病になっていた幸也に、俺は事あるごとにそんな言葉を掛けて、その華奢な背中を押した。
『お願いがあるんだ』
鼻先の距離で唇が触れ合う直前、幸也は喰い入るように俺を見つめながら口を開く。
『ひどく抱いてほしい……僕が二度と一海に抱かれたいなんて思えないぐらいに』
いじらしい願いに胸が詰まる。
唇に掛かる熱い吐息を丸ごと食らうように、口づけた。
闇の中で、濡れた音が折り重なり積もっていく。
蕩けるような熱を孕んだ口淫は、巧みに俺を攻め立てて追い詰めていく。
『ん、……ふッ』
鼻から抜けるような声が聴こえて下を向けば、俺の昂ぶりを口で咥え込みながら片手で自らを慰めている幸也の姿が見えた。
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