「ヒナが一人暮らしをしてた家に行こうか」
座面の低いスーパーカーに乗り込んだ途端、アスカがそんなことを言い出した。 もう午後二時を回ってて、陽射しはさっきよりも弱まってる。
「大学のために上京してきたって言ってたよね。その時に住んでた家は、もう引き払った?」
シートやミラーの調整をしながらそう訊いてくるアスカに、俺は考えながら答える。
「俺、拉致されたような感じでこっちに来たから、多分家はそのままだ。でも別に行かなくていいよ。ずっと家賃も払ってないから強制退去になってるかも。第一、鍵も持ってないし」
嘘だった。鍵は今、持ってる。 家賃は口座引き落としで、口座には残金がいくらかあったはずだ。だからまだ滞納してないかもしれないし、家に俺の荷物がそのまま残ってる可能性はある。 でも、一度家に帰ってしまえば、張り詰めた糸が切れてしまう気がした。帰ったところで、元の生活に戻れるわけじゃない。
「じゃあ、僕の行きたいところに行っていい?」
「好きにしろよ」
今日はアスカの言うことを聞く日。賭けに負けた俺には異議を唱える権利がない。 スーパーカーが滑るように走り出す。車高は低いけど、車幅は結構ある。運転、大丈夫なのかな。 こっちをチラリと見たアスカが、俺の憂いを察したらしく愉しげに微笑んだ。
「大丈夫。免許を取ったときにこの車で練習させてもらったんだ」
「……初心者マークを付けて乗る車じゃないだろ」
アスカにはいちいちびっくりさせられる。 この車に乗ってた男のことを思い出す。昔の恋人のお兄さんとか言ってたけど、それだけの関係じゃないのは間違いない。 高速道路に乗って、滑らかに加速しながら追い越し車線を駆け抜ける。車内には沈黙が続いてた。流れる景色をぼんやりと眺めながら考えるのは、神崎さんのこと。 神崎さんはすごく優しい。経済力もある。俺にとって憧れの人で、一緒にいると安心できる。プレイのときはエッチなとことかも好きだ。 叶わなかった恋の相手によく似た顔をした人。 神崎さんには奥さんと子どもがいる。そんな人の愛人になるのは、道徳的によくないことだっていうのもわかってる。 もしも俺が神崎さんのところへ行けば、一番のポジションじゃないことに不安を感じるかもしれない。愛人なんて何の保証もなくて、すごく脆い立場だ。 でも、神崎さんが差し伸ばしてくれる手を取ってここから出たら、きっと今よりずっとまともな生活が待ってる。 もしもそうなったら、ちゃんとした仕事を見つけて働いて、何年掛かるかわからないけど、立て替えてもらったお金をきちんと返していきたい。 神崎さんのことを好きかと訊かれれば、好きだとちゃんと答えられる。でもその顔を見る度、頭の中にチラつくのは。 無愛想で無骨で無口で、それでいて女癖が悪くて──俺のことが、大嫌いなあいつ。 考えただけで胸が苦しくなる。好きにならなければよかった。忘れたいし、忘れようとした。もう忘れられたと思ってた。なのに、どうしても思い出してしまう。 目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶのは凛とした眼差し。時折見せる優しい笑顔。落ち着いた低い声。
──陽向。
名前を呼ばれた気がして運転席を振り返る。そこにはアスカしかいない。
「ヒナ、僕の知り合いの話をしていい?」
不意にアスカがそう切り出した。フロントガラスに映るのは、どんよりとした曇り空。弱い陽射しが柔らかくアスカに光を届ける。 アスカは前を見ながら、淡々と語り出す。
「僕の知っている人の話だ。その人は、大好きな恋人を追いかけて同じ大学に入った。毎日がすごく幸せだったのに、恋人は突然不治の病になってしまう。しかもね、恋人が最後に選んだのはその人じゃなくて、その人の姉だった。だから、その人は恋人をものすごく責めた。そのせいで、恋人は死んでしまった。そして」
言葉が途切れる。アスカは眉根を顰めながら、押し殺していた息をそっと吐くように言葉を漏らした。
「姉は亡くなった恋人の子を妊娠して、産んだ」
──なあ、アスカ。それは誰の話だ?
「恋人が亡くなった後、その人は姿を消したんだ。だけど、その人のことをずっと捜し続けた人がいた。それがその人の『友達』だった」
友達。その響きに俺はハッとする。
「友達は、その人を捜し出して再会する。でも、その人は友達を選ばなかった。四日間だけ一緒に過ごして別れた。それきりだ」
「その人は、友達のことをどう思ってた?」
俺が口を挟むと、アスカは笑った。無理をして作った笑顔だ。
「好きだったのかな。でも、一緒に居続けることはできなかった」
「なんでだよ」
「幸せになる権利がないから」
ずっと追い越し車線を走り続けてたのに、左車線に移った。下道に出るんだろうか。
「それに……また失うことが、怖いんだ」
俺はアスカの淋しげな横顔を見つめる。何を思ってそんな話をするのか、俺には窺い知れない。
- 24 -
bookmark
|