the 4th day[5/14]

「ヒナが一人暮らしをしてた家に行こうか」

座面の低いスーパーカーに乗り込んだ途端、アスカがそんなことを言い出した。
もう午後二時を回ってて、陽射しはさっきよりも弱まってる。

「大学のために上京してきたって言ってたよね。その時に住んでた家は、もう引き払った?」

シートやミラーの調整をしながらそう訊いてくるアスカに、俺は考えながら答える。

「俺、拉致されたような感じでこっちに来たから、多分家はそのままだ。でも別に行かなくていいよ。ずっと家賃も払ってないから強制退去になってるかも。第一、鍵も持ってないし」

嘘だった。鍵は今、持ってる。
家賃は口座引き落としで、口座には残金がいくらかあったはずだ。だからまだ滞納してないかもしれないし、家に俺の荷物がそのまま残ってる可能性はある。
でも、一度家に帰ってしまえば、張り詰めた糸が切れてしまう気がした。帰ったところで、元の生活に戻れるわけじゃない。

「じゃあ、僕の行きたいところに行っていい?」

「好きにしろよ」

今日はアスカの言うことを聞く日。賭けに負けた俺には異議を唱える権利がない。
スーパーカーが滑るように走り出す。車高は低いけど、車幅は結構ある。運転、大丈夫なのかな。
こっちをチラリと見たアスカが、俺の憂いを察したらしく愉しげに微笑んだ。

「大丈夫。免許を取ったときにこの車で練習させてもらったんだ」

「……初心者マークを付けて乗る車じゃないだろ」

アスカにはいちいちびっくりさせられる。
この車に乗ってた男のことを思い出す。昔の恋人のお兄さんとか言ってたけど、それだけの関係じゃないのは間違いない。
高速道路に乗って、滑らかに加速しながら追い越し車線を駆け抜ける。車内には沈黙が続いてた。流れる景色をぼんやりと眺めながら考えるのは、神崎さんのこと。
神崎さんはすごく優しい。経済力もある。俺にとって憧れの人で、一緒にいると安心できる。プレイのときはエッチなとことかも好きだ。
叶わなかった恋の相手によく似た顔をした人。
神崎さんには奥さんと子どもがいる。そんな人の愛人になるのは、道徳的によくないことだっていうのもわかってる。
もしも俺が神崎さんのところへ行けば、一番のポジションじゃないことに不安を感じるかもしれない。愛人なんて何の保証もなくて、すごく脆い立場だ。
でも、神崎さんが差し伸ばしてくれる手を取ってここから出たら、きっと今よりずっとまともな生活が待ってる。
もしもそうなったら、ちゃんとした仕事を見つけて働いて、何年掛かるかわからないけど、立て替えてもらったお金をきちんと返していきたい。
神崎さんのことを好きかと訊かれれば、好きだとちゃんと答えられる。でもその顔を見る度、頭の中にチラつくのは。
無愛想で無骨で無口で、それでいて女癖が悪くて──俺のことが、大嫌いなあいつ。
考えただけで胸が苦しくなる。好きにならなければよかった。忘れたいし、忘れようとした。もう忘れられたと思ってた。なのに、どうしても思い出してしまう。
目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶのは凛とした眼差し。時折見せる優しい笑顔。落ち着いた低い声。

──陽向。

名前を呼ばれた気がして運転席を振り返る。そこにはアスカしかいない。

「ヒナ、僕の知り合いの話をしていい?」

不意にアスカがそう切り出した。フロントガラスに映るのは、どんよりとした曇り空。弱い陽射しが柔らかくアスカに光を届ける。
アスカは前を見ながら、淡々と語り出す。

「僕の知っている人の話だ。その人は、大好きな恋人を追いかけて同じ大学に入った。毎日がすごく幸せだったのに、恋人は突然不治の病になってしまう。しかもね、恋人が最後に選んだのはその人じゃなくて、その人の姉だった。だから、その人は恋人をものすごく責めた。そのせいで、恋人は死んでしまった。そして」

言葉が途切れる。アスカは眉根を顰めながら、押し殺していた息をそっと吐くように言葉を漏らした。

「姉は亡くなった恋人の子を妊娠して、産んだ」

──なあ、アスカ。それは誰の話だ?

「恋人が亡くなった後、その人は姿を消したんだ。だけど、その人のことをずっと捜し続けた人がいた。それがその人の『友達』だった」

友達。その響きに俺はハッとする。

「友達は、その人を捜し出して再会する。でも、その人は友達を選ばなかった。四日間だけ一緒に過ごして別れた。それきりだ」

「その人は、友達のことをどう思ってた?」

俺が口を挟むと、アスカは笑った。無理をして作った笑顔だ。

「好きだったのかな。でも、一緒に居続けることはできなかった」

「なんでだよ」

「幸せになる権利がないから」

ずっと追い越し車線を走り続けてたのに、左車線に移った。下道に出るんだろうか。

「それに……また失うことが、怖いんだ」

俺はアスカの淋しげな横顔を見つめる。何を思ってそんな話をするのか、俺には窺い知れない。






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