約束の場所へと向かっていた。 ワンボックスカーの走りが重いのは、トランクの積荷が多いからだ。 細街路を抜けて国道に入り、三十分ほど車を走らせれば指定されたカフェの大きな看板が見えてきた。 駐車場に車をとめて、店の入り口へと足を向ける。高級なスーツは何度袖を通しても身体にしっくりと馴染むことはない。 自動ドアが開いた瞬間案内に来た店員に断りを入れて、店内をざっと見渡す。 客は疎らだったから、すぐに見つけることができた。遠く離れた席から手を上げた男に向かって、ゆっくりと歩み寄っていく。 二人掛けのテーブル席に、その男は一人腰掛けていた。ごく自然な表情で、微笑みかけてくる。俺は空いている方の席に座り、足早にやって来た店員にアイスコーヒーを頼んでから正面の男に顔を向けた。 俺たちを隔てるテーブルの上には、大人の頭程の大きさをした段ボール箱が置かれている。
「今日頼みたいのは、これだ。行き先を書いたメモは後で渡す。ロッカーの鍵はこの中に入ってる」
端的な説明の後で茶封筒を渡される。受け取ってから、その中にある硬く小さな感触を指先で確かめた。 俺を見つめるその瞳には、確かに戸惑いがあった。逡巡しながらも伝えたいことを言うまいとしているのがわかる。 けれど俺は、あえてそれに気づかないかのように振る舞う。
「これが、俺がお前から受ける最後の仕事になる」
若い会社員同士が仕事の話をしている。周りからは俺たちがそう見えているだろうか。 俺を見る眼差しからは物憂げな感情が滲み出ていた。その視線を受けながら、ふと気づく。それがアスカの瞳に浮かぶ翳りとよく似ていることに。
「ねえ、一海」
沈黙を破るその声は、わずかに怯えを含んでいた。
「まだ使ってないんだよね、あれ」
恐る恐る尋ねられて、俺は頷く。
「ああ。大丈夫だ、お前に迷惑は掛けない」
そうは答えたものの、こいつが心配しているのが決して自分のことではないことはわかっていた。 細身のスーツに包み込まれたその身体に消せない烙印が刻まれていることを、俺は知っている。 少し伸びた髪を無造作に掻き上げながら俺をじっと見つめるその顔立ちは、決して人目を引くような華やかなものではない。けれどその顔は、ある種の人間にとっては無性に嗜虐心を掻き立てられるのだろう。 濃い陰の空気を纏うその姿からは、えも言われぬ色気が漂う。両の瞳に浮かぶ陰鬱な光を見れば、この男が多くを諦めながら生きることを選んできたことが窺い知れる。 そうさせたのは、他でもない俺なのかもしれない。 心配性の弟を宥める気分になりながら、俺は口を開いた。
「大丈夫だ。俺のことには構わないでくれ、幸也」
幸也を置いて先にカフェを出てから、店で受け取った段ボールを片手に車のトランクパネルを跳ね上げた。 開放されたそこには、丁寧に梱包された大小の段ボールが山積みに置かれている。 手に持つものを一番奥へと押し込む。傾けたその時に、箱の中で薄いビニールの擦れるような音がした。 それだけで、この箱の中身が何なのか自ずと予測がついてしまう。軽く揺すれば、細かく分かれたパケの中でさらさらと粉状のものが小さく動くだろう。 察することはあっても、俺は決して訊くこともなければこの手で確かめることもない。それが、幸也と俺との間に結ばれた暗黙のルールだった。 車に乗り込んで、エンジンを掛ける。カーナビを設定すれば、目的地まで三時間ほど要すると表示された。 両手でステアリングを握りしめながら、俺はぼんやりと考える。 もしここで警察に捕まれば、俺は一体どうなるのだろうか。
空が出て行ったアパートで独り暮らしをするようになり、俺の生活はみるみる荒んでいった。 初めは心配して頻繁に連絡を寄越していた空も、素っ気ない俺の態度に痺れを切らしたのか段々と疎遠になっていく。 もともと空には俺に構う時間などなかったはずだった。煌びやかなホステスの仕事と、下らない男との不倫。そのどちらも、空にとっては俺よりも大切なものだったからだ。 俺は勉強をすることも、夢を見ることもやめた。高校だけは何とか卒業したが、その頃にはもはや将来のことなどどうでもよくなっていた。子どものときから抱いていた夢は、空と共に俺のもとから立ち消えていた。 俺は定職につこうともせず、アルバイトを転々としながら自堕落な日々を送り続けた。 そんなある日、登録のない携帯電話番号から着信が入る。応答せずに様子を窺っていると、留守番電話に切り替わった。 録音を聴けばそこには俺の名を呼ぶ声が吹き込まれていた。
『一海、僕だ』
星降る夜の記憶。あの施設で空と過ごした日々が走馬燈のように脳裏を駆け巡る。 懐かしい響きは、紛れもなく幸也のものだった。
数日後、待ち合わせ先の小洒落たダイニングバーに現れた男は、俺の知る幸也と随分印象が変わっていた。 カジュアルだが上質な服に身を包んでいるのが一目でわかった。蒸し暑い夏の夜だというのに、生地の厚い長袖を着ている。 少し長めに伸びた髪、憂いを湛えた瞳。俺を見てうっすらと笑みを浮かべるその顔からは、子どもの頃に見せた屈託のなさが消えていた。その姿からは、心なしか仄かな色気が漂う。 俺の前に腰掛けた幸也は、近くを通りかかったウェイターを呼び止めてモスコミュールを頼み、改めて俺に向き合った。
『久しぶりだね、一海』
そう言って、懐かしむように目を細めた。外見や環境が変わろうと、幸也にとって俺と共に過ごした日々は今も良き思い出として存在しているのだろう。
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