「偶然、か」力尽きて眠りについたその顔は、無垢な子どものようにあどけない。腕の中で傷ついた羽根を休める純白の鳥に、問い掛ける。「そんな偶然があると思うか、飛鳥」仄かに熱を放つしなやかな身体を抱きながら、あの日のことを思い出す。『──だから、兄さん』耳元で響くのは、落ち着いたトーンの声。入院中で暇を持て余しての電話かと思えば、とんでもなく恐ろしいことを告白され、挙げ句の果てに。『飛鳥のことを、頼みたいんだ』『馬鹿を言うな、沙生。飛鳥にはお前が必要だ。それはお前が一番わかってるはずだろう』必死に咎めたつもりだった。けれど、年の離れた弟は淡々と言葉を続ける。『兄さん、俺は怖いんだ。どんどん自分が自分じゃなくなっていく中で、飛鳥が哀しむ姿を見続けることが怖い』『沙生』『飛鳥のことは、兄さんにしか頼めない。お願いだ』口調は穏やかだが、聞いたこともないような切実な声だった。『電話で話してても埒が明かない。すぐに行くから待ってろ』『兄さん。今までありがとう』縁起でもない言葉と共に、通話が切れる。忌々しく思いながらエンジンキーを片手に玄関を飛び出す。病院の面会は午後一時からのはずだった。あと三十分ある。車を飛ばせばそれよりもう少し早く着くだろう。沙生は少なくとも飛鳥と会うまでは死なない。そう確信していた。強引な車線変更を繰り返すうちに、ステアリングを握りしめる手に強く力がこもる。沙生、お前は大きな過ちを犯している。全てを知った飛鳥が喜ぶなんて、まさか本気で思っちゃいないだろうな。お前のしたことは、正気の沙汰じゃない。薄闇の中で、時を刻むように規則的な呼吸音が耳に届く。室内を満たすのは、果実にも似た芳香な花の匂いだ。理性を狂わせる危うい香り。だが、当の本人にはその自覚がない。沙生との行為をなぞり、全てを忘れたつもりになって、眠りに堕ちる直前、桜色の唇からこぼれたその名は。『おやすみなさい……サキ……』飛鳥。お前に沙生を忘れることはできない。少しやつれた頬にそっと触れると、微かに身じろぐ。夢を見ているのだろうか。いたいけな寝顔のまま、安らかに微笑んだ。いつかお前は真実に辿り着く。でも、それまでは。わずかに開いた唇に親指で触れて、蜜を吸うように口づける。甘い匂いに引き摺り込まれ、深い海の底へと溺れていく錯覚がした。ここで、お前の見る夢に付き合うよ──アスカ。"Sanctuary Kiss" end - 26 - bookmarkprev next ▼back