唇を離すと、幸也は涙を零しながら苦しげに息をついた。
俺はそのまま元来た方へと踵を返す。
「一海……」
背中に絡みつく消え入りそうな声を、強引に振り解く。
「幸也、悪かった」
そうは言ったものの、何に対して謝っているのかもわからない。
別れの言葉さえまともに言えない俺は、薄情な人間だった。
車に向かって歩みを進めれば、助手席に掛けたままぼんやりと遠くを眺めるアスカが目に入った。
魂が抜けているかのような、虚ろな瞳をしている。
心ここにあらずという顔は儚くも美しく、俺の胸を無闇に揺さぶる。
ゆっくりと近づいて扉を開ければ、アスカは我に返ったかのようにこちらを振り向いた。
「早かったね。もういいの?」
「用は済んだ。どこかへ行こうか」
車に乗り込みながらそう切り出せば、途端に花の開くような笑顔を見せる。
「……うん」
こんな言葉ひとつで嬉しそうにしているアスカが、堪らなくいじらしく思えた。
「どこか行きたいところは、あるか」
俺の言葉に、アスカは首を横に振る。
「カズミさんの好きなところでいいよ」
「お前が行きたいところに連れて行ってやるよ。あんな金額でこんなことを任せて、正直なところ気が引けてる。金は受け取ってくれないんだろう。お前のしたいことがあるなら付き合うよ」
俺は、アスカのことが知りたかった。
もしかするとアスカの中に潜む何かは、俺の抱える闇と酷似している気がするからだ。
アスカは少し考え込む素振りを見せる。
「───本当に、僕の行きたいところでいい?」
正面を向いたままそう訊いてくるアスカは、なぜかこれ以上ないほどに、辛そうな表情をしていた。
そして俺は───その横顔に、なぜか2週間ほど前のあの一夜を想い出す。
*****
シティホテルの一室で、俺はソファに掛けてぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた。
窓の向こうに広がる夜の闇で、宝石のように煌めく光の粒は色とりどりに瞬きながら揺蕩(たゆた)う。
その眩しさにゆっくりと目を細めていけば光は淡く滲みだし、やがて瞼の裏へと吸い込まれて消えていく。
俺は自分があの光の中に戻れないことを知っている。
想い出すのは、幼い頃に空と見たプラチナの夜の記憶。
もう二度と戻らないあの夜を、忘れたいと願いながら幾度も反芻してしまう。
背後から、扉が開く音がした。
ゆっくりと歩み寄ってくるスーツ姿の男を、窓ガラスが鮮明に映し出す。
限りなく黒に近いグレーの三つ釦ジャケットに身を包んでいるのは、俺が待ち続けていた男───幸也だった。
かつて家族のように共に過ごした幸也は、まだ僅かに少年の面差しを残す。
『一海、待たせたね』
そう言って俺の隣に腰掛けると、ソファが軽く沈んだ。
『いや。無理を言って、悪かった』
『言われたものは、全部この中に入ってる。 携帯電話と、薬と───』
ローテーブルの上に、幸也が黒いアタッシュケースを乗せる。ガラスの天板にケースがあたれば中身の重さを示すように鈍い音が鳴った。
その鍵を開けて蓋を上げると、目当てのものが目に飛び込んでくる。
ヌメ革色をしたホルスター。その中には、小さな黒い金属の塊が収められていた。
『スミスアンドウェッソンの回転式拳銃だ。足の付かないものを持ってきたから、好きに使えばいい。弾は5発込めてる。余分はまだ、調達できてない』
『5発あれば十分だ』
ケースごと引き寄せて、上からまじまじと眺める。
初めて目にする拳銃は、片手で収まるぐらいの小振りのものだった。
『でも狙って撃つなら、ある程度練習しないと無理だ。どうする?』
俺の顔を覗き込む幸也に、首を振る。
『練習はいい。必ず当たる距離で撃つ』
一瞬目を見開いて、それからゆっくりと眉根を寄せた。
『一海……』
『空の仇を討ちたい。絶対に失敗はしない』
脳裏に浮かぶのは、無惨に死んでいった美しい空の姿。
俺の腕の中でしとどに濡れていた空の亡骸のあの重くぬめる冷たさを、まるで昨日のことのように思い出す。
『ホームにいた頃の空は、天使みたいに優しくてきれいだった。僕は何度も空に救けてもらったよ。空は僕にとっても姉みたいなものだったし、だから一海の気持ちもわかるつもりだ』
そう言いながらもその瞳が揺らぐのは、葛藤があるからだ。
『幸也 ─── 俺は、この手で裁きたいんだ』
真っ直ぐにその瞳を捕らえてそう告げれば、幸也は視線を逸らして俯いた。
『一海は本当、言い出したら聞かないね』
そう言って、少し笑う。その顔が思い掛けずに淋しげで、胸が痛んだ。
『至近距離だと38口径の弾は人体を貫通する。建物の中なら壁や床も通してしまうと思う。だから、相手がベッドに寝ているところを上から撃つんだ。マットレスもある程度はクッションになるけど、ベッドの下に折り畳んだテーブルとか、弾を留めることができそうな硬いものを敷けるだけ敷いてほしい。1階で床を貫通してもいいような状況なら、敷く必要はないけど』
そう口にしながら、幸也は探るように俺を見る。
相手がベッドに寝ているところを撃つ。そんな状況に、持ち込めるのか。
その瞳はそう問い掛けていた。
持ち込むさ、幸也。でもそれは、俺の役目じゃない。
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