飛ぶ鳥と書いて、アスカ。奈良の飛鳥と同じ字。 名前の漢字をそう説明して、飛鳥は人懐こく笑った。 『光希』と俺の名を呼ぶ飛鳥の声の響きは、どこか甘くてくすぐったかった。
俺たちは少しずつ仲良くなっていった。この大学では飛鳥のことを知らない者はいないぐらい有名なのに、飛鳥には特定の友達はいないようだった。あえて他人と一定の距離を置き、当たり障りのない付き合いをしている。そんな印象を受けた。 飛鳥は慣れてくるにつれて、俺に気を許すようになってきた気がした。俺は飛鳥のきれいな容姿だけじゃなくて、ちょっと天然なぐらい純粋なところに惹かれていた。二人でいる時間は新鮮で楽しかった。
週に一、二度、一緒に授業を受けて、キャンパスで昼休みを共に過ごす。初めの頃はその程度の付き合いだったけれど、飛鳥といる時間は自然と少しずつ増えていった。飛鳥は気安く話せる友達が欲しかったのかもしれない。その相手として俺はちょうどよかったんだろう。
『沙生、今研究が忙しいんだって。邪魔したら駄目だから。最近なるべく会わないようにしてるんだ』
飛鳥は俺にそう説明して、淋しげな顔をした。 高尾沙生というのが、飛鳥の恋人の名前だった。飛鳥とは家が隣同士の幼馴染みで、この大学の生物理工学部博士課程に在籍している。遺伝子工学を研究していると、飛鳥から聞いていた。 飛鳥が大学で有名なのも、もとはと言えばその彼氏のせいだった。目立つ容姿をした男同士が構内を人目もはばからず手を繋いで歩く姿は、この大学の名物となっていた。 初めは皆、二人のことを好奇の目で見てしまう。けれど当の本人達が仲睦まじくしている姿に、やがて温かく見守りたくなる。そんな不思議な恋人同士だった。
同性の恋人のことは、踏み込むにはデリケートな話題だった。だから俺の方からは飛鳥に彼氏のことを訊かないようにしていた。飛鳥からすれば、だからこそ俺といるのは居心地がよかったのかもしれない。
『家が隣なんだろ。いつでも会えるじゃないか』
『研究室に泊まり込んでるから、帰って来ないんだ』
飛鳥は少し拗ねたような顔をしながらそうこぼした。本当に好きなんだな。そう思うと微笑ましくて、なぜだか少し胸が痛んだ。 飛鳥から時折甘い匂いが漂ってくることに、俺は気づいていた。香水などではなく、飛鳥自身の身体から放たれているその匂いは、時々俺の心を無性に惑わせた。 飛鳥はすごくかわいかった。全然すれたところがなくて、顔だけじゃなく心もきれいだった。俺は飛鳥のことを友達として好きだったから、彼氏とうまくいけばいいと思っていたし応援したかった。
当時、俺には大学に入った勢いに任せて付き合い始めた彼女がいた。でも俺はいつの間にか、彼女のことより飛鳥と彼氏との仲を気にするようになっていた。 ちょっとしたことで一喜一憂しながら彼氏と幸せそうにしている飛鳥を見ることが嬉しい反面、その口から沙生という名を聞く度に、俺は正体のわからないわだかまりを胸に抱くようになっていた。
アスカは歩に誘われるままにブランコに乗り、滑り台に行ってからまた別の遊具に登って、本当によく遊んでやっていた。 夕闇が迫るまで公園で過ごしてから、ようやく帰路に着く。
「こんなに遊んだの、久しぶりかも」
「アスカ、いつも遊ばないの?」
「ううん。でも公園でこんな風に遊ぶことってないなあと思って」
そう言って歩に向ける笑顔は屈託がない。西の空から射し込む夕陽に照らされたアスカの姿は、キラキラと眩しかった。 家に帰ると、泥だらけの歩に俺がシャワーを掛けている間に、アスカが晩ごはんを作り始めた。 一時間も経たないうちにテーブルに並んだのは、子どもが好きそうなメニューだった。チキンライス、エビフライ、コーンポタージュ、付け合わせの温野菜。ワンプレートに盛り付けられた料理は、レストランのお子様ランチみたいにきれいだった。
「すっごくおいしい!」
料理を頬張った途端、顔を綻ばせる歩を見て、アスカは本当に嬉しそうな表情を浮かべた。 口にした料理はどれも子どもの食べやすいような優しい味でおいしい。そういうところもなんとなくアスカらしいと思った。 アスカが食事の後片付けをしている間に、風呂の湯を張って歩の相手をしていると、突然携帯電話が鳴り響いた。ディスプレイを確認すれば、姉からの電話だ。
『歩、いい子にしてる?』
開口一番にそう言うのは、何だかんだで気になっているんだろう。
「ああ、アスカの前ではな」
苦々しく答えると、おかしそうに笑う。
『助かったわ。いいお友達ね』
友達か。曖昧な響きが複雑な気分だった。
『明日の夜までには迎えに行けると思う。また連絡するね』
ふと歩を見れば、またあの掛時計をじっと見上げていた。まだ気になっているようだ。
「歩。ママから電話だぞ」
そう声をかけると、歩は飛び上がって俺の方へ駆け寄り、携帯電話を奪い取る。
「ママ! うん、大丈夫だよ。すっごく楽しいよ」
適当で大雑把な性格だけど、ちゃんと母親してるんだな。嬉しそうな顔でやりとりをする歩を眺めているとそう思えた。そして、歩も歩なりに忙しく働く母親を気遣って頑張ってるんだろう。
「じゃあね。バイバイ」
歩は通話を終えて、携帯電話を俺に差し出した。少し淋しそうな表情だ。 お前は俺みたいな親不孝者になるなよ。心の中でそう呟きながら、俺は小さな手からそっと携帯電話を受け取った。
「お風呂、もう沸いてるよ」
キッチンの片付けを終えて、アスカが部屋に入って来る。途端に歩が弾んだ声をあげた。
「おれ、アスカと入る!」
「うん。そうしようか」
飛びつく歩を抱いて頷きながら、アスカは俺に視線を流す。その瞳が妙に艶かしかった。
「ミツキも一緒に入る?」
「俺はいいよ」
思わず声が上擦った。必死に断る理由を探して口にする。
「狭いから、三人は無理だ」
アスカは軽い気持ちで誘っただけなんだろう。それでも澄んだ眼差しに心を見透かされそうで、俺は慌てて目を逸らす。
「歩は早く寝るから、先に入れてやった方がいい」
そう促せば、アスカは歩を連れてバスルームに向かっていった。
飛鳥と過ごす時間が増えてから、しばらく経った頃だった。
『光希』
次の講義に行こうと教室を移動していると、背後から声を掛けられる。振り返れば、飛鳥がはにかんだ笑顔でこちらに歩み寄ってくるところだった。その隣にいるのは、いつも飛鳥から話を聞く例の彼氏だ。 初めて間近で見た俺は、妙に気圧されてしまう。二人は人目を憚ることなくしっかりと手を繋いでいた。 6歳上だという飛鳥の彼氏は背が高く、整った顔立ちをしていた。醸し出す雰囲気は艶やかで知的だ。この二人が並んでいれば嫌でも目につく。構内で噂になるのは当然だった。
『沙生。友達の光希』
友達という単語がやけに陳腐に聞こえた。高尾沙生は穏やかに微笑みかけてくる。
『飛鳥がいつもお世話になっています』
そんなつもりはなかったのかもしれない。けれど、なぜだかその口調は俺を牽制しているように聞こえた。
『いえ。こちらこそ』
短く答えながら、ジリジリと自分の中で何かが燻るのを感じる。
『光希、またね』
立ち去って行く二人の後ろ姿を眺めながら、俺はこの気持ちの正体が何なのかを考えないようにしていた。
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