「ごめん。バスタオル、取って」
遠くからくぐもった声が俺を呼ぶ。何が楽しいのか、歩のはしゃいだ笑い声も聞こえてくる。 そういえばバスタオルを用意するのを忘れていたことに気づいて、俺は慌てて畳んであった二枚を引っ掴んで風呂場へ足を向けた。 白い磨りガラス越しに、アスカと歩のシルエットが浮かんでいる。思わず息を呑めば、音を立てて扉が開いた。 白い蒸気に包まれて、しなやかな裸体が視界に飛び込んでくる。 濡れそぼった髪から滴が滴り落ちる。ほんのりと頬が染まっていて、言いようもない色気が漂っていた。 一瞬で下肢に熱が集まって、俺は目を逸らしながらバスタオルを差し出した。心臓が痛いぐらいに早鐘を打つ。
「ありがとう」
今、アスカはどんな顔をしているんだろう。 視線を感じながら、それを確かめることもできずに俺は背を向けて足早に部屋に戻る。
「アスカと一緒に寝る!」
風呂から上がってきた途端、歩がアスカに抱きつきながらそんな自己主張をする。
「おれとアスカはこっち。光希はベッドな」
二人が風呂に入っている間に俺が敷いた布団にゴロゴロと寝転がって、歩は勝手にポジションを割り振っている。まあそれが妥当だとは思うが、いちいち仕切ってくるのが生意気だと思う。 アスカはそんな歩の頭を優しく撫でている。かわいくて仕方ないという様子だ。
「アスカ、寝るときだっこして。すごくいいにおいだから……」
歩は必死でアスカにそう訴える。いつもは生意気な歩の見せる健気な姿は珍しかった。
「いいよ、いっぱいだっこしてあげる」
アスカの言葉に歩は幸せそうな笑みを浮かべる。 お前、アスカをママだなんて思ってないだろうな。歩にそう言いたいのを堪えて俺は立ち上がる。
「俺も風呂に入ってくる」
アスカを必死に求める歩が、まるで自分を見ているようで妙に複雑な気分だった。
突然だった。飛鳥がふつりと大学に来なくなった。同じ時期に、飛鳥の彼氏も見掛けなくなったという噂を耳にしていた。 誰もその理由を知らないようだった。何度か飛鳥の携帯にメールを送ったが、返事はない。電話もしてみたものの、応答もなければ向こうから折り返し架かってくることもなかった。 俺の日常から、飛鳥が忽然といなくなった。心にぽっかり穴が空いたようだった。
飛鳥が大学に来なくなって、一月ほどが経った頃だ。 四限目の講義が終わり、夕暮れが近づいてきていた。家に帰ろうと構内を歩いていた俺は、事務棟から出てくる飛鳥を偶然見掛けた。
『飛鳥』
近付いて後ろから声を掛ければ、飛鳥はビクリと背中を震わせた。こちらを振り返ったその姿に俺は驚いた。一目見てわかるぐらい、痛々しく憔悴していたからだ。飛鳥は今にも泣き出しそうな顔をしながら、虚ろなガラス玉の瞳に俺を映していた。
『光希……』
どうして連絡してくれなかったんだ。喉元まで出かかっていたその言葉を、俺は呑み込まざるを得なかった。
『飛鳥、どうしたんだ』
その問い掛けには答えずに、飛鳥は俺の腕を引っ張った。
『光希、ちょっと付き合って』
俺は飛鳥に連れられて、構内を抜けて行く。 辿り着いたのはOAルームが密集した棟だった。授業が終わって閑散としている。入口の扉から奥へと進んで、導かれるまま入ったのは少人数の講義に使われる小さな教室だった。 飛鳥は後ろ手で扉を閉めて、唇を噛みしめ俯いた。手を伸ばせば届く距離で、俺は飛鳥と向かい合う。
『お願いが、あるんだ』
薄暗い教室で、俺の顔を見上げる飛鳥は悲愴なまでに淋しげで、壮絶にきれいだった。
――僕を……抱いて。
そう聞こえた気がして、思わず俺は訊き返す。
『何……』
『光希、抱いて』
今度は、はっきりとそう聞き取れた。
『冗談はやめろよ』
軽い調子で言いたかったのに、声が震えた。後ずさる俺の首に細い両腕が回る。 俺は気づく。飛鳥の身体から、甘い匂いがいつもよりも強く漂っていることに。果実にも似た花のような匂いが、俺の性欲を刺激する。 きれいな顔が近付いてきて、唇が重なる。俺の中で何かが音を立てて崩れていく。
――飛鳥。どうして俺が必死に築き上げてきたこの壁を、容易く溶かすんだ。
『飛鳥……』
ゆっくりと離した唇に、飛鳥の吐息が掛かった。
『光希、もっと……』
もう、止められなかった。奪うように口づけて舌を挿し込む。躊躇いもなく舌が絡まれば、電流が走ったように頭の中がビリビリと痺れていった。 身体が熱くて堪らない。ふつりと理性が焼き切れる音がした。深く弄るようなキスをしながら飛鳥を壁に押しつける。 シャツを捲り上げて素肌に触れると、飛鳥は僅かに身じろいだ。滑らかな肌は掌に吸いつきながら俺を誘う。
『飛鳥……好きだ』
飛鳥の瞳は熱に浮かされて潤んでいた。
『ずっと、好きだった』
そう囁きながら胸の突起に触れれば、桜色の唇から小さな喘ぎ声がこぼれる。
『……ん……っ、光希……』
薄く目を開けて、飛鳥はうっとりと俺を見る。頬を染めながら俺の名を呼ぶ声に、どうしようもなく欲情する。 華奢な身体を抱きしめながら、右手を下の方へ伸ばしていく。布越しにそこに触れれば、飛鳥は恥ずかしそうに顔を逸らした。 ベルトを外して性急に手を差し入れて直に触れると、飛鳥のものは既に硬く張り詰めていた。そっと握りしめて扱いていくうちに、飛鳥は俯いて身体を震わせ始める。
『あ、あ……っ、みつ、き……ッ』
切なげな声が教室に響き渡る。誰かが入って来たらどうしようとか、そんな冷静な思考は完全に飛んでしまっていた。 手を動かす度に飛鳥の息が上がり、甘い匂いに俺は酔い痴れる。
『あ……、ん、ふ……っ』
キスの合間に吐息混じりの声を漏らす。このまま飛鳥を抱きたい。それだけじゃない。飛鳥の全てを、俺のものにしたい。 その時、耳障りな電子音が鳴り響いた。俺は反射的に飛鳥から身体を離す。俺のではない携帯電話の音だった。
『……出ろよ』
『いいんだ』
飛鳥の瞳が絶望を帯びながら今にも泣きだしそうに潤んでいく。
『光希、やめないで』
『彼氏からじゃないのか』
『……出たく、ない』
掠れた声は怯えたように震えていた。なのに俺は燻る自分の熱を抑えつけるのに精一杯で、飛鳥のことを気遣う余裕なんてなかった。 鳴り止まない着信音を聞きながら、俺は必死に言葉を絞り出す。
『……からかっただけだ。本気にするなよ』
飛鳥がどれだけ彼氏のことを好きか、俺はよく知っていた。だから、この腕の中にようやく捕まえた好きな人を手離した。
『つまらない痴話喧嘩に俺を巻き込まないでくれ』
俯いて次々に涙をこぼす飛鳥を、直視できなかった。
『彼氏とうまくやれよ』
空気が重く冷えた教室に、飛鳥を一人残して出て行く。 それが、俺が見た最後の飛鳥だった。
あの時、アスカはどんな気持ちでいたんだろう。 冷たいシャワーを浴びて、のぼせた頭をしっかりと落ち着かせたつもりだった。 風呂から上がって部屋に戻ると、アスカと歩はひとつの布団で抱き合って眠っていた。起こさないようにそっと近寄って、きれいな寝顔を覗き込む。 長い睫毛が頬に影を落としていた。美しいカーブを描く頬にそっと触れてみただけで、ドクンと心臓が跳ね上がる。
「アスカ……」
名前を呼んでも、起きる気配はない。 形のよい桜色の唇に指で触れて、俺は吸い寄せられるようにアスカに口づけた。懐かしい甘い匂いが鼻をくすぐる。 柔らかな唇と交わす、プラスチックみたいに無機質なキス。 アスカ。俺はもう、迷わない。
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