「救急救命士? カズミさん、いい身体してるし、似合うと思うけどな」
アスカの言葉を俺は鼻で笑う。
「バカを言うな。所詮ガキの世迷い言だ。夢は夢でしかない」
『じゃあ、一海の夢を叶えるのが、私の夢』
子どもの頃に聞いた空の声が耳に蘇る。
あれはいつだっただろう。
まだ、空が工場で働いていたときのことだ。
『救急救命士の資格が取れる大学か、専門学校へ行けばいいじゃない』
空はあの美しい鈴の音のような声でそう言って、俺に微笑む。
『そのために、私が頑張ってお金を貯めるから。一海はしっかり勉強してね』
けれど、夜の仕事を始めて俺と一緒に住んでいたアパートを出て行ってから、空はもう自分がそんなことを口にしたことさえ忘れてしまった。
少なくとも、俺はそう思っていた。
空が亡くなった後に遺品を整理していたときのことだ。
空名義の貯金通帳を開くと、亡くなる前月まで毎月1度、欠かすことなくかなりの額を送金している記録が残っていた。
送金先は、俺名義の口座だ。
それは空と一緒に暮らし始めた頃、将来の学費を貯蓄するためにと空に作らされた口座だった。
俺はここ何年も、そこから金を降ろすどころか残高照会さえしていなかった。
「カズミさんはそんなお姉さんのことが好きだったんだ」
アスカはそう言って、全てを見透かすかのような瞳で俺を見た。
その眼差しに射抜かれた俺は、堪らず自分の罪を告白する。
「そうだ。血迷ってセックスして、後悔して会わなくなって───次に会ったときは、もう死んでた」
吐き捨てるようにそう言い放てば、重苦しい沈黙が続く。
今まで誰に言うこともなく胸の奥に溜めこんでいたものを思わず口にした俺を、アスカはただじっと見つめていた。
死者を悼むような、静かな眼差しだった。
「カズミさん」
アスカが俺の名を呼ぶ。
「片手で運転できる?」
唐突にそんなことを訊かれて頷く前に、アスカの右手がステアリングに伸びた。
その手が、俺の左手を取って下ろす。
指と指を絡ませながら、美しい顔をあどけない子どものように綻ばせて微笑みかけてきた。
運転しながら手を繋ぐなんて、付き合ったばかりの恋人同士のようだ。
握り返した掌は少しひんやりとしていて、心地いい。
穏やかで優しい沈黙に包まれたまま、俺は車を走らせ続けた。
大きな駐車場に車をとめた俺は、エンジンキーを付けたままドアを開けてアスカを振り返る。
「車の中で待っててくれ」
アスカは俺を見つめながら、僅かに眉を上げた。
「カズミさん、パチンコするの?」
そう言うのも無理はなかった。ここはパチンコ屋の駐車場だからだ。
「まさか。ここで人と会う。すぐ戻る」
頷くアスカを後に、俺は携帯電話を取り出して電話を架けた。
ワンコールで切って足早に店の自動ドアを通過した途端、この空間特有のけたたましい音楽やドラム音が耳を劈(つんざ)く。
騒々しさに顔を顰めながら、歩みを進めていく。
俺はパチンコ店の澱んだ空気がどうにも苦手だった。これほど煩く閉鎖的な場所で、チカチカとせわしなく光るライトを眺めながら何時間もギャンブルに興じ続けられることに感心する。
平日の昼間からパチンコ店に入り浸る奴らの神経が、俺にはわからない。
狭い通路を縫うように通り抜けて、店の奥のトイレまで辿り着く。
トイレの入口には防犯カメラが設置されている。あえてそこに目線を遣らないように、中へと入っていく。
どうやら誰もいないようだった。洗面台の前で腕を組みながらしばらく待っていると、軽い足音が近づいてきた。
「一海」
遠慮がちな声と共に、幸也が姿を現した。
Tシャツとジーンズをラフに着こなすその姿は実年齢より幼く見えて、暇を持て余した大学生のようだ。
そんな幸也の存在感は自己主張することなくこの場所に上手く馴染んでいた。
「待たせたか」
「少しね。お陰で随分負けたよ」
そう言って自嘲気味に笑う。
「確変が1回掛かったけど、それきりだ」
静かな口調で似つかわしくない台詞を言う幸也の顔には僅かに疲労が滲み出ていて、約束よりずっと早い時間からここで俺が来るのを待っていたのかもしれないという気がした。
ズボンのポケットから、小さく折り畳んだ茶封筒に入れたロッカーの鍵を取り出す。
無言で差し出せば、幸也はそれを手早くポケットに押し込んで、上目遣いでじっと俺を見つめた。
「一海……」
「お前の仕事を請けるのは、これが最後だ」
抑えた声でそう告げると、その瞳が小さく揺らぐ。ガキの頃と変わらない不安げな表情だった。
幸也、お前はまだこの世界に怯えてる。
失うことにも、与えられることにも慣れることができずに。
「一海、僕は」
揺れる瞳が、みるみる潤んでいく。
幸也がその続きを言わないように、俺は細い腕を乱暴に掴んで引き寄せる。
小さく開いた唇を、次に出る言葉ごと塞いだ。
「……っ、ん、……」
舌を挿し込み絡ませると、抱き寄せた身体が小刻みに震える。
脳裏に思い浮かぶのは、細く華奢な裸体。この服の下に隠されている痛々しい烙印を、さするように掌でなぞっていく。
俺はきっと、死の直前にお前のことを思い出すのだろう。
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